夜の静けさが、アパートの2LDKを夜風が優しく吹き抜ける。 仕事帰りにコンビニで買ったおにぎりとお茶で簡単な夕食を終えると、真緒は迷わずPCデスクに向かった。
モニターに浮かぶ、愛おしいタイトル。
『Fluo Tale(フロオテイル)』
──正式サービス、ついに開始。
「……ふふ、やっとだ」
小さくつぶやいて、ログインボタンを押す。
テストプレイ期間、真緒は誰よりもこの世界に入り込んだ。獣人たちの息づく広大なティレノアの世界を、あちこち駆け回った。 武器職人、薬師、狩人、魔道細工師
──とにかくあらゆる職業を渡り歩き、レベルを上げ、練度を上げ、そして──気づいてしまった。
「練度」を極めた時だけ、ひっそりと現れる「隠しレシピ」の存在に。多くのテスターが途中で離脱する中、真緒は最後の一日までログアウトせず、限定されたフィールドを何度も巡った。
──それが、今日から“正式”になる。 もちろんデータは一度リセットされたけれど、真緒の中には確かな感触が残っていた。
この世界の奥底に、まだ誰もたどり着いていない“何か”が眠っている。
『ようこそ、ティレノアへ』
ログインとともに流れたナレーションの声が、どこか懐かしい。集落の入り口、見慣れた狸のNPCが身分を問う。そのコミカルな動きがまたかわいくて画面のまあで自然と笑みが溢れる。
まずはキャラメイクだ。
狐耳の獣人アバターに、琥珀色の瞳とふわりと広がる白銀の尻尾。 その姿に自分の“居場所”を重ね、真緒──いや、Maoは再びティレノアの大地に降り立った。
初期フィールドは、草原と森の狭間にある小さな村「エルレスト」
村の掲示板に貼られた案内を確認し、まずは戦闘職業を一つ選ぶ必要がある。
Maoはためらわず「盗賊」を選択した。敏捷性と手先の器用さが求められる職。
どこかクラフター向きの特性にも思えた。
そのままチュートリアルが始まる。
──スプリングポップを3体倒す。
──ラフレア草を5株集める。
どちらも、最初のフィールドに点在する基礎素材だ。
狐耳を揺らしながら走り、草むらで姿を見せたスプリングポップを短剣で撃退する。
やわらかな毛玉のようなモンスターが「ぽんっ」と弾けると、思わず懐かしさが込み上げる。
草採取の途中、空を見上げると、ティレノアの空にはゆったりと二つの月が昇っていた。
この世界の空気の匂い、風の音、そして遠くから聞こえる他プレイヤーの足音すらも、心を満たしてくれる。
Maoはクエストの必要数を超えてもその手を止めることはしなかった。
──戦闘も、正式版で微調整されてる。
モーションが滑らかになってるし、隙も減った。
細かい違いに気づくたび、真緒の心はさらに弾んだ。
三体目を倒した時だった。
ふと、視界の端に、別のプレイヤーキャラが見えた。
狼耳に銀灰色の毛並み、黒いマントをはためかせた、どこか旅慣れた風貌の獣人。
── Reon、という名前が頭上に浮かんでいる。
狼なのにReon……。
知りあいでもないし、テストプレイ時にもソロプレーの真緒は彼を見たことなどない。なんとなく目についた黒。
彼は黙々とスプリングポップを狩っていた。
視線を前に戻して再び仮を再開する。大体この手のゲームは初めてのお使いと狩りとの往復なのだ。ならば先に採取系はとれるものはとっておいた方が効率がいいだろう。
初期の段階で持てるだけのものを持って帰ろうと考えた真緒は視界に入る範囲をほかの人に迷惑をかけない程度に片っ端から狩り始めた。
何度も狩ってはリスポーンを繰り返すうちに一定のリズムが体に刻まれる。草原を走り回りながら、湧きポイントを地図にマーキング。次の1時間で、モンスターの出現パターンと行動ルートを観察。そして2時間後には、素材のリスポーン時間に合わせた最適な回遊ルートを構築。
草原に咲く「ラフレア草」や「彩光花」、風に乗って飛ぶ「野走り実」などを寸分違わぬタイミングで次々に刈り取っていく。
それはさながら、ひたすらに草原を禿散らかさせているようにしか見えない。
「こういうの、ちょっと楽しい」
現実では、静かに生きていた。
職場でも、無駄口は少なくて、周囲からは「丁寧で礼儀正しい人」と見られている。
でも、このゲームの中では違う。
自分の裁量で、効率で、頭の回転で、誰にも頼らず好きなように動ける。
誰に褒められなくてもいい。
ただ、素材が集まって、クラフトが進んで、レベルが上がる。
それだけで嬉しい。
「これ、たぶん私、めっちゃハマるやつだ……」
白い狐の少女──Mao──は、草原の風を受けて笑う。
その瞳の奥に、これから始まる長い物語の予感が、淡く揺れていた。
ほかのプレイヤーが何人も来ては素材を狩り村に戻っている。そしてまた戻って別のものを狩って村に帰る。
「やっぱ初期はチュートマラソンだな。」
確信を得た真緒はますます素材を多めに持っていくことに力を注ぐ。
レベルが10を超えたところで戦闘と採集の基礎を終えて、村の中央広場に戻ると狸のNPCがチュートリアル完了を告げる。
『次は、生産職を選んでみましょう。』
表示された選択肢の中に、真緒の視線が止まる。
──木工師。
──染色師。
どちらも、テストプレイ時に何度も触れた職業だった。
このゲームが他とは一つ違うところ。それは職業が三つ選べることだ。本当なら生産職で埋めてしまいたい枠だがそうなると素材集めが厳しくなるので、テスト時代に散々転職してどの色が生産に向いてるか試しまくった。
この生産職を選んだのはまず木工が圧倒的にレシピが多い。それはつまりそれだけこの世界を遊べるということだ。そしてそれと相性のいい染色師。
この職業はそれ一つ取ってても強みは発揮されない。何かせ三職と組み合わせて成長することで真価を発揮するのだ。だからこそ、その先に続くものを期待せずにはいられないのだ。
両方を選択できることを確認すると、狸の指示に従ってまずは木工師の作業場へと向かうべく足を向けた。
村の商店街は、まるで小さな絵本の中に紛れ込んだかのようだった。
瓦屋根の平屋が並び、軒先には所狭しと道具や素材が並ぶ。そこを歩くプレイヤーたちはまだ少なく、むしろNPCたちのほうが多く活気づいて見えた。ひとつひとつの店舗が、それぞれの職業を象徴するような店構えと内装で構成されている。
ただ店舗を覗いて歩くだけでも目を楽しませてくれる。
「……これ、全部、クラフターのための店?」
真緒は、目を細めて一軒の店の看板を見上げた。
「
扉をくぐると、木の香りと静けさが出迎えてくれる。
店の奥にいた熊の男性NPCが顔を上げ、少し笑った。
「おまえさん、初心者だな? ──でも、手がちゃんと素材を見てる」
渋い男性ボイスに耳が喜ぶ。画面の男の頭の上でバルドと名前が表示されている。
「……見抜かれた?」
と真緒が小さく笑うと、男は腕を組み、うなずいた。
画面がリアルだからゆえになんとなく出てしまった言葉だったが、それはまるで相手から見えてるようにリアクションされ会話が成立しているような感覚になった。
「なら試してみな。まずはこのレシピと図面、渡しとこう。必要なのは《樹材》だ。どんなレシピでも必要となる
レシピウィンドウに、シンプルなクラフト手順が表示される。木の枝を削り、組み合わせるだけの簡素な工程……でも、それが今は新鮮に感じた。
「木とは、心だ。切るのではない。聴け。触れろ。感じろ」
「ありがとう。……次は、染色も見てくるね。」
「染色? あぁ、あっちの青い暖簾の店だな。あの店主、癖はあるが、目は確かだ」
「え?」
それは確かに会話だった。こんなの普通のNPCが判断できるの?テストでこんな仕様なかった。確かにマイクONってあった。他人は聞き取れません。ってあったから安心して?独り言も呟いていたのだ。
予想外の旋律に新たな好奇心が沸き立つが、今はそれどころではない。
言われた通り、通りを抜けて染色師の店舗──《彩風の瓶屋》──へ入る。
棚には瓶詰めの液体、干された草花、微妙に色が違う布切れが所狭しと並び、入口の風鈴がしゃらりと音を立てた。真っ白なローブを纏った静かな女性。
「……初めて見る顔。ふーん、見込みはあるかも?」
声をかけてきたのは、明るい色の長髪に、やけに鋭い視線を持つユキヒョウの女性NPCだった。頭上にはイルマの文字。
「染色って、魔法みたいなものよ? でも必要なのはセンスと手順。それさえ守れば──誰でも色を操れる」
彼女から渡されたのは、《色素抽出ツール》の彩薬研レシピ、。草原で集めた土屋石ころが素材になるらしい。思ったよりも簡単なレシピで助かった。これならこのまま作業台に直行でもいいだろう。
「色とは、感情です。あなたの心が何を見て、何を映すのか……それが大切なのです。……作れるだけ作ってらっしゃいな。ツールなんて、たくさんあって損はないでしょ?壊した分だけ上達するものよ。」
「──うん、やってみる。」
まただ。こんな会話テスト時代にはなかった。あの時は「色とは、感情です。あなたの心が何を見て、何を映すのか……それが大切なのです」だけだった。壊した分だけ上達……そのセリフが持つ意味は?
真緒は両手に新しいレシピを抱えて、村の中央にある《共同作業台》へと足を向けた。
視線の先に別のプレイヤーが作業台に向かっているのに気づく。
銀灰色の狼耳、黒マント。
──Reonだ。
(あれ、さっきの人……)
ぼんやり眺めていると、彼も何を作ろうとしているようだった。
しかし、素材選びで少し手間取っているのだろうか画面越しに、彼の仕草がほんのりわかるのがなんだか面白い。
その時、チャット欄にふわりと短いメッセージが流れた。
[Reon]:初クラフト、緊張するねw
軽い、フレンドリーなコメント。
Mao宛じゃない。
広場にいる誰に向けたともなく、ぽつりと放たれた言葉。
真緒は、思わず小さく笑った。
このゲームには、まだパーティチャットも、個別チャットもない。けれど、同じ場所で作業しているプレイヤーには、こうして「オープンチャット」で何気ない言葉を共有できる機能があった。
あくまで、“誰に向けてもいない”言葉。
だけど、同じ空間で一緒に空気を吸っているような、不思議なあたたかさ。
Maoは小さくカーソルを動かし、チャット欄に短く返信する。
[Mao]:わかる、ドキドキするよねw
ただそれだけ。
でも、画面の隅で、Reonのキャラがぴょこんと一度跳ねた。ゲームの「喜びモーション」だった。
(……なんか、いいな)
真緒はそっと笑う。
こんな、肩の力が抜けた距離感。 リアルではなかなか味わえない、“ほどよい繋がり”。
──しばらくMaoもその横でクラフト作業を始めようと素材確認に、インベントリを開いた瞬間。
Maoは自分のレベルが「10」になっていることに気づいた。
(あれ……?)
チュートリアルで使う以上に、素材を集めまくっていたことを思い出す。
木材、草花、鉱石、モンスターのドロップ素材──とにかく目に入るものすべてを拾い集め、何度も試作していた。
──誰よりも先に、世界の奥へ踏み込むために。
「……ぼちぼち、いこっか」
おなじみの口癖をぽつりとつぶやく。
夜のエルレスト村に、風が静かに吹いていた。