正直、この時の俺は精神的に疲弊しすぎていた。
バイト先のスーパーで買った半額シール付きの弁当をぶら下げながら、ふらふらとした足取りで足元ばかりを見ていた気がする。
度重なる残業に、押し付けられる余計な作業。同じ言語を使っているはずなのに何故か全く話が通じない客の相手が積み重なり、もう気力という気力が萎えていたんだと思う。
「もうさぁ……マジでもう誰か、オレが寝てる間にこの世界終わらせてくんないかなぁ……。歩いて家に帰るのさえダルいんだけど……」
情けなさも極まって、なんだか泣きたくなってくる。
いや、本当マジでオレ、もう少し人から褒められていいと思うんだ。
よくやってるよ? 面倒な客にもニコニコしてさ、食べていけるくらいの金額稼いでさ。知り合いなんて誰もいないのに、さみしさとか心細さなんて口にもしないで踏ん張ってる。
半額のハンバーグ弁当くらいじゃ満たされない乾きが、オレの中にずっとあった。
星を見上げる。
「今日はずいぶん
公園の入口ゲートに座ったまま、泣き言ばっかりが口をついた。
もしかしたら警察が酔っ払いか不審者とでも思って、話を聞いてくれるかもしれない。そんな淡い期待がどこかにあったんだと思う。
正直、警察なんて大嫌いだ。この町に来たとき、いの一番に根掘り葉掘り聞かれた上に狂人扱いされたせいで、いいイメージなんて一つもない。藁にも縋る思いとはこのことだ。
「あらぁ。なんでもええんやったら、うちがお話し聞いたげよか?」
背後から、可愛らしい声がした。
軽々しい重さで揺れるビニール袋を眺めていたオレの背中が、思わず跳ねるように伸びる。
「え、え!? どなたか存じませんがいいんですか!?」
勢いよく振り向くも、視線の先には誰もいない。ポツンとした街灯が光る暗い公園だけがそこにあった。
「……さみしすぎて幻聴が聞こえたかな……。だとしたら相当追い詰められて……」
「あぁ、ごめんなさいね、もうちょっと下なんよ。お兄さんのお腰のあたり」
「いやいや、腰のあたりって……」
いくらなんでも低すぎるだろと思いながら、視線を落とす。
直後、言葉を失った。
「嬉しわぁ、やっぱりウチのこと見えはんにゃねぇ。お返事してくれはったから、もしかしてと思ったん。おにいさん、なにかウチらに関わるようなお仕事してはる人?」
ニコニコとした丸顔の、サバ白猫がそこにいた。
だけどどこにでもいる猫じゃない。青い小花柄の着物に、柔らかそうな帯を締めて、手にはきんちゃく籠を持っている。
それが流暢な日本語で、話しかけていた。
「化け……化け猫……?」
「そうえ、やっぱりよぉ知ったはる!」
キャキャッと、楽しそうな笑い声を上げて応えられたが、こっちはそれどころじゃない。事態を飲み込み切れていないこちらの内心なんて意にも介してくれず、その化け猫は嬉しそうに前へと回り込んで、ピョンと膝に飛び乗った。
膝を開いて座っているのに、器用にバランスをとって、ちょこんと座る。
着物ごしでもわかる暖かさと猫足の柔らかさに、うっかり顔が綻んでしまった。
ふくふくとしたお顔でなんとなく察していたけど、毛並みが……柔らかい……。
「ウチなぁ、銀のお花て書いて、銀花ていう化け猫どすの。こんな時間にこんな場所で立ち話も寒いやろ。お兄さん、疲れたはるんやったらウチのお店でお話し聞こか? 甘ぁにした生姜湯くらいは出したげるえ」
コツンと、柔らかい額が顎にぶつかる。
フワッてする……。
こんなの行きたくなっちゃう……。
「でも、化け猫って人を食べるんじゃ……」
「イヤやわぁ、食べへんよ! 人間なんて大きすぎて食べられへんやないの。大丈夫やよって、ウチんち行きましょ。この公園の中にある祠からすぐなん」
「え、この公園!?」
ひょいと膝から降りた銀花さんを追いかけて、つい赤い鳥居の前まで足を進めてしまう。
さっき銀花さんはお店がどうとかって言っていたけど、どう見ても店には見えない。
「あの、銀花さん?」
もしかしたら化かされてる最中なんだろうかと思いつつ、小さな小さな背中に声をかける。すると銀花さんは慌てずゆっくりと、手に持っていたきんちゃく籠を地面に置いて、ポフポフと二度、肉球を打ち合わせた。
「とーぉりゃんせ、とーりゃんせ。こーこはウチらの細道やー」
鈴が転がるような声が歌い上げると、鳥居の内側が、石を投げ入れた水面のように揺れる。
それを見届け、銀花さんはにっこりと振り返った。
「お水やないから怖ぁないよ。ここをくぐって、すぐ右側のお店がウチんちやの。どうぞおいでやす」
膝の少し上くらいに差し出された柔らかい肉球に、そっと指を乗せてみる。手のひら全体で指を握られながら鳥居に足を踏み出すと、やはり水たまりに足をつけたような不思議な感覚があった。
その感覚が頭の先を過ぎ、背中を通りすぎると──
暗いばかりだった公園の景色は消え、色とりどりの提灯が下がった奇妙な繁華街が広がっていた。
「え、……ええ……?」
「はいはい、今の時間は混んどるから、迷わんようにね」
通りすぎていくのはどれも人間とは思えない頭身をしていたり、話す動物だったり、むしろ道具そのものの姿で動いているものもある。どう見ても妖怪ばっかりだ。
いくらなんでも多すぎる。何匹かは見たことがあるオレでも、こんな数は見たことがない。ましてや、妖怪ばかりの町なんて。
「こんなにたくさんの妖怪、一体……! もうこの時代、妖怪はいないもんだと思ってたのに……!」
「これこれ、あんまりじろじろ見るんは失礼え。ほら、早ぉこっち」
きょろきょろと挙動不審な仕草を繰り返しているオレの指を引っ張り、銀花さんが一軒の店の前に連れて行く。
立派な看板のかかった、数百年はここに建っているだろう
「──きゅうりマタタビ堂?」
「ただいまぁー! 遅なりまして、ごめんえ」
カロコロと引き戸を開けて入った先は、小さい真四角の引き出しが備わった薬棚が、壁際にびっしりと並んだ薬屋だった。
正面には小上がりがあり、火鉢が置かれている。低い格子衝立の向こうには番台もあって、さらにその奥にも薬棚が並んでいるのが見えた。
棚の上にも薬は並んでいるが、ビンばかりだ。ドラッグストアで売られているような箱売りの物は、店内に見当たらない。
どうやらさらに奥があるのか、店の隅には長い暖簾のかけられた通路のようなものも見えた。
木と薬のニオイが充満したなんとも言えない空間を見回すオレを尻目に、銀花さんはひょいひょいと小上がりに上って、どこからか座布団を用意してくれる。
「生姜湯がええ? 葛湯がええ? 葛湯やったらお抹茶味もあるえ」
「あ、じゃあ抹茶の葛湯を……」
聞くが早いか、鉄瓶を火鉢に据えて湯呑みを準備してくれる。湯呑みに抹茶葛粉らしいものを入れるのも、丸い前足で器用に茶さじを使っていて、思わずまじまじと見てしまった。
サバ白だけあって、足先は真っ白だ。フワフワと柔らかそうな細い毛が、動くたびに細かく揺れている。
あとで肉球触らせてもらえないかな。
「おい」
「ッ、はいっ!?」
急に聞こえた低い声に、体全体が跳ねた。
銀花さんの声じゃない。むしろ声が聞こえたとたん、銀花さんの目が嬉しそうに瞬くのが見えた。
そう言えば店に入ったとき、銀花さんは帰宅の遅れを誰かに謝っているようだった。
もしかしたら家族の誰かがいるんだろうかと、銀花さんの視線を追った先で、オレはまた言葉というものを忘れる羽目になった。
「あ、え……!」
暖簾を押し上げるように、着物姿の妖怪が立っている。
わかってる、店の外はそもそも妖怪だらけだ。さっきの驚きは、オレの中にもまだ残っている。
だけど化け猫の銀花さんが自分の家、自分の店だと連れてきた先で、これを予想するのは無理ってもんだ。
全身を覆う赤い鱗に、亀に似た顔立ち。六歳ほどの子どもと同じくらいの身長に、頭部からは髪に近い体毛が生え、頭頂部はぬらぬらと濡れている。
濃紺の着物を身につけた河童が、呆れ顔でそこにいた。
「か、河童……!?」
思わず引け腰になってしまったオレに、河童はぎろりと視線を向ける。
たった一瞬こちらを見ただけのはずだが、そのたった一瞬の間に、上から下まで、しっかり値踏みをされた気がした。
「今度は人間か。お前さんはようよう、いろんなモンば拾うて帰るクセがある」
「トラさん、ただいまぁ。お月さん映した夜露のついたエゴマの葉っぱ、よぉさん摘んできたえ。奥でなんかしてはったん?」
「
「あら、なんかめずらしいお薬がいるん?」
「鳥が吐けんくなった言うて、困っとった。喉から腹ん底にかけてなにかが溜まっとー気がして気持ち悪かとも言いよったけん、まずは消化がようなる薬ば出したが……おおかた解決はせんちゃろう」
「ほうかぁ。それはしんどいなぁ」
当たり前のように歩み寄っては小上がりに腰を下ろし、気難しそうな顔でため息を吐いた河童に、銀花さんも困り顔でフワフワの頬に手を宛がう。
丸く形作られている輪郭がほんの少しへこんだように見えるけど、結局フワフワな頬の毛と、フワフワな丸い手がくっついただけだ。
銀花さんがさっき頭突きしてくれたときの柔らかい感触が忘れられず、思わず呆けて見入ってしまう。
おっとりとした口調もある程度関係しているのかもしれないが、見ているだけで癒された。
「ほっぺ触りたいなぁ……」
「あ?」
「あ、いえ!! なにも言ってないです!!」
こぼしてしまった願望に、トラさんと呼ばれていた河童が素早く睨みつけてきた。
爬虫類系生き物の顔は、決して苦手なわけじゃない。むしろ可愛いとさえ思えるが、明らかに殺意を以て睨みつけられるとそれどころじゃなかった。
未だ腰が浮いたままの状態を落ち着けることさえできず、泣きたい気持ちで銀花さんに助けを求める。
「あの、銀花さんすみません。こちらの方は……?」
「あらあらごめんねぇ、まだ紹介もしてへんかったわ。うちの旦那さんの、河虎さん。トラさんて呼んでるんよ」
「旦那さんって、……え、つまりこの河童さんとご夫婦ってことですか!?」
「そうえー。ああお兄さん、ちょうどお湯も沸いたわ。葛湯飲んで温まりぃ」
「は、はい……いただきます……」
ニコニコと話す銀花さんの手前それ以上なにも言うことができなかったが、頭の中は混乱し通しだ。
化け猫と河童って、夫婦になれるもんなのか? なったとして、子どもってできるんだろうか。いや、河童が腹から子を産むのか、卵を産むのかも知らないが、腹から産む場合は可能性があるんだろうか。
そんなことを考えながら改めて座布団に座り、注いでもらった葛湯をすすっていると、銀花さんが隣にちょこんと座ってくれた。
「それで、陰陽師のお兄さんはなにを悩んではるの?」
「なにをって言うか、なにもかもって感じなんですけど……なによりもう、ここで生活するのが──って、あれ?」
言いかけて、言葉が止まる。
「銀花さん、……なんでオレが陰陽師だって、知ってるんですか?」