アドルフ・ヒトラーには、自分の絵に対する絶対的な自負があった。誰がなんと言おうと、自分の作品には価値がある。
——ただ、それを理解できる目を持った人間が、これまでいなかっただけなのだ。
過去の美術学校での落選も、評論家たちの冷笑も、すべては見る目のなさが原因だった。だからこそ、今回の展覧会こそが、自らの芸術的才能を証明する機会になる——彼は、そう確信していた。
なぜなら、その展覧会では一切の作者名が伏せられている。肩書きも、過去の経歴も、あらゆる先入観を取り払った「純粋な審美眼」だけが試される。
それは、ヒトラーにとってまさに天啓だった。いや、歴史に対する復讐の機会とすら言えた。
「今度こそ……今度こそ、私の絵が評価される……!」
血が騒いだ。胸が熱くなった。この時を、どれほど待ち望んできたことか。
◇ ◇ ◇ ◇
時をさかのぼること、一か月前。
目を覚ましたヒトラーは、見知らぬ街に立っていた。コンクリートのビルが林立し、人々は手のひらに光る板を掲げながら歩いている。巨大なスクリーンには、知らない言語と、けたたましい音楽。まるで悪夢のような風景だった。
「ここは……どこだ?」
言葉も通じる。通貨も使える。だが、カレンダーに表示された西暦を見て、彼は絶句した。
2024年。
理由は分からない。神の悪戯か、あるいは歴史が自分を嘲笑うために仕組んだ罰なのか。だが、ここにいる以上、受け入れるしかなかった。
街の図書館で歴史書を読み、自分の結末を知ったとき、ヒトラーは一瞬、手が震えた。だが、次の瞬間には不敵に笑った。
「……やはり、政治などやるべきではなかったのだ」
彼にとっての真の後悔は、政治家としての失敗ではない。画家としての評価を得られなかったこと。それこそが、彼の誇りを最も深く傷つけていたのだ。
「私は、芸術家として世界に名を残すべきだったのだ……!」
◇ ◇ ◇ ◇
数日後、ヒトラーの元に、ある案内状が届いた。美術団体の名を騙ったスパムかと疑ったが、内容を読み進めるうちに、彼の心臓は高鳴りはじめた。
《あなたの絵には、現代にはない強度があります。ぜひ、我々の主催する展覧会にご出展ください。作者名は伏せた上で、来場者による投票にて選考を行います》
ヒトラーは、思わず立ち上がった。手紙を握りしめ、震える声で呟く。
「……ついに、私の時代が来たのだ」
準備は万全だった。彼はスケッチブックを開き、かつて描いた都市風景の数々を見返した。静謐な線、精緻な遠近法、丁寧な陰影。批判された「写真のような退屈さ」など、彼には誇るべき技術に過ぎなかった。
「ピカソなど、子供の落書きだ……」
彼の声には、皮肉よりも哀しみが滲んでいた。なぜ、技術が正当に評価されないのか。なぜ、歪んだ顔や奇形の人体が“芸術”と持てはやされるのか。
だが、今度こそ違う。誰も名前で判断しない。作品そのものだけを見て、点数をつける。これ以上公平な審査があるだろうか。
ヒトラーは震える手で、最新の絵を丁寧に梱包した。
淡い鉛筆の線。控えめな色使い。人影のない、冬のウィーンの街角。——それは、どこか寂しげで、誠実で、凍りついた時間の中にあるような絵だった。
◇ ◇ ◇ ◇
展覧会当日。来場者の数は予想以上だった。
人々は静かに絵の前に立ち、小さなタブレット端末で好みの作品に点数を入れていく。
ヒトラーは何度も人混みをかき分けて、自作の絵の前に立った。誰かが立ち止まるたび、心臓が高鳴った。
「どうだ、見ろ……。これが本物の絵だ……!」
見学者の中には熱心にスケッチする若者もいれば、じっと立ち止まって動かない老人もいた。ヒトラーはその様子を目に焼き付け、満足げに頷いた。
間違いない。今回は手応えがある。
そして、選考期間は静かに幕を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇
発表当日。ホールのスクリーンに、上位入賞者の番号が映し出されていく。
——三位。
——二位。
そして、大賞の文字が現れた。
ヒトラーは拳を握りしめた。
だが、表示されたのは、自分のエントリーナンバーではなかった。
数秒後、彼の番号が「佳作」の欄に出てきた。まるで、申し訳程度に加えられたような、そんな扱いだった。
しばしの沈黙。彼はゆっくりと、深く息を吐いた。
「……ふん。まあ、当然か。確かに、あの作品も悪くはなかった」
そう呟く彼の声には、悔しさよりも、妙な納得があった。認めざるを得ない何かが、そこにはあったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
数日後、展覧会の公式サイトに、受賞者の名前が公開された。
ヒトラーは静かにマウスを動かし、大賞受賞作品の紹介ページを開く。画面には、街の夜景を抽象的に表現したデジタルペイント。光の粒が滲み、輪郭を曖昧にしながら、まるで記憶の断片のように描かれていた。
——確かに、いい作品だ。
自分には描けない。けれど、どこか惹かれるものがある。
彼はスクロールし、作者名の欄を見つけた。
そこには、こう書かれていた。
「この作品はAIによって自動生成されました」
ヒトラーは、しばらくその文字を見つめていた。そして、肩を落とし、誰にも聞こえない声で呟いた。
「私は、また……時代に敗れたのか……」
その目には、怒りもなければ、悲しみもなかった。ただ、深い諦念と、そしてほんの僅かな羨望が漂っていた。