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第7話

食事からジェラートタイムに移行し、まったりと限定オレンジショコラのジェラートをつつ……いている場合ではない。

大事な話を忘れている。


「あの、猪狩さん」


「ん?」


大きな口を開けてステーキを頬張ろうとしていた彼は手を止めて私を見た。


「結婚、の話ですけど」


「ああ」


頷いた彼は今度こそお肉を口に入れた。

彼の咀嚼が終わるのを今か今かとそわそわしながら待つ。


「冗談じゃなくて本気で俺はひなちゃんと結婚したいと思ってるけど?」


ごくんと飲み込んで口を開いた彼は、これ以上ないほどいい笑顔で私を見た。

その返事を聞き、頭がくらっとする。

あれは親友の結婚式なんかに出て、そういう気分になっていただけだと思っていた。

本気だとは思わない。


「猪狩さんって実はロリ……」


「それはない」


私に最後まで言わせず、彼は力一杯否定してきた。


「別に昔は可愛い妹としか思ってなかったよ。

子供のひなちゃんに恋愛感情とかこれっぽっちも持ってなかった」


それには安心したものの、僅かばかり複雑な心境だ。


「でも大きくなったひなちゃん、ほんとに綺麗になってて目を奪われた」


眩しいものでも見るかのごとく彼が眼鏡の奥で目を細める。

そう言ってくれるのは嬉しいけれど、その他大勢の男性と猪狩さんも一緒なのかと失望を隠しきれない。


「それ以上に仕事は詮索しないって言ってくれたのが嬉しかったんだよね」


ふふっと小さく口先で嬉しそうに笑い、猪狩さんはハイボールをひとくち飲んだ。


「言っただろ?

仕事が原因で二回も彼女と別れた、って。

でも話せないなら仕方ないってひなちゃんが言ってくれて、ひなちゃんとだったら上手くいくんじゃないかなって思ったんだ」


グラスを置いた彼が、レンズ越しに真剣な目で私を見つめる。


「結婚は早まりすぎっていえばそうだけど。

けど、こんなに素敵な女性に育ったひなちゃんだったら誰かに取られるかもしれないだろ?

その前に俺のものにしとかなきゃって思ったってわけ」


きっと冗談を言って私を揶揄っているだけだと決めつけていた。

そんなふうに彼が考えているなんて思わない。


「だから、さ。

ひなちゃん。

俺と結婚、しよ?」


私を見る猪狩さんの目にふざけた様子はどこにもない。

言い方は軽いが、それだけ本気なのだと感じさせた。

私の外見ではなく、中身でそう決めてくれたのは嬉しい。

しかし、私が知っているのは十年前、まだ高校生だった猪狩さんまでで、しかもその記憶は小さな女の子から見る憧れのお兄ちゃんフィルターがかかっている。


「……わた、しは」


「うん」


期待を込めた目で彼は私を見た。


「今の猪狩さんを知りません。

だいたい、言えないのはわかりますが、仕事もわからない人と結婚するとか、無理ないですか?」


少しふざけ気味に言い、妙に膠着している空気を緩めようと努力する。


「そうだよなー」


はぁーっと憂鬱そうにため息をつき、猪狩さんはテーブルの上に崩れた。


「結婚、となるとひなちゃんにもいろいろ、覚悟しといてもらわないといけないもんなー」


もう一度ため息をつき、彼はグラスに残っていたお酒を飲み干した。


「ん、わかった」


覚悟を決めたかのように彼が、姿勢を正す。

これで諦めてくれたのかと思ったものの。


「俺の仕事のこと、話せるところまで話すよ」


彼はさらに私に自分を知ってもらう方向へと行ってしまった。

猪狩さんってこんなに諦めが悪かったっけ?


「俺は警察官をしている」


ぱっと思い浮かんだのは、制服姿で子供や老人の相手をしている猪狩さんだった。

それはとても彼っぽいと思ったが、次の言葉で打ち消された。


「所属は詳しくは言えない。

でも、町のおまわりさんとか警察24時とかに出てくるような仕事ではないよ」


じゃあなんだと考えるが、警察組織にそんなに詳しくない私には思いつかない。


「それでまあ、死と隣りあわせ……とまではいわないけど、それなりに危険な仕事をしてる。

俺が所属して八年、殉職者はいないが先輩がひとり、重傷を負って退職してる」


「えっと……。

じゃあ、猪狩さんも仕事で大怪我とか、もしかしたら……死ぬ、とかもあるということですか」


それがさっき言っていた、〝覚悟しといてもらわないといけないこと〟なのか。

重い、重すぎる。


「そういうこと。

結婚するって決まったらもっと詳しい話をするけど、だいたい俺の仕事はこんな感じ」


うんと彼は頷いているが、これで結婚するか決めろってさらにハードルが上がっただけですが?


「その。

ちょっと結婚は無理っていうか……」


猪狩さんが普通のサラリーマン、せめて町のおまわりさんなら考えていたかもしれない。

しかし、命の危険があっていつ死ぬかわからないとか言われたら、迷う。


「そうだよな、困るよな」


困ったように笑い、彼はすっかり溶けてしまったジェラートを口に運んだ。


「まあ、わかってたけど」


顔を上げた彼は笑顔だったけれど、それはどこか傷ついているように見えて胸の奥がつきんと小さく痛んだ。


「俺、さ」


悩むように猪狩さんは手の中でスプーンを弄んでいる。


「こんなこと言うとやっぱりロリかよって言われそうだけど、でもひなちゃんの笑顔が好きだったんだ」


そのまま、独り言のように彼の告白は続いていく。


「なんつーか、俺や篤弘に向ける笑顔はこう、信頼しきった屈託のない笑顔でさ。

あの顔がすっごい、好きだった」


そんな子供の頃のことを褒められてもどうしていいのか戸惑う。

それにどうしてそれが今、関係あるのかもわからない。


「篤弘の結婚式の日。

篤弘と話してるひなちゃん、やっぱ昔と変わらない笑顔だった。

つらい仕事のあとでも、ひなちゃんがあの笑顔で迎えてくれたら救われそうだなって思ったんだけど……」


空になっているジェラートの器に彼がスプーンを投げ入れ、カチャンと軽い音がする。


「フラれた、か」


顔を上げた彼は、嘲笑するように顔を歪めた。

そんな理由で結婚を迫られていたなんて知らなかった。

本心を知れば事情も変わってくる。

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