たまたまその日は仕事の関係で、滅多に使わない駅へ用事があった。
「あ、落とされましたよ」
前を歩いていた女性が、カードケースを落とした。他に声をかける人が現れなく、柄にもなく女性に声をかけた。
「あっ、ありがとうございま……あれ?君は……」
落し物を渡してさっさと立ち去ろう、なんて思っていた俺はその声で初めて女性の顔を見る。そこにはよく知っている、けれど、とても懐かしい顔があった。
「あ……お久しぶりです。先輩」
同じ部活の先輩。委員会でもお世話になった先輩。俺の高校生活を語るにあたって、なくてはならない存在。そして──
「はい、これ。私の連絡先」
「では、来週」
「うん。またね」
──俺の初恋の人。
「まさか、この年で再会するとは思わなかったよー」
「先輩……飲みすぎですって」
駅での再会から1週間後。俺と先輩はとある居酒屋に来ていた。
「いいんだよー。今日は金曜日なんだから」
「それにしたって飲みすぎですよ……」
個室タイプの普通の居酒屋。久しぶりだからと、どちらかともなく今日の約束をした。
高校を卒業した後の話。大学での話。今の仕事の話。いろいろな話をした。色々な話を聞きたかった。10年近く会っていなかった人。それでも、記憶の中の先輩と何も変わっていなかった。
もちろん先輩の新しい一面も見れた。人混みの中を胸をはって歩く、堂々とした姿。上司からのプレッシャーに耐えながらも、弱音を吐く弱い姿。色々な新しい先輩を見れた。
先輩の新しい姿を見つける度に、なぜか嬉しかった。
「まだまだ飲むぞー」
「勘弁してください……」
酒豪だったのは……少し予想外だったけれど。
「ぎもぢわるい……」
今にも吐きそうな先輩に肩を貸し、店を出る。
人混みを避けながら、先輩の指示する通りに歩みを進める。こうなることが分かっていたから、先輩の最寄駅の居酒屋にしたのか──と心の中でため息をつく。
「うぅぅ……」
肩を貸しているということは、密着しているわけで。先輩の髪からは、1日の終わりだというのに良い匂いがする。それが、記憶の中の先輩と被り少し昔を思い出す。しかし、そんな記憶の旅も酒臭さのせいで現実に呼び戻される。
「タクシーでも呼びましょうか?」
「いや……風に当たれば……そこ曲がれば河川敷だから」
先輩の言葉通り指示された通り道を曲がると、そこは河川敷だった。夜の河川敷には誰もいなく、静寂そのものだった。
「ありがとね。ここからは一人で歩けるから」
そう言って、先輩は回していた腕を離す。
なんだかんだ言っても密着できていた時間が嬉しかったのか、先輩が離れたと同時に、あっ──と声が漏れてしまった。
「ん?どした」
「あっ、いや何でもないです。それより、ここからどう行けばいいんですか?」
「あれ、送ってくれるのかい?」
「まぁ……先輩も一応女性ですので」
「え?一応?」
送っていくのは、もっと一緒にいたかったから。それを自覚して、恥ずかしくてちょっとした悪態をつく。
先輩も、俺の悪態が冗談だと分かったうえで文句を返す。
一緒にいて心地が良い関係。これが好きで、先輩とよく一緒にいた。一緒にいて、俺が先輩のことが好きなんだと気が付くのに時間はかからなかった。気付いたところで、告白できる勇気を持っているかは別だったけれど。
「こうやって、二人で歩くのも久しぶりだね」
ちょっと先を歩いていた先輩が振り向き、笑いかける。その笑顔を見てやっと気が付く。あぁ、俺は今でも先輩のことが好きなんだ──と。
でも、今も昔もその気持ちを伝える勇気なんて持ち合わせているわけもなく、ただその笑顔を見つめている事しかできなかった。
「え、私はなんでそんなに見つめられてるの」
「自意識過剰ですよ」
結局、俺の口からでるのは素直な気持ちではなく、小学生みたいなカッコ悪い悪態でしかなかった。
「君は昔から、私に酷くないか?」
「先輩にだけですよ」
好きな子に意地悪をしたくなる小学生男子のような態度。
いくら意地悪をしたところで、気持ちが通じるわけでもない。それが分かっていたって、気持ちを伝える事は出来なかった。俺が臆病だったから。俺に自信がなかったから。俺に……俺が、先輩と出会うのが遅かったから。
「先輩」
「んー?どしたー」
酔っているからなのか、楽しそうに俺の前を歩く俺の好きな人。今も昔もずっと好きだった人。
そして、いつも誰かの──。
「俺、先輩のこと──」
「なんで私たちは、いつも間が悪いんだろうね」
先ほどの楽しそうな声とは違った、少し悲しそうな声で先輩は俺の声を遮った。
先輩ゆっくりとこちらを振り向く。
「二つ違いって大きいよね。私が3年になって、やっと君が入学して来るんだもの。そりゃぁ……自分の気持ちに気が付いた時は、私は卒業だわな」
振り向いた先輩の顔は、声と同様、とても悲しそうな表情をしていた。
「あーあ、ほんと……なんで、また会っちゃうのかなぁ」
先輩を何を言っているのだろうか。
いや、そもそも俺は何を言おうとしたのか。
「ねぇ……私の気持ちは、もしかして独りよがりなのかなぁ……もし違うならさ──」
先輩がゆっくりとこちらにやってくる。先輩は今にも泣きそうで、今にも崩れ落ちそうだった。
受け止めてあげたい。いや、受け止めたい。そんな気持ちが心の奥底から湧き上ってくる。
「私さ……ずっと君のことが──」
その言葉の先を聞きたい。そもそも、最初に言い出そうとしていたのは俺の方なのに。
あぁ……先輩好きです。ずっと、ずっと好きだでした。今にも口から溢れそうな、そんな素直な気持ち。でも、そんな気持ちを飲み込み先輩の左手を見る。
そして、先輩が望む上辺だけ綺麗な言葉も飲み込み、代わりにとても残酷な言葉を放つ。
「先輩。旦那さんは、好きですか?」
「っ!」
それは、今の先輩にはとても残酷な質問だろう。何かを言おうとしては口を閉ざす。先輩だって分かっているのだろう。その言葉を俺に伝えることが、どれほど良くないことなのか。もう、昔のように恋愛ごっこではないのだから。
「わ、私はっ──」
「先輩」
俺はなんてずるいんだろう。
元をたどれば、俺の方から言おうとしたのに。そもそも、駅で出会った時に気付いていたのだから誘うべきじゃなかったのに。
俺は結局、先輩を傷付けてしまっただけではないか。
「先輩。また……また、飲みにでも誘ってください」
きっとこの『また』は訪れない。先輩もきっと分かってる。現にさっきまで持ちこたえていた涙が、頬を伝って零れ落ちている。
「先輩」
いつも優しく、時には厳しく俺に色々な事を教えてくれた先輩。部の代表として、委員会の代表として、常に胸を張って皆の前を歩いていた先輩。俺の高校生活を語るにあたって、なくてはならない存在。
そんな先輩が、嫌だと言わんばかりに頬を濡らしている。でも、先輩は頭が良いから。その握りしめた掌てのひらを、伸ばすことが良くないことを理解している。
「先輩と出会えて、幸せでした」
きっと、もっと突き放す言葉を言うべきなのだろう。それを言えない俺は、最後の最後まで最低な臆病者だと思う。
「今まで、ありがとうございました」
頭を下げ、そして先輩に背を向ける。
静寂に包まれた河川敷。そのおかげか、少し歩いた先で、後ろから小さな声が聞こえた気がした。
「私の方こそ……今までありがとう」
家まで送るとか言っといて、結局その言葉を守ることが出来なかった。俺と別れたあと、無事に家に帰れたのか、といつか聞くことがあるだろうか。
そんなことを考え、つい後ろを振り向いてしまった。でも、河川敷にはもう俺以外は誰もいなかった。
「あー……さむっ」
先ほどまで寒さなど感じなかったにも関わらず、急に寒さが体を襲う。
「酒が……抜けたかなぁ……」
隣にあった温もりを忘れるように、俺は一人、まだ空いている居酒屋を探して元来た道を辿り繁華街へと歩みを進めた──。