1人目:田中一郎(サラリーマン)
「田中ぁ!この資料、売上予測が完全にデタラメだぞ!夢見てんのか?」
中堅商社の小さな会議室に、山本部長の怒号が響いた。
田中一郎、38歳。営業チームのチーム長。 ──という肩書きは、ただの飾りだ。実質は雑用係。資料作成から謝罪回り、若手社員の尻拭いまで、全部自分に回ってくる。
今、その資料のミスで怒鳴られている。売上予測の数値が、去年の実績から大きく外れていた。理由は簡単。経理からの最新データが届いていなかったのだ。
「す、すみません……」
絞り出すような声で謝ると、部長は大きく息を吐いて書類を机に叩きつけた。
「注意力が足りんのは、お前のクセだぞ。いい加減、自覚しろよ」
冷たい視線が会議室のあちこちから刺さる。 同期の佐藤は、何も言わずに苦笑している。彼は先月、部長代理に昇進した。いつの間にか「仲間」ではなくなっていた。
昔、田中にも夢があった。
地元の静岡にあった老舗の茶屋を継がず、東京で一旗揚げると豪語して上京した。 「サラリーマンなんてやりたくない。俺は何かを動かす人間になる」
──その言葉に惹かれて結婚してくれた妻・明美は、今、団地のリビングでため息ばかりついている。
「もう転職したら?その会社、あなたに合ってないんじゃない?」
あの頃、「あなたの夢、応援する」って笑ってくれた声とは、まるで別人のようだ。 6歳になる娘・美咲の学費、住宅ローン、食費、光熱費……。自分の“夢”なんて、とっくに生活費に溶けて消えた。
仕事を終え、帰りの埼京線。吊り革につかまりながら、田中は窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。疲れている。心底。娘・美咲の「今日もパパ遅いの?」という声が、頭の奥で反響する。妻・明美の「転職したら?」というため息も、胸に重くのしかかる。
ふと、視界に飛び込んできたのは、車内に貼られた選挙ポスターだった。「日本を動かす力!」と堂々と掲げられたキャッチコピー。隣には、総理大臣・大泉晋太郎の顔。イタリア製のスーツ、完璧なネクタイの結び目、真っ直ぐな視線。まるで自信の塊だ。
「……こういうやつは、怒られたりしねえんだろうな」
口の中でつぶやく。部長に怒鳴られ、妻に呆れられ、娘に寂しそうな目で見られる毎日。そんな自分とは、住む世界が違う。
「偉ければ、全部許される。間違えても、誰も何も言わねえ」そう思った瞬間、違和感が走った。
ポスターの大泉の額に、うっすらと光沢が浮かんでいる。まるで汗のように、一滴、つう……っと印刷物の縁を流れ落ちた。あり得ない。ポスターなのに。さらに、その目が、かすかに泳いだ気がした。
「……え?」
電車の揺れが、ピタリと止まる。つかんでいた吊り革が、風もないのにゆっくり揺れる。ざわめいていた乗客の気配が消え、車内は異様な静けさに包まれる。蛍光灯がチカチカと明滅し、ポスターの端がピリピリと音を立てて震える。
パシャッ——
フラッシュのような、乾いた破裂音が響く。車内の空気が冷え、息が白く滲みそうになる。ポスターから白い光が漏れ出し、視界がぐにゃりと歪む。まるで会議室の冷たい空気が、電車ごと飲み込むかのようだ。
次の瞬間、そこは首相官邸の記者会見場だった。
怒号とフラッシュが飛び交う中、壇上には大泉晋太郎。スーツの襟が汗で濡れ、原稿を握る手がわずかに震えている。テレビで見る堂々とした姿とはまるで別人。怯えた目で記者たちを見据え、逃げ場のない壇上に立っている。
(……この人も、怒られてる……?)
田中の胸が、かすかに軋んだ。まるで自分の資料を叩かれた会議室の重い空気が、ここにも漂っているようだった。
【次回予告】
次に怒られるのは、あの総理大臣・大泉晋太郎。 完璧に見える彼にも、届かない言葉、報われない努力、失われた信頼があった。 それでも彼は、マイクの前に立ち続ける。