怪異:人の悪感情が具現化した存在。こちらに害を為すため、祓うべき対象。
とにかく、暑かった。
セミは合唱を響かせて、遠くに入道雲がそびえ立つ。少し目線を外せば『冷やし中華あります』だったり『氷』の文字が並ぶ。
今日も毎年のごとく、最高気温の更新が発表された。熱中症への注意を呼びかける広告も増えた気がする。
「…あ」
ここだけ異様に涼しいことは大歓迎。けれどその原因が歓迎されるものではない。
一見すればただの黒猫。けれどその尻尾は3つに分かれ、何より、この炎天下に影一つ落ちていなかった。怪異だ。
「フー…!」
「えーと、あれは…あった!」
何やら難しい漢字がたくさん書かれた札を持った途端、黒猫はこちらへ大きく跳んだ。
そして私はそれを華麗にかわす…はずもなく。
「きゃあ!痛い痛い!」
バリバリと引っ掻かれながらも手を伸ばす。
「えいっ!」
黒猫の額には札が。その途端、フワフワと空気中へ霧散するように消えてしまう。
そして、暑さは再来した。
私は、祓い師であった。
「あっつ…痛いし…って血出てる!私の手が〜…あ、早く行かないと!」
少しして着いたのは全てが四角で切り取られたような真面目な建物。別名、私の行きたくない場所。先ほど引っ掻かれた手や顔を確認していると、見慣れた顔が近づいてきた。
「ヒカルじゃん!久しぶり、元気にしてた?…まだ生きてたんだね」
「ちょっとミナミ、言っちゃダメだって〜」
私たちに親はいない。小さい頃から施設に収容され、勉強と『祓い』の練習ばかりだった。
そして彼女たちは施設で配られる制服を身につけている。対して私はただの持っている服だ。境目がある。
もうすでに施設を出て社会へ溶け込みながら活動を行っている、ということは、これ以上成長させる必要がない、ということ。
「あれっ?ヒカル、その傷どうしたの?また怪異にやられたんだ〜」
そして私は今、祓い師たちの中での強さは底辺レベル。
つまり私は、この機関に見放されている。
なんだか苦しくなってしまい、彼女たちに目もくれず奥へ走った。
向かったのは小部屋で、ここにこんな私でも受け入れてくれる人がいる。
「ユウさん、おはようございます」
「おっ、来たねー」
エナジードリンク片手にユウさんが手を振った。この前30代になったらしいが、いまだに彼女もできないことが最近の悩みらしい。
「要件ってなんですか?」
「…聞いちゃう?」
「はい」
「…何か飲みたいものある?」
どうやらこれは悪い話らしい。だっていつも、ユウさんが飲み物を勧めるときは悪い話がある時だったから。
なんでもいい、と言ったら出てきたのはアップルジュースだった。かなり悪い話らしい。あのエナジードリンクとコーヒーしか飲まないユウさんがジュースだなんて。
「…傷、大丈夫?」
「あ、え、はい。ちょっと怪異にやられちゃって…」
「…かわいい服だね」
「ユウさん、早く言ってください」
「お偉いさんたちが、君にもう、祓い屋活動をやめてほしいって」
正直、驚きはしなかった。だって祓い屋というのは危険な仕事だし、これ以上管理するのも面倒なのだろう。
けど、それじゃあ小さい頃の私はどうなるの?怪異が見えるからって見出されて、頑張ったのに終わりがこれ。ユウさんに、まだなにも恩返しできてない。
「嫌です…」
「だよね、そう言うと思った。だからさ、これ、受けてほしい」
渡されたのは、何やら真面目な文章だった。
近年、怪異の強力化が問題視されているらしい。数が少し減った代わりに、一体ずつのパワーが高くなっているのだ。そこで試験的に一部の祓い師たちで、導入されるらしい。
相棒制度。
「…これを拒めば…」
「残念ながら…という形になるね」
「…やります。私、やってみたいです!」
「おっ、ほんとかい?」
「はい!だってずっと頑張ってきたんですもん」
「それじゃあ…今日中に相手を見つけてくれる?」
「…え?」
「なぜかやたら早く締め切りを決められちゃったんだけど、その代わり誰でもいいってよ!」
「…わかりました、行ってきます!」
「決まったら報告しに来てね〜」
完全にナメられてる。なんでそんな早く私を切り離したいのよ!
けど、確かにこれは私にとって大変なことでもあった。
特に祓い師の友達がいるわけでもない。しかも実力は下の下。社会に出ることで施設からも出なければならない。相手からすれば損しかない契約を取り付けようとしているのだ。
するとふと、目の前でペンが落ちる。しかも落とした人は気づいていない!
奪うようにペンを拾って、追いかける。
「あのっ!これ落としましたよ」
「ああ、ありがとう」
「あのー…よければ私とペアを組んでくれないかなー…なんて」
「…君、手帳は?」
『手帳』、嫌な響きだ。
私たちは手帳のカバーで階級が分けられている。一番上は赤、次に青、グレーと来て、私は…
「…持ってないです」
「あっそ。僕は青色なんだ。じゃあね」
そう、そもそも手帳自体を持っていない。
けどここで諦めちゃいけない!また別の話かけられそうな人を探す。ここで見つからなければ、私の努力が泡になってしまう。
「あー…誰もいない…」
休憩室でひとり、うなだれる私がいた。
手帳を持っていないなんて無理だ、施設を出たくない、自分に得することがない。みんな同じような内容で断るのだ。
もう、無理なのかな。
せっかく施設に入れたのに出されちゃうし、嫌なことばっかり言われるし、未だに手帳すら持ってない。
ユウさんに、申し訳ないな。施設にも1人だけ、悲しんでくれた先生がいたっけ。
このまま普通の高校生に戻って、いつか働いて…そんなこと、できるのかな。施設も追い出されたのに。
「はぁ…」
もう窓の外は黄昏に包まれ、食堂のある下の階が賑わい始めている。
ユウさんに、謝りに行かなきゃ。涙が出てきそうだった。
「…なあ」
「え…?」
誰だろう。知らない男子だ。けど施設の服を着ているから、私より立場は上。何を言われてしまうのかな。
「相棒制度のペア、なってあげようか」