アルスーンとシャオティエンが伴侶となり、ふた月が経とうとしている。新婚だからと周囲に言われ屋敷で執務を続けていたアルスーンだが、そろそろ通常任務に戻ろうかと考えていた。先日その旨を軍部に伝えたものの、上層部はあまりいい顔をしない。「いよいよ厄介払いでもされるかな」と思いつつ、この先の身の振り方を考えてからだと将軍職を辞する時期を考えあぐねていた。
（それに伴侶ができた身では勝手はできない）
相手は元王子という身分で、特別大切に育てられてきた高貴なΩに不自由を味わわせることはできない。中流貴族でしかないアルスーンが将軍職を辞すれば懐具合は一気に厳しくなる。それでは元王子の生活を維持するのは難しい。
（まさか俺がこの先の食い扶持を心配しているなど想像すらしていないだろう）
書類から視線を上げ、ソファで本を読んでいるシャオティエンを見た。今日は個人的な書き物をしているだけで執務でないと伝えたからか、本を持ったシャオティエンがやって来たのは少し前のことだ。
高貴さが漂う後ろ姿に「さて、どうしたものか」と相変わらずの言葉が脳裏に浮かぶ。
（本当に「最上のα」とやらになったのならこのような悩みは抱かないはずだが）
そう思うと安堵のような気持ちが広がった。何か恐ろしいことが起きるのではと危惧していたのが馬鹿らしくなるくらい平穏な日々が続いている。
「ふふっ、そんなにうなじが気になりますか？」
笑い声にハッとした。気がつけば後ろ姿をじっと見つめていたようで、そのことに気づいたシャオティエンが笑みを浮かべながら振り返る。
「そういうわけではありませんが」
「触れたいのであれば、どうぞ」
「いえ、結構です」
そう言いながらもアルスーンの視線はうなじに注がれた。一度目にしてしまうと白い肌に浮かぶ赤い花模様が気になって仕方がない。視線を逸らそうとしてもこれまで成功したことはなく、今回もやはり見つめてしまっていた。
（……あの痣のようなもの、段々と薔薇のような形になってきたな）
鬱血痕だというのに花びらが重なっているように見えるからか、この国で好まれている薔薇の形に見えなくもない。
（そういえば神華の国には薔薇によく似た花が咲いていたか）
あれはたしか桃、いや牡丹と言っただろうか。一度目に噛んだときには小さな花びらが連なっているような形をしていたが、何度も噛むうちに花びらが重なるような形になってきた。
（ああなってしまうほど噛んでいたとは……）
アルスーンの眉間にわずかに皺が寄る。気になるなら噛まなければいいだけだというのに、気がつけば誘われるままうなじに唇を寄せてしまう。うなじはΩ特有の香りがもっとも強く漂う場所だ。そのせいでα性が目覚め、どうしても歯を立てずにはいられなかった。牙でないからまだいいものの、それでも白い肌に鬱血痕が残り続けるのを見るたびに「俺は何をやっているんだ」と呆れてしまう。
「もしや、こうした噛み痕は初めてですか？」
シャオティエンが笑みを浮かべた。意味ありげに細い指がうなじの噛み痕を撫でる。
「……これまでΩの噛み痕を見る機会はほとんどありませんでしたので」
「そうでしたか。噛み痕は人それぞれと言いますが、このように美しい噛み痕は滅多にないと思いますよ？」
シャオティエンの言葉に「なるほど、見せつけていたのか」と納得した。
以前は緩く結ぶことが多かったシャオティエンだが、アルスーンにうなじを噛まれてからは高い位置で結い上げるようになった。彼の国では伴侶ができるとそうするのかと思っていたが、いまの言葉で髪型の意図がはっきりした。
「まだ何か企んでおいでか？」
「企むなど、人聞きの悪い」
「さて、俺にはそう思えて仕方ありませんが」
アルスーンの言葉に美しい顔がふわりと笑った。「おかしなことを言いますね」と言ってシャオティエンが本をテーブルに置く。笑みを浮かべたまま立ち上がると執務机に近づいてきた。
「何も企んでなどいませんよ。そもそもわたしが何を企むと言うのです？ 滅んでしまった我が国の再興ですか？ それともこの国を滅ぼし罪をあがなわせようとしているとでも？」
どちらも前々からアルスーンが考えていたことだ。だが、どちらもシャオティエンがやりたがっているとはどうしても思えない。もしその気があるならとっくに行動を起こしているだろう。アルスーンの元に来て
「そんな企みなど抱いていませんよ」
女神のような微笑みを浮かべながら、シャオティエンが細い指で執務机をするりと撫でた。そうして執務椅子に座るアルスーンの傍らに立つ。
「それに、どちらにも興味はありません」
逞しい肩に手を載せ、見下ろしながら睦言のようにそう囁いた。その涼やかな声にぞくりとしたものを感じたアルスーンは、ゆっくりと美しい顔に視線を向けた。見つめ合う形になったものの、微笑んでいるのはシャオティエンだけでアルスーンの表情はやや険しい。
「最初に言ったではありませんか。わたしはあなたを最上のαにするのだと」
「それが運命とやらでしたね」
「黒真珠であるわたしの運命はあなた。わたしのαはあなただけ。だから、わたしはあなたを最上のαにするのです」
いまだに最上のαが何を意味するのかわからない。これまで何度か訊ねたものの、そのたびに「あなたのことですよ」と微笑み返されるばかりだ。どうせ今回もはぐらかされるのだろうと考えたアルスーンは別のことを質問することにした。
「俺を最上のαとやらにして、それからどうするおつもりですか？」
くすりと笑ったシャオティエンがゆっくりと身を屈めた。艶やかな唇をアルスーンの耳に寄せ、そっと囁く。
「あなたには王になってもらいます」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。クスクスと笑う涼やかな声に思考が止まる。
「この国の王に、いずれはもっと大きな国の王に」
「……何をおっしゃっているのかわかりかねます」
「最上のαとなったあなたには王になることなど造作もないこと。誰もがあなたにひれ伏し、大勢の民が王として敬うでしょう。それがわたしだけのαであるあなたのすべきこと」
顔を離したシャオティエンが「さぁ、こちらを向いて」と歌うように口にした。操られるかのように椅子ごとシャオティエンに向くと、座っているアルスーンの足の間に華奢な左足が入り込む。シャオティエンの膝が座面に載ったことで椅子からわずかに軋む音が聞こえた。その音にアルスーンはハッと我に返った。
「わたしを噛んだあなたは、もうわたしから逃れることはできません。逃そうとも思いません」
逞しい両肩に手を載せたシャオティエンが、美しい顔を近づけるように再び身を屈める。そうして再び耳に唇を近づけ、甘く涼やかな声で囁いた。
「あなたはわたしだけのα。どうかあなただけのΩの願いを叶えてください。そうすればこの体も魂もあなたに捧げましょう。わたしのすべてを、あなたの好きなようにしてよいのですよ？」
耳から入る言葉はまるで芳醇な酒のようだった。声を聞くだけで酩酊したようになり、その声に従わなくてはと思わせる。
「……なるほど、運命とはあなたの身の安全を図るための存在でしたか。Ωであるあなたは、それをαである俺に役目として与えようとしている」
「たしかにそれもあります。ですが、わたしはただあなたと添い遂げたいだけなのです。そのためには二人が安心して過ごせる場所が必要です。わたしはその場所を手に入れたいだけ」
そう告げたシャオティエンが小さく笑った。フッと吐き出された吐息が耳に触れるだけで意識が奪われそうになる。
「昔からΩは巣作りをすると言われています。そう考えれば安全な場所に巣を作りたいと思うのも当然のこと。ふふっ、二人の愛の巣というわけですね」
「さて、そこに愛情というものが本当に存在するか、はなはだ疑問ですが」
「わたしの想いを疑うのですか？」
熱く甘いシャオティエンの声がアルスーンの中を侵食するように響いた。
「わたしはあなたを愛しています。この身を傷つけられてもいいと思うほどに。あなたになら体のどこを噛まれても愛しいと思いますし、どれほど深い場所を暴かれても悦楽と幸福しか感じません。そう、わたしはあなたさえいればいい。わたしたちが添い遂げるのを邪魔する存在を排除したいだけなのです」
「……そのために王になれと？」
「王はあなたを疎ましく思っています。いずれ首をはねようとも考えている。わたしにとってもあなたにとってもあのαは邪魔な存在でしかないでしょう？」
シャオティエンの囁きに全身が総毛立った。以前から感じていた得体の知れないものが、ようやく顔を覗かせ始めたのだとはっきり感じた。
（女神の姿をした……こういう存在を何と呼ぶのだろうか）
少なくとも傾国と呼ぶにはあまりある。もちろんただのΩでもない。これまで相対してきた他国の将軍や貴族、それに王に連なる高貴なαたちとも違う。αに庇護されるべきΩだというのに、シャオティエンからは底知れない気配が漂っていた。
（殿下は危険だ。わかっている、これ以上呑み込まれるわけにはいかない……わかっているが……）
おそらく抗えないだろうことも理解していた。それがうなじを噛んだ代償に違いない。もしくは「運命」であることからは決して逃れられないということだろうか。
（そういえば畏怖のようなものは感じなくなったな）
以前は戦慄にも似たものをたびたび感じていた。ところがうなじを噛んでからはそういったものを感じたことがないことに気がついた。
（……俺も変わってきているということか）
それが最上のαになるということなのかもしれない。そして美しくも恐ろしい至高のΩに囚われるということなのだろう。
不意に神華の国でのことを思い出した。初めて対面したとき、シャオティエンはまるでパッと花が咲いたような表情を浮かべた。だが、黒真珠のような瞳の奥には炎のようなものが見え隠れしていたような気がする。小さく息を吐いたアルスーンは、口づけるようにシャオティエンの耳に唇を近づけた。
「神華の国が我が国に滅ぼされたのは偶然ですか？」
問いかけに返事はなかった。代わりに細腕がするりと首に絡みつき、悪戯を仕掛けるようにシャオティエンが耳たぶをかぷりと噛む。途端にすぐそばに見える白いうなじから匂い立つようなΩの香りが漂い始めた。
頭をわずかに動かしたアルスーンは、横目で薔薇の花のような噛み痕を見た。わずかながら先ほどよりも色が濃くなっている。もしかすると香りの濃度によって色合いが変わるのかもしれない。
（香りも噛み痕も、どこもかしこも普通のΩとは違うということか）
そして自分も普通のαとは違う道を歩むことになるのだろう。予感めいた感覚は戦場で感じるそれを彷彿とさせた。アルスーンは「まさに希少な黒真珠だな」と思いながらシャオティエンを抱き寄せた。そうして己の覚悟を刻みつけるように噛み痕に口づけを落とした。
