「アルスーン・フリュス将軍ほど我が国に貢献している者はいない。その働きには余も満足している。そこでだ、これまでの功績をたたえ褒美をやろうと思う」
広間に王の言葉が響いた。
「連れて参れ」
王の言葉に奥から王付きの侍従が現れる。その後ろにもう一人、人影があった。現れたその人物は、東側の地域で見られる独特の衣装を身に纏っていた。ただし顔をベールで隠しているため年齢や性別はわからない。
「昨年手に入れた神華の国の戦利品だ。孕めば妃の一人に加えようかと思っていたが一向に孕む気配がない。年も二十六と
王の言葉に初めて広間にざわめきが広がった。侍従の後ろに立つ人物が誰かわかったからだ。
「褒美として、戦利品のΩを将軍に下げ渡す」
王の言葉にさらにざわめきが大きくなる。「これでは将軍は
(本格的に目障りになってきたということか)
そうした気配はこれまでにも何度か感じたことがあった。
(最初に違和感を覚えたのは婚約破棄のときだった)
十年前、アルスーンが二十九歳のとき王の従妹にあたる姫との婚約話が突然持ち上がった。中流貴族でしかない自分にはふさわしくないと辞退しようとしたものの、誉れ高いことだと親族や周囲の説得もあり受けることにした。ところが婚約の書状を交わした半年後、唐突に婚約が破棄された。婚約の話が出たとき同様、理由は聞かされていない。
(次は辺境の地を任されたときだったな)
六年前、突然辺境の地に赴くようにとの命令が下った。そこは隣国との小競り合いが三年余り続いていた面倒な場所で、それまで何人もの貴族や軍人が任に就いたが解決の糸口すら見つかっていない。そんな場所でも領主というのは高貴な立場だ。当時、大隊長でしかなかったアルスーンには分不相応な地位で、しかも選ばれた理由すら教えてもらえなかった。そのときアルスーンは初めて「自分は誰かに邪魔だと思われているのではないだろうか」と考えた。
しかし考えたところで思い当たる相手はいない。ただの勘違いかと思いつつ、不慣れな土地へと赴いた。
昔から真面目な性格だったアルスーンは、見知らぬ土地での慣れない任務にも根気強く対応した。周囲に気を配るだけでなく、対峙している相手国の使者にも礼を尽くす。誰もやりたがらない交渉事にも自ら進んで参加した。そうして一年がかりで和平条約を結ぶに至った。
周囲の者たちはアルスーンの働きに目を見張り、アルスーンがいれば辺境の地もいずれ栄えるに違いないと確信した。これからは中央のご機嫌伺いをすることなく自らの手でこの地を豊かにすることができる。現地の貴族や民たちはアルスーンのことを心から歓迎した。誰もがよい統治者が来たと喜んでいたが、またもや唐突な任務替えの話が舞い込んだ。
王都からやって来た使者は「貴殿は将軍職に就くことになった」とだけ告げた。将軍は全部で五人いるが、これまで中流貴族出身者が将軍職に就いた例はない。さすがにその話を受けることはできないと考えたアルスーンは、すぐに辞退することを考えた。
(ところが今度は砦に二カ月も押し留められてしまった)
砦に留まるように命じたのは王で、やはり理由は聞かされなかった。二カ月と半月後、ようやく砦を出て王都に戻ることができたものの、そのときアルスーンはすでに将軍になった後だった。本来、将軍職を拝命する式典には本人が出席しなくてはいけない。それなのに本人不在のまま行われた結果だ。異例のことにも驚いたが、姿を現さなかったことを咎められることがない状況にも驚かされた。
なぜそうまでして自分を将軍に据えたかったのか、その答えは一年と少し前に判明した。
(神華の国を手に入れるため、同時にわたしを陥れるための将軍職だったのだろう)
まだ根雪が溶けきらない早春に、アルスーンは神華の国と呼ばれる東方の古王国に使者として派遣されることになった。目的は友好の意思を伝えるためで、使者の任務は王直々の命令だった。
神華の国とはそれまで比較的穏やかな関係にあったが、当時の神華皇帝は野心家との噂があった。影で何か企んでいるのではないかと考えた王は、アルスーンに皇帝の胸の内を探るように命じた。辺境の地を治めた手腕を見せよとまで言われては辞退することもできない。
(結果的に、あの任務で王の不興を買っているという確信を得ることになったわけだが……)
神華の国に到着した十日後、見慣れた軍旗が皇帝宮を取り囲むのが目に入った。使者として赴いていたアルスーンたちは神華皇帝に疑われ、あわや囚われの身になる寸前だった。間一髪で逃げ出すことができたものの捕まっていれば命はなかっただろう。
(軍を動かすことができるのは将軍と陛下だけだ)
はじめは将軍の誰かに疎まれているのではと考えた。しかし、王都に帰還したアルスーンに感情のない眼差しを向ける王を見た瞬間、「自分は陛下に疎まれていたのか」と悟った。
なぜ疎まれているのか理由はわからない。巷では「アルスーン将軍こそがαの中のαだ」と噂する者もいるが、まさかそれを真に受けているわけでもないだろう。さすがに一国の王が中流貴族出身のαを恐れるとは思えないが、周囲の者たちの諫言が心証を悪くした可能性はある。
(やはり分不相応な将軍職など辞退すべきだった)
そうしなかった結果、今回の下賜に繋がった。時機を逸していたとはいえ、いつまでも職を辞さなかった自分の失態だとアルスーンは小さくため息をついた。
今回の下賜は大勢の前で嗤いものにするのが目的に違いない。やり方は稚拙だが、貴族社会では珍しいことではなかった。
本来、王から妃を下賜されるのは誉れ高いことだと言われている。王の子を生んだ妃であれば王の子と半分血が繋がる己の子を得られる可能性が高いからだ。王族との血の結びつきは家にとって後々まで幸いをもたらすことになる。
しかし、今回下賜されるのは王の子を孕むことがなかったΩだ。Ωは子を成すのが最大の役割で、とくに血筋がよいΩは能力の高いαを生むとされている。だから高貴な生まれのΩは大切に扱われ、下手をすれば小国の王より力を持つほどだ。
ところがアルスーンに下賜されるのは子を孕まないΩだ。Ωとしての役割を果たせない捨て置くべき存在でしかない。しかも二十六歳と嫁ぐには少し年を重ねている年齢で、だから王は「
(そのようなΩでも下賜となれば断るわけにもいかない)
しかも王のお手つきとなれば妾ではなく正式な伴侶としなければならなかった。子を得るためにと万が一愛妾を持てば、それだけで謀反を疑われる。欠陥品のΩを与えられるような人物だと大勢の前で揶揄し、おまえは子を持つことすら許されていないのだと貴族たちの前で嘲笑うのが王の目的なのだろう。
(なるほど、貴族としては相当な辱めというわけだな)
王の意図を理解した貴族たちは自分を避け始めるだろう。そうして次の命令でさらに命を危うくする任務に就かされるに違いない。それを止める貴族は誰もいないだろう。中流貴族の将軍を毛嫌いする高位軍人たちも万々歳というわけだ。「そこまでしなくてもいつでも隠居するのにな」と、アルスーンは胸の内で小さく笑った。
「アルスーン・フリュス将軍。ありがたく頂戴せよ」
「謹んでお受け致します」
将軍アルスーンは緑眼を閉じると、そう口にして頭を下げた。
こうして将軍アルスーンは自国が滅ぼした国のΩ王子を娶ることになった。表向きは伴侶という形だが、貴族の誰もが“王に塵芥を押しつけられた憐れな将軍”と思っている。アルスーンを慕う下位軍人たちの中には「あまりのなさりようだ!」と憤慨する者もいるほどで、「そう言うな」とアルスーン自らなだめて回らなくてはいけないほどだった。
(しかし、どうしたものかな)
周囲のことはどうとでもできる。問題はΩ王子のほうだ。
(正式な伴侶として迎えたのだから、そういうふうに扱うべきなのだろうが……)
しかし相手は孕むことのできないΩだ。そういう行為を無理強いするのは無体でしかない。王子としての尊厳も傷つけてしまうだろう。
夜になるたびにアルスーンは「伴侶といってもなぁ」とため息をついた。だからといって寝室を別にするわけにもいかない。娶って間もないのに夜を別々に過ごしていると王の耳に入れば余計な疑いをかけられる。いまさらかもしれないが、危険な芽はできるだけ生やさないようにしておいたほうがよい。
「さて、どうしたものか」と思いながら寝室に入った。そうしてベッドに腰掛けるたおやかな伴侶を見る。
「シャオティエン殿下、そろそろ休みましょうか」
アルスーンの言葉に王子が反応することはない。返事をすることも頷くこともないまま、白い夜着を身に纏ったシャオティエンが大きなベッドの左端に横になる。それを見届けてから枕元の明かりを消し、右端に寝るのがアルスーンの日課になっていた。
(はてさて、本当にどうしたものか)
下賜されたΩ王子は、名を
(それが俺のような中流貴族に下賜されるとは……)
だからといって憐れむことはしない。そんなことをすれば王子を蔑むことになってしまうからだ。
(高貴なΩだと陛下はおっしゃっていたが、うなじは噛まなかったのだな)
王子の白い首に首飾りはない。本来、Ωはうなじを守るための首飾りを身に着ける。うなじを噛まれれば否応なしにαの伴侶にされてしまうため、自衛の手段としてどの国でも広く使われているものだ。
(首飾りをしていないが、噛み痕はない)
何度も確認したから間違いない。子を孕まなかったと口にするくらいだから行為自体はあったのだろうが、噛んでまで妃にするつもりはなかったのだろう。もしくは孕んでから噛むつもりだったのだろうか。
うなじを噛まれたΩは、たとえ相手のαが命を落としても婚姻関係を解消することができないと言われている。一方、αは何人ものΩと婚姻関係を結ぶことができ、うなじを噛んだ後も一方的に関係を解消することができた。
離縁されたΩは早く次のαにうなじを噛まれなければ精神的に不安定になるとされている。そのまま精神を病んで自死する場合もあった。アルスーンもそのことを心配して初日にうなじを確認したが、真っ白な肌には傷一つ付いていなかった。
(どちらにしても、王子としてもΩとしても自尊心を傷つけられてきたということに違いない)
神華の国でアルスーンをもてなしてくれたときのシャオティエンは目映いばかりに光り輝いていた。つねに笑顔を絶やさず、アルスーンにも心尽くしのもてなしをしてくれた。ところが再会したシャオティエンは仄暗い眼差しで、笑顔どころか言葉を発することすらない。それがこの一年の境遇を物語っているようで、そう思うたびにアルスーンの胸がずきりと痛んだ。
(彼の国では黒真珠とまで褒め称えられていたというのに)
その言葉を聞いたとき、アルスーンは「まさに黒真珠のようだ」と感嘆した。あのときの輝かんばかりの姿を思い出すたびに、できれば以前のような笑顔に戻ってほしいと思わずにはいられなかった。王の元では難しかったかもしれないが、ここではできる限り心健やかに過ごせるようにしよう。そう考えあれこれ気遣ってはいるものの、シャオティエンの表情が明るくなることはない。
(本当にどうしたものかな)
そう思いながら目を瞑る。左隣で背を向けているシャオティエンの呼吸が寝息に変わったのを確認し、アルスーンはようやく眠りに就いた。