「ああ……ムリ、ムリ! 人が多すぎる……。しかもみんな楽しそうに話してるし、あっちこっちで目が合いそうだ……。絶対また変な目で見られるに決まってる……」
春の柔らかな日差しがキャンパスを包み込み、そこへふわりと桜の花びらが舞い落ちる。大学のメインストリートには、新入生を歓迎するために色とりどりの看板やポスターが並び、そこかしこから活気のある声が飛び交っていた。
俺――
「おーい、テニスサークルやりませんかー? 初心者大歓迎ですよ!」
「映画研究会でーす! 新入生、募集中ー!」
「アニメ・漫画好きさん、集まれー!」
活気に溢れた上級生たちが、手作りのチラシを片手に次々と声をかけてくる。好奇心でサークルを回っている新入生たちは、上級生に質問をしたり雑談したり、笑顔で盛り上がっている。
――みんな、希望に満ちた顔をしてるな……。
だけど、俺にはまぶしすぎて目を合わせるなんてできない。そもそも、コミュ障の俺がこんな人だかりの中で笑い合うなんて、夢のまた夢だ。
「入学おめでとうございます!」
周囲はお祝いムード一色。桜の舞う綺麗なキャンパス。普通ならワクワクしていてもおかしくないはずなのに、俺は心の中で息苦しさを感じ続けていた。むしろ、早くこの人混みから抜け出して、誰もいない隅っこに逃げ込みたい。
「……早く、入学式終わってくれないかな……」
うつむき加減のまま、一刻も早く式典会場へたどり着きたい一心で足を速める。地面ばかり見ているせいで、前方に何があるかなんてろくに確認できていなかった。
すると、嫌でも耳に飛び込んでくるほどの大きなざわめきが、前方から伝わってきた。そこは他の新歓ブースよりも一層盛り上がっているようで、人だかりができている。
「ほら、あそこにいるの、インディーズバンドの『BLUE MOON』だって。まだプロじゃないけど、めちゃくちゃ人気あるらしいよ」
「確か、この大学の軽音部からプロになったバンド、多いんだよね? その次の有望株が『BLUE MOON』なんだって」
「あ、あのチラシ配ってる人がボーカルなんだ……
その声に釣られて、俺も少しだけ顔を上げてしまった。すぐにでも視線を戻すべきだったのに、思わず見とれてしまう。金に近い明るい茶髪と、整った顔立ち。身長も高い。その男は、人波の中心にいながら、全く気負うことなく屈託のない笑顔を振りまいていた。
――すごい……何、このキラキラ感……。芸能人かな?
ごくりと唾を飲んだ瞬間、その彼と目が合った……ような気がした。
「あっ……」
急に心臓がドクンと音を立てる。けれど、そのまま彼の瞳を見つめているなんて、俺には無理だった。咄嗟に視線を下へ戻してしまう。
(ああ……絶対変だと思われた。気まずい……)
だが、「BLUE MOON」というバンド名も、ボーカルである彼の顔も、俺にとっては到底縁のない世界の存在だ。せめて知らないフリをして、早くこの場を立ち去ろう。そう思って歩き出そうとしたとき――。
「おー、君、軽音に興味ない?」
俺の前に、チラシを持った手がすっと差し出された。
「うわっ……!」
思わず肩をすくめ、びくりと体をこわばらせる。周囲の視線が、一気にこちらに集中した気がした。呼吸が急に浅くなる。
「あ、もしかして、迷ってる? 大丈夫?」
明るい声に、恐る恐る顔を上げると――やはり、さっき目が合った金髪の彼がそこにいた。近くで見ると、陽光に照らされた髪がまぶしく光っている。笑顔が、まるで雑誌のグラビアみたいにキラキラしていて……そんな眩しさに、俺はますます萎縮してしまう。
彼がさらに一歩近づこうとした瞬間、ふっと動きを止めたのが見えた。まるで俺の何かに気づいたように、驚いた顔をしている。それを見て、心臓が締め付けられるようにざわついた。
(また……変な奴って思われたんだ……。こんな陰キャが声をかけられて、場違いもいいところだ……)
頭がぐわんぐわんしそうだ。周りにいる他の新入生からも、「なんであの地味な子が陽翔くんに話しかけられてるの?」なんて言われている気がして仕方ない。
「……っ!」
痛いほどの鼓動とともに、耐えられなくなった俺は、彼の声を振り切るように俯いて後ずさる。うまく息ができず、のどがカラカラに渇く。袖口をギュッと握り、必死に震えを堪えながら、その場から一気に逃げ出した。
「え、あれ……? あっ、ごめん……!」
背後から彼の声がかすかに聞こえた。けれど振り返る余裕なんて全くない。何か言葉をかけてくれているみたいだったけど、今はとにかく誰の視線にもさらされたくなかった。
――もう、ほんとに最悪だ。大学生活初日から、こんな調子かよ……。
入学式会場の扉が見えてくると同時に、少しだけ人混みが薄れた。その瞬間、肩の力が抜けて、どっと疲労感が押し寄せる。
「はぁ……。あんなイケメンに話しかけられるなんて、絶対に注目されちゃったよ……。また『変なヤツだな』って思われたはず……」
胸にうずく恐怖と恥ずかしさ。嫌な汗が止まらない。俺は俯いたまま、なんとか会場の隅の方まで歩いていき、誰の目にもつかないよう壁際に身を寄せた。
(……大学生になったら、ちょっとは楽になれるかと思ったんだけど)
ここに来るまでの不安は、すべて的中してしまった気がする。人が多いだけで息苦しいし、初対面の人と話すなんて到底無理だ。ましてや、さっきみたいにキラキラした人気者に声をかけられるなんて……。
動悸がいまだに治まらない。頭の中で、さっきの場面がぐるぐると再生されてしまう。金髪の彼が驚いたように目を見開いていたあの表情が忘れられない。
――いったい、どんな気持ちであの目を向けてきたんだろう。
俺を笑おうとしていた? それとも、興味本位で話しかけてきただけ?
だとしても、そんなことどうでもいい。もう会うことなんてないだろうし、俺は誰の記憶にも残らないまま、ひっそりと学生生活を送ればいい……。
壁際に背を預け、震える指先を握りしめてみる。胸の奥には、不安と恐怖が混ざり合った重苦しさだけが残っていた。
「……どうか、誰も俺のことなんか気にしませんように……」
小さな呟きは、誰にも聞かれることなく消えていく。
だけど、そのとき脳裏に浮かんだのは、あの眩しい笑顔と、まっすぐな瞳。
――なんでだろう。あんな人、俺には絶対関係ないのに……。
桜の花びらが舞い落ちるキャンパス。新入生たちの晴れやかな声。とびきり眩しい笑顔で話しかけてきた金髪の彼。
やがて、入学式のアナウンスが会場を満たす頃、俺は決意するように小さく息を吐いた。
――どうせ浮かれるような性格でもないし、友達だって別にいなくていい。最低限、トラブルに巻き込まれずにやり過ごせればそれでいい……。
そう自分に言い聞かせながら、俺は誰にも気づかれないようにコソコソと開式を待つ。胸の奥に渦巻くのは、期待というよりは不安ばかり。
だけど、あの瞬間に交わした視線と――彼の驚いたような、そしてどこか切なげな表情――その記憶だけが、どうにも胸の奥で大きく揺れていた。