サキュバスのお姫様を拾いました。
――いや、何を言ってるのかわからないよね。私もわからない。
私、坂木
そして私はといえば、キッチンでオムライスを作っていた。
お姫様――イレーネと名乗った――は、4歳か5歳くらいに見える。従者だという黒白のハチワレ猫を連れていた。
30分前のことだ。バイトの帰り、マンションのすぐ近くにある公園で、2人(1人と1匹)を拾った。拾ったというか……落ちてきたのだ。公園にある大きな銀杏の木の先端から、バキバキバサバサと枝を何本か折りながら。
「ふやぁぁぁぁぁっっ!!!!?」
という悲鳴を聞いて、反射的に声のするほう――公園の上空に目を向けたところ、銀杏の木の先端がバサリと音を立て、そのまま“何か”が落ちてきた。
「どういうことじゃ、これはーっ!」
銀杏の枝や葉とともに地面に落ちてきた“何か”は、もぞもぞと動いた後、幼い子どもの声でそう叫んだ。
レストランでバイトをした帰りなので、もう夜も遅い。22時になろうとしている。幼い子どもが単独で出歩いていい時間ではない。
「姫様、だから言うたではありませぬか。魔力が少なくなる前にどこかに着地したほうが良いと」
妙に上品な、男性の声が聞こえる。
その子どもの周囲で、ぱたぱたと黒い翼をはためかせながら、猫が飛んでいた。
よく見ると、子どもの背中にも黒い翼がある。鳥のような羽根ではなく、コウモリの翼のような皮膜だ。
大人の男性の声で喋る、翼のある猫。
同じく翼のある幼女。その幼女はゴスロリ風とでもいうような、黒いフリルのワンピースを着ている。髪は、夜の闇の中でも月光をはらんだように美しい銀色。それを高い位置でツインテールにしていた。よく見るとうっすらと紫がかっていて、とても神秘的な色合いだった。
大丈夫?と聞こうとした。落ちてきたのが普通の子どもだったら、すぐに駆け寄ってそう聞いただろう。どうしたの、どこから落ちたの? 怪我はない?
「え、えっと……」
銀杏も色づく季節だというのに、幼女はコートも着ていない。
大丈夫? 寒くない?
いろんな疑問が頭の中を駆け巡るけれど、服装や髪の色はともかく、ぱたぱたと動く黒い翼が気になる。
「む、姫様。現地民ですぞ」
「おぉ、ちょうどよいな。話をしてみようぞ」
猫と幼女の会話が聞こえた。
「え、あの……」
とまどう私の目の前に、幼女が歩いてきた。私の腰にも届かないような小さな体で、く、と顎を上げて私を見る。ツインテールにした長い癖毛には、あちこちに黄色い銀杏の葉が絡みついているけれど、不思議とその顔には威厳を感じた。
夜目にも真っ白な肌、見た目の年齢にそぐわない妖艶さを感じさせる、濃い赤紫色の瞳。
「そなた、名は? 直答を許す」
年齢に見合わない尊大さは、それでも妙に違和感がなかった。
「坂木……美桜です……」
私の返答を聞いて幼女が鷹揚に頷く。そして幼女の肩のあたりでぱたぱたと翼を動かして滞空したままの猫が、こほんと咳払いをひとつした。
「こちらにおわすは、リリス公国の第四公女、イレーネ・シュタウフェンベルク様。由緒正しきサキュバス族の姫様でございますが、姫様におかれましては、ただいまお忍びにて異世界を旅行中でございます。わたくしは従者のテオドールと申します」
猫の声は落ち着きのある男性の声だ。
――なにこれ、TVのバラエティ番組とかで、一般人を騙す感じのやつ?
サキュバス? お姫様? 異世界? 猫の従者??
情報量が多いのに、疑問しか増えない!?
きょろきょろと周囲を見回してみたが、他に通行人もいない。もちろんTVカメラが隠れていそうな怪しい車もない。
それを言うなら、この公園の周囲に高い建物はないのだ。目の前の女の子は……一体どこから落ちてきたんだろう。銀杏の木にぶつかる前は、どこにいたんだろう。
そこまで考えた時、きゅるるるーと可愛らしい音が、イレーネのお腹のあたりから響いた。
イレーネを見ると、少し恥ずかしそうにお腹を押さえていた。
「すまぬが……魔力を使い果たしたところで、我はとても空腹じゃ。何か食べさせてもらえぬか。ただ、今の我にはこの国の通貨がない。のちほど褒美をとらすゆえ、助けてはもらえぬじゃろうか」
「姫様、庶民相手にそのように丁寧になさらずともよいのではないですか?」
猫のテオドールがイレーネに進言する。が、イレーネは首を振った。
「我らはこちらの世界に不案内なのだぞ、テオドール。言わば教えを請う立場であり、今は食べ物を都合してもらわねばならんのじゃ。国にいた頃とは違う。おまえも敬意を持て」
「は、これは失礼いたしました……」
猫がぺこりと頭を下げる。
黒白のハチワレ柄の猫は、鼻先と胸元、両手足の先だけが白い。よくタキシード柄と言われるが、口調や態度とあいまって、本当にタキシードに見えてきた。
私は手元のエコバッグを見る。コンビニで明日の朝食用に食パンや牛乳を買ったついでに、肉まんも買った。自分の前に会計をした人がカレーまんを買っていて、それを見たら急に食べたくなって誘惑に負けたのだ。
けれど、小さな子どもがお腹を空かせているのなら、提供するのもやぶさかではない。
それが人間であろうとなかろうと。お姫様だろうと庶民だろうと。
お腹が空いたままでいるのは悲しいことだし、美味しいもの、温かいものを食べるのは幸せなことだから。
「あの……肉まんでよければ。でも、アレルギーとかは大丈夫? お父さんやお母さんに、食べちゃだめって言われてるものはない?」
サキュバスにアレルギーがあるかは謎だ。
そもそも、サキュバスが肉まんを食べるかも謎だ。
もっと、“そもそも”を言うなら、この子が精巧なコスプレをしているだけの人間の女の子だっていう可能性もまだある。
「我に“あれるぎぃ”とやらはないな、テオドール?」
イレーネは一応といった感じで、従者である猫に尋ねる。猫は重々しく頷いた。
「はい。姫様にあれるぎぃはございません」
「その肉まんとやらは食べたことがない。ミオ、我にそれを食べさせてくれるのか」
期待にキラキラした顔で、イレーネは私を見上げてきた。
「じゃあ、はい。どうぞ。中はまだ熱いかもしれないから、火傷に気をつけてね」
イレーネの目の前にしゃがみこむと、バッグの中から肉まんを取りだして差し出した。
「おぉ、ありがたい! これが肉まんか。良い匂いがするな」
くんくんと匂いを楽しんだ後、イレーネはおもむろに、肉まんにかぶりついた。
「はふぅ、美味いな、これは」
夜の空気の中に、ほわりと白い湯気の塊が立ち上る。イレーネの口からも湯気が漏れた。
「テオドール、おまえも食べてみるか」
イレーネは食べていた肉まんの一部をちぎりとって、猫に差し出す。
「え、猫に肉まんは……」
タマネギとか入っているように思う。そもそも塩分もかなりある。
「ミオとやら、わたくしは姿こそ猫ですが、魔界に生きる者。この世界の猫と同じに考えてもらっては困ります」
ふん、とテオドールは鼻息をもらし、イレーネが差し出す肉まんの切れ端をうやうやしく受け取った。
「ほぅ……これはなかなか美味でございますな。ただ、姫様、残念なことにこれでは……」
「うむ。美味いがこれでは魔力は回復せぬな」
会話の意味がわからない。
……魔力?
「えっと……肉まんじゃだめだった?」
胃に優しい食べ物とか、スタミナのつく食べ物とか、ビタミンや食物繊維をとりたいと言われれば、いくつか思いつく。でも、魔力が回復する食べ物と言われても私にはわからない。スマホで検索したら出てくるだろうか。
「いや、肉まんがだめなのではないのじゃ。我らの魔力を回復するためには……」
――そうして、私は自宅のキッチンで今、オムライスを作っている。
何故オムライスかというと、冷凍庫に先日作ったチキンライスを冷凍してあったからだ。レンジで解凍した後、小さい子が食べるんだから少し甘めのほうがいいかなと思って、コーンとバターを加えてフライパンで軽く炒める。
それを薄く焼いた卵で包んで、上からケチャップをかけた。ふわとろ卵とどちらにしようか迷ったけれど、ラグビーボール型に整えた黄色い卵の上に赤いケチャップをかける、王道の見た目を重視することにしたのだ。
普通サイズのオムライスと、小皿サイズのミニオムライスを作って、リビングに運ぶ。
「できたよー。これがオムライスです」
スプーンを添えて差し出すと、イレーネとテオドールは目を輝かせた。
「ほう、これがオムライスか。聞いたことはあったのだが、食べるのは初めてじゃ! これは見目も良いな!」
イレーネは、オムライスの真ん中にそっとスプーンを差し込んで、ぐっとそこから開いた。
黄色い卵の中から出てくる、オレンジ色のチキンライス。とろりと流れる赤いケチャップと相まって、オムライスは美しい料理だと思う。
ゆっくりと一口分のオムライスを口に運ぶイレーネ。
「おぉぉぉ!! すごい! これはすごいぞ、テオドール」
イレーネの動向を見守っていたテオドールがぴくんと耳を立てる。
「ほう、それほどでございますか、姫様!」
「うむ、美しいし美味いし、何より、食べた端から魔力が回復していくのがわかるぞ。たった一口でもそれがわかる!」
……私にはわかりませんけども。
魔力とやらを回復するには、料理に愛情がこもってなければいけないと、お姫様と従者は言った。
その人のために作ったという愛情。食べる人の身も心も満足させてあげたいという気持ち。家族や恋人、もしくは主を思って使用人が作る料理でもいい。食べる人のことを考えている料理がいいのだと。
なるほど、肉まんではだめだったわけだ。
もちろん肉まんだって、製造している会社では食べる人のことを考えてレシピを作っているし、工場も食べる人のために美味しく衛生的に作ろうとしてくれている。けれど、それはイレーネの顔を思い浮かべてのことではないのだ。どこかの誰かに向けた料理ではだめだということなのだろう。
美味い美味いと食べてくれるのは、作った私としては嬉しい。嬉しいけれど……。
「ねぇ……あの、サキュバスとか、お姫様とか……本当なの?」
「なんと! 貴様、姫様のことを疑うと!?」
猫のテオドールが皿から顔を上げる。猫の前足でも器用にスプーンを扱っていたが、髭にはケチャップがついていた。
「あ、いや、疑うとかそういうのじゃなくて……信じられないっていうか」
「それを疑っているというのだ、
テオドールが叫ぶ。
「敬意を持てと言ったであろう、テオドール。ここは異界じゃ。この世界では我らのことが知られておらぬはずじゃからな。――ミオ、信じられぬかもしれないが、我らの言うことは本当じゃ。こちらの人間との大きな違いはこの翼だけじゃろうし、闇雲に信用してくれと言うても困るじゃろうが」
イレーネが困ったように言う。
――ただ、私もどこかで納得しているのかもしれない。主従の翼は、少しだけ触らせてもらったけれど、どちらも作り物ではなかった。そもそも猫が飛んで喋るなんて、少なくとも現代日本の現象ではない。
精巧なコスプレをしている人間だったなら、こんな小さな子どもが秋も深まったこんな時期、しかも夜遅くに、コートも着ないで1人(と1匹)で外にいるなんて、警察か児童相談所案件だろうけれど……サキュバスなら、警察に連れて行っても解決しないだろう。
「ふぅ……美味かったぞ。それはもう、大変に美味であったぞ。我は満腹じゃ」
サキュバスを警察に連れて行ったらどうなるかを考えていたけれど、イレーネの声で我に返った。
見ると、テオドールの分を取り分けたとはいえ、大人の1人前に近い量があったオムライスは綺麗に完食されていた。その隣で、テオドールも小皿のミニオムライスを食べ終えている。
「美味しかったならよかった」
人のために料理を作るのは久しぶりだった。
いつも自分1人のために作っていたから、最近は少し手抜きをしてしまっていたけれど、こんな風に美味しい美味しいと言ってもらえるなら作った甲斐がある。
「腹がくちくなると……眠くなるな」
イレーネは、ほわぁとあくびをする。
もう23時だ。幼女には遅い時間だろう。……いや、サキュバスを幼女と思っていいんだろうか。でも、見た目はどう見ても幼稚園児だ。
「ミオ、すまぬが泊めてもらうぞ。我がこちらの世界に来た事情なども話したいところじゃが、今夜はもう遅い」
イレーネは眠そうに、もぞもぞとソファーに登る。
え、泊めるのはいいけど……。
「あ、えっと、着替えとか、お風呂とか……」
「荷物は全部落としてしもうたのじゃ」
「全部!?」
ふにゃあとそのまま眠り込みそうになるイレーネに、テオドールが近づいていった。二足歩行だ。さっきまで飛んでいたのだから、もう二足歩行くらいでは驚かない。
「姫様、洗浄の魔法だけでもかけましょう。一度立ち上がってくださいませ」
「……うむ」
眠そうに目をこすりながら、ソファーから下りて、イレーネは床の上に立つ。
テオドールが軽く右手を振る。その右手の先に何か小さな石のようなものがきらめいた。
「フリエーシュ」
そう聞こえた。意味はわからないが、テオドールの右手の先から光が飛んで、イレーネの全身にきらきらとまとわりつく。そのきらめきはすぐに消えてしまったけれど、イレーネの全身は明らかに綺麗になっていた。
私は気づいていなかったけれど、紫がかった銀髪も、銀杏の木の中を落ちてきたせいで汚れていたのだろう。それが今は、さっきよりも美しくつややかに輝いている。
そういえばさっき、洗浄の魔法って言った?
「ま、魔法? え、ほんとに?」
「こちらの世界にはありませぬか? 簡単な洗浄の魔法でございます。服も肌も髪もこれで綺麗になります」
さっきは気づかなかったけれど、テオドールの右手首には金色のブレスレットのようなものがあった。そのブレスレットには小さな赤い石がはめこまれている。
「ミオ、すまぬが姫様になにか簡易な夜着を貸していただけますか」
テオドールにそう言われて、戸惑う。
「よぎ? あ、ああ、パジャマみたいなものね?」
と言っても子どもに着せられる服など私の部屋にはない。
仕方なく、私は少し大きめのTシャツをクローゼットから持ってきた。
「えっと、子ども用の服がないので……これならワンピースみたいになるからいいかと思うんだけど、どうかな」
私がクローゼットを探している間に、テオドールは器用にイレーネの服のボタンを外し、黒いワンピースを脱がしている。フリルやリボンが多用されたワンピースは、明るい部屋の中でよく見てみると、明らかに生地も縫製も上質で、とてもコスプレ用には見えなかった。ワンピースというよりも、ドレスというほうがきっと正しい。
半分眠ったまま、テオドールに髪もほどかれ、ドレスを脱がされたイレーネは、黒いキャミソール姿だった。そのキャミソールもまるでシルクのような光沢で、私が持ってきた安いTシャツが可哀想になるくらいだ。
「姫様、翼も畳んでいただけますか」
「……うむ」
テオドールの声にイレーネが頷く。コウモリのような翼はぱたぱたと折り畳まれ、すぅっと下着の中に消えていった。……翼って収納可能なんだ。
翼が見えなければ、本当にただの子どもに見える。外国人の……少し変わった髪の色の子ども。
「ソファーじゃあんまりだよ。ベッドで寝ようね」
私は、ドレスを畳んでいるテオドールをよそに、イレーネの頭からTシャツをかぶせ、そのまま抱き上げる。
「ベッド……良いのか、ミオ……」
ほにゃほにゃと半分眠りかけながら、イレーネが呟く。
「私のベッドで一緒に寝ればいいよ。――テオドールはどうする?」
「わたくしはこちらのソファーで充分でございます」
まぁ、猫だしね。いや、猫じゃないのか。
私は自分のベッドにイレーネを寝かせ、キッチンを少し片付けてからシャワーを浴びることにした。
シャワーから出てくると、テオドールはソファーの上で丸くなっていた。寝る時には邪魔なのか、テオドールの翼も畳まれていて、今は見えない。やっぱり猫のようだ。
イレーネのように長くはない、肩にふれるかどうかという自分の髪をドライヤーで乾かしていると、私もあくびが出た。
なんだか今日は1日の終わり近くになって、急にばたばたといろいろなことが起こりすぎた。いつもなら学校の後にバイトに行って、遅番なら帰ってくるのは22時くらい。お風呂に入った後は、少し勉強をしたり、パソコンで調べ物をしたり、時にはスマホでちょっとゲームをしたり……。
「今日は私ももう寝ちゃおう」
ふわぁ、ともう1つあくびをして、私は自分のベッドに潜り込んだ。
隣で眠るイレーネの体温を感じながら、すぐに眠りに落ちる。
翌朝。
ピピ、ピピ、という無機質なアラームに起こされる。
7時だ。……しまった、今日は土曜日だから学校は休みだし、バイトのシフトも入っていない。目覚ましかけなくてもよかったな。
でも起きてしまったものはしょうがない。
ベッドの中からスマホに手を伸ばしてアラームを止める。そのまま起き上がろうと、布団の中で姿勢を変えた。
――ぷにょん。
ぷにょん? なにか、温かくて柔らかいものが……。
そうだ。昨夜はイレーネと一緒に寝たんだった。
幼女の体で「ぷにょん」となる場所ってどこだろう。お腹? お尻?
でも、今の手触りって、むしろ……。
布団をめくると、そこにいたのはどう見ても私と同年代に見える銀髪の少女だった。
先ほどの手触りは、私のものよりも遙かに立派なお胸だ。
ぷるるんとたわわなお胸とお尻……Tシャツの裾からは黒いパンツがはみ出している。昨夜はよく見えなかったけれど、セクシーな紐パンツだった。
「んん……」
銀髪の女性が目を覚ます。
「おぉ。朝か……そうだ、異界にきたのであったな。おはよう、ミオ。よく眠れたぞ」
「……イレーネ?」
「そうじゃが?」
はぇーーっっ!!?
幼女は? 幼女はどこに行っちゃったの!!!?