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IX. 無理難題

 大きな大きな魚を逃した。


 就任式の会場なる網から抜け出た先は、ルパラクルという巨大な池。巡回するだけでも十日は掛かりそうなこの場所で、姿かたちも、ましてや声さえも分からない人物を探すだなんて、私ひとりでは到底できっこない。


 実質パティナさんを盗難している身であるため当然人に頼めるわけが無く、おまけに事件が発覚するまでという曖昧かつ確実な期限もある。


 ただ返却したいだけなのに、どうしてこうなっちゃったんだろ……。


 苦悩と後悔で内側から圧し潰されようとも、時間は待ってはくれなかった。


 ともかく今度はリベラさんとの約束を守るべく、噴水広場に向かわなければならない。初めて訪れたので正確な帰路は分からないが、広場に面した大通りを辿っていけば、いずれ街の中心部に着くだろう。


 項垂うなだれながら男くさい広場を去る。


 大切な人に会いさえすれば全て解決すると信じていたので、足取りは何よりも重かった。


『コルダよ、さっきは何故あやつに部屋の場所を聞いた』


 報復なのか、言葉で私を刺してきた。


「(いや、あの……あ、学頭。学頭と会った瞬間わかったんです。探してる人じゃないって。だからせめて、ばっ場所だけでも分かれば手掛かりが見つかるんじゃないかなぁ、なんて)」


『あの場に居たのにか?』


「あ……」


『お、お前……またしても我輩を騙し――』


「(――しっ、してません、してません! 嘘じゃないです! 探してるのは事実です!)」


『本当のことを言え!』


「返そうとしてました」


 !


 なんで喋ってんの!?


 勝手に開いた口を今更ながら両手で覆う。


『ほ、本当に言うのか……』


「(い、いやだってこの口が)」


『口? ……まさか』


 真実に辿り着いたかのような、はっきりとした物言いだった。


「(えっと、あの、なんですか?)」


『右手を上げろ』


 空を突かんばかりに腕が伸びる。


「えっ⁉ あっ、なんで!」


 直立した腕を必死に戻そうとするも、まるで打ち立てられた棒のように微動だにしない。道のど真ん中で上げ続けるのは流石に目立つので、そそくさと回廊を支える柱に隠れた。


『やはり。おかしいとは思ったが』


「(一人で納得しないでください!)」


『コルダよ、確か図書館にはリベラとやらが住んでいたな』


「(え? あ、はい)」


 何を言い出すかと思えば。


『あやつの顔につばを吐け』


「はぃ?」


 訳が分からなかった。


 街を歩いていると、道端みちばたに唾を吐き出すやからをよく見かける。遭遇率が高いからといっても決して慣れることは無く、落ちたものを視界に入れるのも嫌だった。そんな野蛮で汚らしい行為を人に向けるだなんて。


 しかも相手はリベラさん。


 投げかける言葉ですら誤れば、血の報復が待っているというのに。ましてや唾を、しかも顔を狙って吹き掛けるとは、もはや狂気に近い。


『“手掛かり”だ。場所が分かれば掴めるのだろう? 戻される心配が無くなったからな、力を貸すと言ってるんだ。それともなんだ。他に策でもあるというのか』


「(それは……)」


 痛いところを突いてくる。


 就任式へは確実に会えると踏んでいたので、失敗した後の事なんて考えもしなかった。第一、初めから失敗を想定していたら、あの濁流のような人混みにわざわざ身を投じようとは決して思わない。


 だからこそ、失敗に終わってしまってからは激しい後悔にさいなまれている。


 魔法で探すにしても対象を認知していなければ意味が無い。唯一面識のあるパティナさんでも知っているのは声だけで、情報を共有しようにも非常に曖昧で主観的なため使い物にならなかった。


「(でも、だからといってそれがどう吐くことに繋がるんですか)」


『鈍い奴め、自分の腕をよく見てみろ』


「(見なくても分かりますよ、早く下ろさせてくだ)……あれ?」


 途中から何を言ってるのか分からなくなった。


 自分の体なのに自由に動かせないって、おかしくない?


『何かの拍子にらしい。お前なら心当たりがあるんじゃないか?』


「繋が……はは、そんなまさか」


 失笑はすぐに止むことになる。


 掘り返される記憶。立ち入り禁止の場所でパティナさんを見つけた時、私は彼女に積もった埃を吹き飛ばそうとした。思った以上に埃が舞って、途端に鼻がむず痒くなって、私は、私は……


 ……彼女に向かって思い切り、鼻水を飛ばしてしまった。


 みるみるうちに鮮明になるいままわしい光景。


 装飾照明の暖かな光。


 キラキラと舞う埃たち。


 パティナさんの表紙に付着した多量の鼻水は、彼女と私とを繋ぐ透明な架け橋となっていた。


「うわはわぁぁぁ……」


 今まで以上のやるせなさが一気に押し寄せ、たちまち体から力が抜ける。


『別に無理ならしなくていい。我輩が命じれば済むことだ』


「(いやちょっとそれは)」


『やるのか?』


「……」


 一方は出会いがしらに唾を吐き掛け、もう一方は機会を見計らって唾を吐き掛ける。


 どちらにしてもやる事は一緒。最悪の最悪。しかし自分で行う方がまだ幾ばくかの自由が保障されていた。それにもしかしたら途中で別の解決策が見つかるかもしれない。言い換えれば可能性の芽を初めから抜くか否かの問題だ。


 であれば答えは一択。


「(やります。やらせてください……)」


 これまで生きてきた中で、一番重く苦しい発言だった。


『よし分かった。ではもう腕は下ろせ』


 まるで糸が切れたかのように右腕がだらりと下がる。ずっと上げ続けていたからか、骨の周りがジンジンと痛い。


『さっそく聞きに行こうではないか』


「…………はい」


 叔父さん。私、この先どうなっちゃうんだろ。


 不安が重く伸し掛かる。気分はまさに処刑場に連行される思いだった。


 救いを求めて仰ぎ見た空は清々しいまでに澄んでおり、一塊の雲が悠々《ゆうゆう》と流れている。これだけハッキリ見えているのに、どれだけ手を高く伸ばそうとも決して届くことはない。


 私達が探している人物もこの雲のように、今もこの街のどこかにいるのだろうか。

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