あの青春の夜は、特に何の変化ももたらさなかった。
表面上は。
「母さんがさ、またクッキー持ってけってうるさいんだ」
「あら、良いじゃないですか。朝陰君のお母様のクッキー、すごくおいしかったですよ」
「それは言い過ぎ。普通だよ」
「本当ですって」
会議という名目の時計塔の密会は、もうほとんど雑談の場だ。埃っぽいパイプ椅子に二人並んで座り、他愛もない話をする。椅子の距離は、だいぶ縮んだ。
僕は、ペットボトルのお茶を飲みながら配信の予定を思い出す。
「あ~、明日だっけ、第二回ヌルリンチョ」
「そうですね。またよろしくお願いします」
「そりゃもう。……俺も楽しみにしてたし」
「ふふっ、楽しみにしてましたか」
口元に手を当てて笑う音無さんが、なぜだかずっと、かわいく見える。
ふと、聞いてみたくなった。
「……そういやさ。ユリーザ、なんでサキュバスにしたの」
「え?」
「佐田さんに提案されたんでしょ? でもサキュバスはなかなか攻めてるような……」
「ち、違います……」
ん? 何が違うんだ?
音無さんが顔を赤くしている。
「わ、私が自分で……アイデアを……」
マジか。
佐田さんじゃなかったのか。
いやでも音無さん、当時中学生だろ。
「じゃあなんでサキュバスなんか……」
「父が昔やってたゲームに、かわいい女の子のキャラがいて……あ、もちろん全年齢ですよ!? 格闘ゲームのキャラです!」
「ああ……」
なんかそんなゲームあった気がする。というか音無父も結構ゲーマーだったんだな。
「私その子が好きで……真面目で友達のいない私と真逆で、自由奔放で、気さくで、明るくて……ユリーザのモチーフはその子なんです。でもサキュバスがどんなものか、当時はその、知らなくて……」
あ~、そういうことか……
音無父、まさか自分のせいで娘がサキュバスVtuberになったなんて……。こりゃ絶対秘密にしなきゃな。
「佐田さんが、オブラートに包んで教えてくれたんですけど、私が押し通してしまって……もう後に引けなくなって……」
音無さんはこう見えて、突発的に行動力を爆発させるタイプなんだな。
そういえば初めてこの時計塔に連れてこられた時もそうだったし、あの……耳を当てられた時も……。
でも。
「そういうの、良いところだと思うよ」
「えっ?」
「音無さんの良いところ。思い切って踏み出す行動力」
ホラーゲームもそうだ。何にでもビビる臆病者がそれでも前に進むなら、それは勇気ある行動なんだ。
「ホラーゲームもそうだよ。何にでもビビっちゃうけど、進もうとする。それは勇気があるからだ。俺にはできない」
「……」
音無さんの顔が赤くなってる。
……ビビりとか言って怒らせたか? 褒めてるつもりなんだけど。
「ごめんビビりとか言って。俺的には褒めてるつもり」
「あ、朝陰君の方が……」
「ん?」
「朝陰君の方がスゴいと思います!」
何がだ。
僕は何もしていない。言われるまま、流されるままなのに。全然スゴくない。
「全然スゴくないよ」
「いえ、スゴいです。私、配信を始めた頃は全然伸びなくて。一ヶ月も経たずに辞めようとしたんです。やっぱり私なんか誰も見てくれないって」
よくある話だ。僕はもう慣れたが。
「まあ、あるあるだね」
「たまたまやったホラーゲームの切り抜きで登録者が伸びたから続けられましたけど。あのままだったら、もうやってなかったと思います」
「うん」
「でも朝陰君は、私より前から配信してて、全然伸びなくてもずっと投稿してて……」
「背伸びした中学生の黒歴史さ。それに良くも悪くも、もう慣れたからだよ」
「それでも……! そ、それに朝陰君が自己紹介で言った時、私、驚いたんです。誰にも言えない私と違って、こんな堂々と言える人いるんだ、って。勇気あるなって……」
あの時、そんな風に思っていてくれたのか。
うわ、なんか……
「うれし……」
「え?」
「う、嬉しい、よ。あんな痛い自己紹介、そんなに褒めてくれるなんて……」
「……私もです! 私のこと、勇気あるって言ってくれたの、朝陰君が初めてですし」
なんだかお互い照れくさくなって、気まずい空気が流れた。
でも今なら、言える気がする。僕に勇気があると、他ならぬ音無さんが言ってくれた今なら。
「お、音無さん」
「はい?」
椅子から立ち上がり、音無さんの前にひざまずく。
「音無澄乃さん、聞いてくれ」
「は、はい」
音無さんの喉がぐっと動いた。目が泳ぎ、落ち着かない様子。僕はその手を取る。手の中の細い指は一瞬跳ねて、でもそのまま、握らせてくれた。今の僕なら、何でもできる。なぜなら今の僕は、勇者だからだ。僕に勇気をくれた当のサキュバスに一人挑む、勇者だ。
「僕が配信を頑張って、音無さん以外にも登録者が増えて、恥ずかしくない数字になったら……!」
「……なったら?」
「その時は、僕と、こ、こ……」
「こ……?」
この僕が、こんなに言い淀んでしまうなんて。どんなホラーゲームよりも、怖いんだ。でも言え、言うんだ。
「こ、コラボしてくれ!」
言えた。
「はい……?」
「配信者のコラボだよ。動じない陰キャと絶叫サキュバスのコラボ。ポッと出の男性配信者だと炎上するけど、ある程度大物になればきっと……音無さん?」
音無さんが手を振り払い、そっぽを向いた。
まずい、分不相応過ぎたか?
そう思った時、音無さんが少し振り向く。
「……いいですよ」
「えっ?」
横目で、見下ろすように僕を睨む。
「コラボ、してあげてもいいです」
「いいの?」
「はい。でも……ち、ちょっとやそっとの登録者数じゃダメだぞ! ボクはまだ誰とも、コラボしたこと無いんだ! つまりボクの、
「そうか、うん。頑張るよ」
奔放院ユリーザは……音無さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、は、早くボクを満足させる男に、なってよね! ……待ってます、から」
真っ赤な耳に、潤んだ瞳。唇から出る涼し気な声は、少し熱っぽい。艶のある黒髪に、ふっくら押し上げられたブレザー。チェックのスカートから伸びる60デニールは行儀よく閉じていて。その上の手は、少し震えていた。
音無澄乃は、本当にサキュバスかしれない。
だって僕は、こんなにも。
魅了されてしまったんだから。