世界史の授業は、意識を保っているだけで精いっぱい。先生の声は呪文かお経のように頭の中を通り過ぎていく。
「
名前を呼ばれた。でも頭が半分寝ていたので反応が遅れた。
「
「はいっ!」
私の周りでくすくす笑いが起きた。
「ウィーン会議においてタレーランが唱えたウィーン体制の原則。これを何と呼ぶ?」
「せ……正統……主義……です」
杏野樹里=盗賊のアンジュは動悸がする心臓を懸命に鎮めながら答えた。
「そうだ。これによって自由主義やナショナリズムを
またくすくす笑いが起こる、樹理はそこそこ学業の成績は良いのだ。学年でも20位以内だから母もほぼ放任状態にしてくれている。これが50位あたりまで下がってしまったら、あれやこれやで様々な干渉が始まるだろう。
授業が終わると、特に何もなければ樹里はとっとと教室を出てしまう。いわゆる『帰宅部』だ。だが当然真っ直ぐ家に帰るはずがない、まるで予備校に向かうように代々木の駅で電車を降りる。だが向かうのは予備校ではなく、ワイルドネスハンターの
まだ夕方と呼ぶには早い時間なので接続ブースには空きがあった。エントリーにWHカードをかざす。きのう
『ANJE』とプレーヤーネームが表示され、パスを打ち込み生体認証を受ける。
『Welcome to the Wilderness』
メッセージが表示されて、接続ブースの番号が印刷されたレシートが出てくる。アンジュはそれを抜き取ってからWHカードのポイントを使って自販機で乳酸飲料のペットボトルを買う。
接続ブースに入るとドアの鍵をしっかりかけて、リュックからタオルを出してゲーミングチェアのヘッドレストにかける。肘掛けやヘッドセットで肌に触れる部分とタッチパッドは、アルコールティッシュでしつこいほど拭く。
モニターの電源を入れてカードリーダーにWHカードを置くと、再び『Welcome to the Wilderness』のメッセージが表示された。キーボードとタッチパッドで、これからチャレンジしたいクラスを選ぶことができる。
「Aの……砦07。いや……」
今日はポイント稼ぎよりも、もう一度ムラマサに会うことが目的だった。会社員だと言っていたので、たぶんもうすぐアクセスしてくるだろう。あんなプレーヤーは間違いなく毎日来るはずだ。
アクセス先を『村5』にして、攻略フィールドは空欄にしておいた。村に入ってからでもフィールドは決められる。ブースで決めておくのは予約みたいなものだ。樹里はヘッドセットをつけて、ゲーミングチェアを大きくリクライニングさせた。
「アンジュ、ログ・オン」
小さな声でヘッドセットのマイクにそう告げると、真っ暗だった視界が見慣れた部屋の中に変わった。杏樹はブースのゲーミングチェアではなく、薄暗い小部屋で作り付けのベンチに腰を下ろしていた。
ここはもうワイルドネスのゲーム内で、『チェンバー』呼ばれる場所だ。アクセスしたプレーヤーは皆ここで目を覚ます。
シーフのANGEになった杏野樹里は、立ち上がって衣服をチェックした。データでしかないこの体でもそうせずにはいられない。薄っぺらい木のドアを開けてチェンバーを出る、廊下を歩くと床板がきしむ。その音が、ここが通常の世界ではないことを告げている。
「プレーヤーアンジュ、またお目に描かれて嬉しいわ」
廊下の突きあたり。エントランスのカウンターで、コンシェルジェの女性がアンジュに笑いかけた。時代も知れないワイルドネス世界で、このAI女はなぜかリアル現代のホテルにでもいそうなスーツ姿だ。なぜこんな仕様にしたのか、誰もが首をかしげる。
「装備、コンポジットボウ。矢を20本追加。ナイフとストリング、ショルダー」
「かしこまりました。携行品はどうなさいますか?」
「鈎棒、針金ひと巻、ポーション2、メディスン2」
『ポーション』は体力回復アイテムで、『メディスン』はレベルⅡまでの身体ダメージを1ランクだけ修復できる。ポーションほど役に立つ場面はないので『気休め』と呼ばれているが、シーフにとっては手の疲労を取り除いて解錠ミスを防ぐ重要なアイテムだ。
ポーションもメディスンも手持ちがあったが、矢は昨日使い切ってしまったのでポイントでの支払いになった。
「この分、何かで稼げないかなー」
ぼやきながらアンジュはエントランスカウンターから離れて外に出た、チェンバーとエントランスがあるここは『宿屋』と呼ばれている。
ここで身につける武器を選んで、フィールドにでる前に番小屋で受け取るのだ。ここでチャレンジするフィールドを選ぶことも変更することもできる。
「さてと……」
『井戸の広場』に出て、アンジュはあたりを見回した。『花売りの女』が笑みを浮かべながらやってきた。
「なにかご用はありませんか?」
バスケット一杯に花を盛り付けた女がアンジュのそばに来て言った。この『花売り女』もAIで、村の案内やパーティメンバーが足りない時のマッチングまで手配してくれる。
「ソロの戦士探してるの、名前はムラマサ。昨日はカブキチョウからアクセスしてた」
「今日はまだアクセスなさっていません」
花売りの女は瞬時に答えた。
「来たら知らせて」
アンジュは宿屋の前でベンチに座っているプレーヤー達から離れた。そこにたむろしているプレーヤーはほとんどが『傭兵』と呼ばれるフリーの戦士で、メンバーが不足しているパーティに雇われて稼ぐ連中なのだ。
『花売り』にマッチングを頼むとランダムに選ばれる上に手数料がかかるので、ここで対面交渉して選ぶパーティの方が多い。
アンジュは酒場横の草地に座ってムラマサがアクセスしてくるのを待った、ここは他のメンバーを待つプレーヤーが使う場所だ。何とはなしにそんな決まりごとが出来上がっていた。
フィールドに出ていくパーティや帰ってきたパーティの様子を眺めていると、花売りの女が近づいてきた。
「ムラマサ様がアクセスなさいました。いまエントランスで手続きなさっています」
「ありがと」
アンジュは立ち上がって宿屋に走った。