その日も、俺の一日は「いつも通り」の日常だった。
チャイムが鳴り終わったあと、教室はいつものように騒がしさと静けさが入り混じっていた。
部活に向かう奴らが荷物を抱えて走り出し、バイト組はスマホを確認しながら足早に教室を出ていく。
そんな様子を、俺は教室の真ん中の席からぼんやりと眺めていた。
残ったのは、部活もバイトもない数人。
俺たちは机を寄せ合い、教科書とプリントを広げる。
特別仲がいいわけじゃない。でも、誰ともなく宿題をこなす時間が、いつしか習慣になっていた。
「今日またアレ出た? あの意味わからん物理のやつ」
「出た出た。電流がどうとかってやつ」
「毎週同じ形式だろ、なんとかなるって」
「いや、マジでどっちがプラスでどっちがマイナスかわからん……」
「物理基準と電気基準の違い。覚えろ」
ぼやく奴と、淡々と答える奴。
俺はその会話を聞きながら、適当に相槌を打ってプリントにペンを走らせる。
そんな他愛もないやりとりが、不思議と落ち着く。
暮れゆく教室。風に揺れるカーテン越しに、夕陽が差し込んでいた。
空は茜色から藍に変わり、校舎の影がゆっくりと伸びていく。
この静かな時間が、俺はけっこう好きだった。
全員が課題プリントを終えると、今度はそれぞれスマホを開く。
みんなが同じゲームをしてるわけじゃない。ただ、思い思いの時間を過ごすだけ。
俺はゲームはそんなに詳しくないから、たまに後ろから眺めて茶々を入れる程度だ。
たまに、誰が持ってきたのかも分からないボードゲームを引っぱり出すこともある。
負けたらジュースおごりとか、しょーもないルールをつけながら。
そうやって、くだらない時間が過ぎていく。
でも、それが俺にとっての「普通」だった。
*
家に着いたのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。
夕暮れの余韻がまだ空に残っていて、家の前はもう街灯が灯り始めている。
玄関のドアを開けると、空気がひんやりとしていた。
靴を脱いでも、誰の気配もない。
父さんは仕事、母さんは買い物かな。弟は塾だ。
リビングに入ると、机の上には母さんのメモが一枚。
「夕飯は冷蔵庫にあるから、チンしてね」
それだけ。
部屋は妙に広く感じられた。
壁掛け時計の秒針の音が、やけに大きく耳に響く。
遠くで車が通り過ぎる音まで、くっきりと聞こえる気がした。
弟は来年高校受験で、夏から塾に通っている。
「英語と数学を強化したい」なんて、自分から言い出したらしい。
俺が中学生だった頃とは大違いだ。
正直、ちょっと尊敬してる。
制服のまま階段を上がり、少し重たいリュックを右手に持ち直す。
靴下を脱ぎながら、夕飯のメニューに思いを巡らせる。
誰もいないなら、アニメでも流しながら食べようか。
──ここまでは、どこまでも「いつも通り」の帰宅だった。
自室の前に立ち、ドアノブに手をかける。
カチャリ。
ドアノブを回した音じゃない。
鍵がかかったような──そんな違和感を覚えた、その瞬間。
──世界が、反転した。
床が抜けたような感覚。
宙に浮いたのか、足に力が入らないのか、それすら分からない。
次の瞬間、視界が真っ白に染まる。
重力の概念がひっくり返ったような浮遊感。
耳鳴りのような音。
そして、時間が歪んでいく感覚。
現実感がまったく追いつかない。
恐怖を感じる余裕すら、なかった。
一瞬の出来事だったのか、それとも意識が長く飛んでいたのか。
気づけば──
俺は、自分の部屋とはまったく違う、真っ白な空間に立っていた。