夕食もお詫びになんでも好きなものを奢ってやると言われたが、そこまで食欲はなくて定食カフェで軽く済ませた。
帰りも住んでいるマンションまで、彼が送ってくれる。
「なあ。
ちょっとだけ、寄っていい?」
運転しながら彼が、ちらっと横目で私をうかがう。
「えっと……」
読みかけのBL本とか置いていなかっただろうかと頭の中で部屋の中を凄い勢いで確認する。
「いい、ですよ」
たぶん危険なものはなかったはずとジャッジを下し、了承の返事をした。
「ありがとう」
寄るのはいいが、なんの用事が?
って、考えられるのはひとつしかないわけで。
そうなのか、私はついに猪狩さんとそういう関係になるのか?
もう処女でもないのに、過剰にロマンチックなそういう想像をしてしまう。
「ひな?」
私の様子がおかしいと気づいたのか、猪狩さんが怪訝そうに声をかけてくる。
「ひゃいっ!」
それに慌てて返事をしたが……噛んだ。
「やっぱり無理してるんじゃないのか。
あれだったら月曜に病院へ行ってこい。
俺がついていってやれないのが申し訳ないが」
みるみる彼の顔が険しくなっていく。
そうだよね、あんなことがあったあとだもんね、心配になるよね。
「全然、大丈夫なので」
笑って平気だと振る舞ってみせる。
「そうか?
なら、いいが」
と言いつつ、やはり猪狩さんの表情は晴れない。
ううっ、不審な態度を取ってしまったせいで無駄に猪狩さんを心配させてしまった。
――それに。
運転している彼の横顔をそっと盗み見る。
盗撮被害になんか遭い、怒鳴られ殴られそうになったというのに、今は不思議と落ち着いていた。
きっと猪狩さんが抱きしめてくれたおかげで泣けて、つらい気持ちが涙と一緒に流れてしまったんだと思う。
本当に猪狩さんが一緒でよかった。
近くの駐車場に彼が車を預け、一緒にマンションまで歩く。
「……監視カメラが少ない」
エレベーターに乗り込み、猪狩さんはため息をついた。
「えっと……」
……一応、ついているんですが?
なにか問題でも?
困惑したまま部屋に着く。
「このタイプか!?」
鍵を出したらいきなり手を取られた。
しかも鍵を見てなにやら酷く驚いている。
「えっと……。
どうぞ」
さらに困惑したままドアを開ける。
「邪魔するぞ」
挨拶もそこそこに猪狩さんは部屋の中に入り、あちこちチェックを始めた。
そのあいだにお茶の準備をする。
しばらくして気が済んだのか、彼はソファーに座って大きなため息をついた。
「とりあえずお茶、どうぞ」
「ありがとう」
テーブルに置いたお茶をひとくち飲み、彼はなぜか私の顔を見た。
気に入っている柑橘フレーバーのルイボスティだが、なにか問題があったんだろうか。
あ、もしかしてルイボスティが苦手とか?
そういう人もいる。
「無理して……」
「うまいな、これ」
しかし私の予想に反し、猪狩さんは酷く気に入った様子だ。
「あれか、これがひなが買いたかったお茶か?
確かにこれはコンビニじゃ手に入らないな」
なんだかわからないがわかってくれたようでよかった。
「……ひな」
ひとしきりお茶を楽しんだあと、猪狩さんは深刻な声で私を呼んだ。
「ここ、引っ越さないか?」
顔を上げた彼にいきなりそんなことを言われ、困ってしまう。
「えっと……」
「玄関の監視カメラ。
あるだけであの角度だとなんの役にも立ってない。
部屋の鍵も知識さえあれば簡単に開けられるタイプだ。
しかも二階だし、エアコンの室外機とか足場に俺なら簡単に登って侵入できる」
「え……」
引っ越すべき理由を聞いて、みるみる血の気が引いていく。
もしかして私、ものすごく危険な環境に住んでいる?
「で、でも、今までなにもなかったし……」
しかしそこまで言われてもまだ、信じられなかった。
「別れた上司が出入りしていたからじゃないか。
ひなを泣かせて殴り飛ばしたい最低男だが、そこだけは感謝だな」
「……泣いてはない、もん」
訂正しながらも、猪狩さんと同じ思いだった。
おかげで防犯になっていたとは思いもしない。
「そんなわけでひな。
ここ、引っ越さないか」
「早急に考えます」
真剣に猪狩さんが私を見つめる。
いつ、なにかあってもおかしくない環境とわかれば、今すぐにだって引っ越したい。
「引っ越しはもちろん手伝うし、物件探しもあれなら俺もする。
まあ、一番は」
猪狩さんの手が私の左手を持ち上げる。
「今すぐ結婚して俺と一緒に住むところを探す、だがな」
ここに指環を嵌めたいとばかりに彼は、私の左手薬指に口づけを落とした。
「あ、えと。
それはもう少し、考えさせて……ください」
「そうか。
残念」
右頬を歪め、彼がにやりと笑うのを見てかっと頬が熱くなった。
揶揄われている!
相手が十も年上だと、いいように手のひらの上で転がされてしまう自分が憎い。
「ひな」
話が一段落したところで、猪狩さんは今日買った指環を取り出した。
「右手、出して」
彼が左手を出し、この上にのせろと促してくる。
「え、自分で着けますよ」
「いいから」
急かすように軽く手を揺らされ渋々、自分の右手を彼の左手にのせた。
すぐに薬指に指環が嵌められる。
「ひなはとりあえず、俺のものだって印」
彼の指がそっと、指環を撫でる。
「本当はこっちに着けたいけど」
もう片方の手で私の左手を取り、今度はそちらの薬指の根元を撫でた。
「今はこれで我慢」
彼の手が私の右手を持ち上げる。
レンズ越しにじっと目をあわせたまま、見せつけるように彼はそこに嵌まる指環に口づけを落とした。
たっぷりと余韻を持って唇が離れる。
手を下ろすあいだも視線は結ばれたまま途切れない。
知らず知らず、吐息が甘くなっていくのを感じた。
ゆっくりと彼の顔が私へと近づいてくる。
「……キス、していいか」
甘美な重低音が鼓膜を揺らす。
まるでそれに酩酊したかのように黙って頷いた。
彼の手が私の肩を掴む。
見上げて眼鏡の向こうに見えた瞳は熱を孕んで潤んでいた。
誘うように顔を上げ、目を閉じる。
すぐに薄いけれど形のいいあの唇が私の唇に触れるのがわかった。
たったそれだけなのに、幸せな気持ちが私を包んでいく。
少しして唇が離れ、まぶたを開けるとまだ満足していない彼の顔が見えた。
もっとしてもいいよと再び目を閉じる。
何度も何度も触れるだけの口づけがもどかしくて、自分からねだるように唇を開いていた。
彼も同じ気持ちだったらしく、すぐに侵入してくる。
夢中になって猪狩さんを求め、猪狩さんも夢中になって私を求めてくれた。
彼の腕が私の身体にかかり、ぐいっと自分のほうへと引き寄せる。
次第に身体は傾いていき、気づいたときにはソファーに背中がついていた。
「ひな……」
私の頬に触れ、見下ろす猪狩さんの視線が熱い。
やはり、そうなるのだと期待したものの。
「今日はここまでな」
「ふがっ!?」
いきなり鼻を摘ままれ、変な声が出た。
「なにを期待してたんだ?」
「うっ」
意地悪く笑われ、声が詰まる。
てか、自分だって興奮していたくせに!
「ひなが俺と結婚するって決めるまで、俺はひなを抱かない」
それっていったい、なんなんだろう。
猪狩さんなりのけじめなのかな。
でも、それだけ私を大事にしたいんだっていう気持ちだけはわかった。
「だから、そのときを楽しみにしとけ。
……俺は凄いからな」
意味深に耳もとで囁かれ、顔からぼっと火を噴いた。
近所の交番の電話番号を登録させ、なんかあったらすぐ連絡と私を心配しつつ猪狩さんは帰っていった。
ひとりになり、ソファーにぽすっと寝転ぶ。
「……ふふっ。
ふふふふっ」
右手薬指に嵌まる、シルバーの指環を見てつい笑ってしまう。
自分からねだったとはいえ、男の人からこんなプレゼントをもらうのは初めてだ。
しかも相手があの、猪狩さんとなると。
「どうしよう。
幸せすぎる」
奇声を発しそうになってぬいぐるみで抑えた。
猪狩さんが好きだ。
でも、結婚となるとあと一歩、勇気が出ない。
「猪狩さんの本当のお仕事、知らないからかな……」
右手を上げ、指環を眺める。
知ったら私はそのとき、どう決断を下すのだろう?