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XXVI. 飛び出す絵本

「え?」


 振り返ろうとした矢先、私の体は宙を舞う。


 あ、れ?


 何?


 何が起きたの?


 固い床に顔から落ちる。


 あまりの激痛と衝撃に、ただただ口をパクパクと動かすことしかできなかった。


「ガキが盗みだなんて感心しねぇな」


 聞き覚えのある男の声がガンガンと頭に突き刺さる。この声は図書館で私に恫喝してきた不良学徒のもので間違いなかった。


「う、ぁ……」


 うめき声が勝手に出てくる。


 自分の意志とは関係ないこの悲痛な吐息は、体自身が本能的に生命の危機を訴えてきているのだろう。


『コルダ? おい、大丈夫か! コルダ!』


「なぁ知ってっか? 傷には二種類あんだとよ。血が流れ出る外傷に、頭が痛む内傷だ。悪いお前は俺に殴られて、二つの傷が同時に出来ちまった。だからよぉ」


 男はぐにゃりと笑う。


「特別に俺が治してやるよ」


「ヒッ」


 瞬間、脳裏に蘇ったのはピレア先生の授業。

 自分の胃腸を治そうとして、お腹が何倍にも膨れ上がってしまった学徒のことだった。


 あの時はピレア先生がいたから助かった。


 けれどもこの不良学徒に治そうとする意志は全く感じられず、むしろどれだけむごたらしい失敗が見れるのか興味津々な具合だった。


 死ぬ。


 死ぬ、死ぬ。


 確実に、死ぬ。


「ゃ、ぃや……めて」


「《――|necto《接続》」


 懇願も空しく、導入句が告げられる。


 それは私にとって死刑宣告をされるに等しかった。


「〔まっさらなこめかみに、まっさらな脳ミソ〕」


 死を間近に捉えているためか、体感する時間がゆっくりと過ぎていく。


 倉庫内に漂う微細なほこり、遠くから響く喧嘩の音。そして震える学徒の唇。


 具体句が終わり、あとは完了句を口にするだけ。


 体は生きるために痛みを訴え続けているけれど、私の意識は完全に死ぬことを受け入れていた。


erあっ――」


『――男の顔に唾を吐け!』


 べちゃり、という音と共に男の頬に水が掛かる。その水の正体が自分の口から発射された唾液だと気づくまで二呼吸ほどの時間を要した。


 この空白の時間は不良学徒も共有していたようで、しばらくまばたきだけを繰り返す。


「何しやがんだテメェ!」


 発火したかのように怒りを露わにし、私に向かって拳を振り下ろそうとしてきた。


『黙れ』


 心の芯が震えるくらいにズンと響いた重い言葉。


 先程まで怒りに燃えていた不良学徒の顔はみるみるうちに青ざめていく。振り上げていた拳はだらりと下がり、やがて崩れるように倒れた。


 助か……った?


 視界は正常、体もどこかねじ曲がってはいない。


 まだ生きている。今のところは。


 ひとまずの脅威が去ったことに安堵し、ただただ茫然と倉庫の窓を眺めていた。


 雲一つない夜の空。そこには大きな月が輝き、こうして私に光を与えてくれている。


 死んでも生きてもいない奇妙な感覚。


 あたかも湖面を揺蕩たゆたうようなこの体験を、もう少し味わっていたかった。




『あ、ああ! 体が溶け、助け、てくれ! こコルダぁ!』


 今までにない絶叫に、一瞬で現実に引き戻される。


 慌てて目を動かしパティナさんを見つけ出す。彼女はちょうど右手が届きそうな位置に落ちていた。


「パティ……うぅ」


 拾おうとするも痛みによって阻まれ、反射的にこめかみを触ってしまった。すると身を刺すほどの鋭い痛みと共にヌルリとした嫌な感触がした。


 確認すると、右手の指には鮮血がべったりとまとわり付いている。量からして傷は思った以上に広く深い。


 とはいえ魔法で治すにも正確性に欠けるため使える訳がなかった。


『ち……血、血を……』


 弱弱しい声がした。これまで聞いたことがないくらいに儚く、消えかかったそれは彼女の容態を理解するにはあまりに簡単だった。


 パティナさんは今、私以上に死に瀕している。


 そう悟った瞬間、私の視線は無意識に右手へと注がれていた。


 赤黒く変色した血が指を厚く覆っている。

 これは自分の血。不良学徒に殴られた傷から流れ出た私の血。


 こんな汚い色をしていたとしても、


 こんな私から出たものだとしても、


 こんなので誰かが助かるのなら。


 パティナさんに向けて手を伸ばす。けれどあとちょっとのところで届かない。無理をして腕を伸ばした瞬間、再びこめかみに鋭い痛みが走る。


 それでもここで諦める訳にはいかない。


 唇を強く噛みしめて耐え、体ごと、腕ごと前へと伸ばした。


 ぬとり。


 本の表紙に、パティナさんの純白の肌に、べったりと私の血を塗り付けた。




 変化はすぐに訪れた。


 表紙を汚していた赤黒い血は、みるみるうちに吸収され無垢に戻る。目を疑う光景だったが、決して手遅れではなかったことに僅かばかりの安心を得る。


 しかし本当に血を塗っただけでよかったのか。『体が溶ける』と不穏な言葉を叫んでいたこともあり、手放しで喜べる状況ではなかった。


「(パティ……ナさん……?)」


 しばらく様子をみるも、返答がない。


 いつもならすぐ、いや、パティナさんの方から話しかけてくる場合が多かったのに。時間が過ぎれば過ぎるだけ、心の不安が募っていく。


「(パティ……)」


 名前を言いかけたその時、表紙に小さな突起が現れた。木の実ほどのそれは、少しずつ隆起していく。


 やがて一定以上伸びてくると、今度はすぐ近くに同様の突起物が二つ現れ、またもや上へ上へと伸びていく。


 一直線に連なった三つの棒。


 あまりに異様な光景に、視線はすっかり釘付けになり、頭の中ではこの棒たちの動向のことしか考えられなくなっていた。


 変化が起きたのは四つ目の突起が現れた頃。


 棒たちの正体について気付いてしまった。


 指。

 それも人の指だ。


 私が今まで目撃していた棒は人の指だった。


 恐ろしい予想を的中させるかのように、ついに五つ目の突起が伸びてくる。


 気付いてしまった恐怖、否定したい願望。けれど本から伸びる棒は自らのことを指だと主張してくる。それから両腕が生えてきた頃、本の中央からスイカ程の球体が現れる。それは明らかに人の頭部そのものだった。


 子供の頃、シーツを被ってお化けの真似をしたことがある。


 目の前に現れたソレは、まさにあの頃のお化けそのものだった。


 中身はパティナさん。パティナさんだって理解してる。けどここまでおぞましい光景を見せられればたまったものではない。


 お願い、早く、早く気絶させて……


『あ゜ッぁ、ア!」


 目の前のソレは突如として鳴き始めた。


 声はそっくりそのままパティナさんのもの。なのに荒げる奇声は絶対に彼女がするはずもない奇声だった。


 甲高い奇声に、何事かと近づく足音が聞こえる。


「お、ぉああああああああ!」


 と何人かが走り去る音が聞こえた。


 お願い、早く気を失って。


 自分の意識に再度尋ねる。それでも自分の意識は正常のまま。目の前のソレは奇声を上げつつ、本から這い出してこようとしている。どたばたと手を、腕をもがく姿はさながら水に溺れた人のようだった。


 奇行を前にして私の体は無意識にも後ろに退こうとする。そんな私の行動を察してか、ソレは私の腕に触れるや否や、強く握りしめる。


「ヒッ、ィ……」


 振り払おうとするも、頑なに放してくれない。


 それどころかもがけばもがくほど、ずるりずるりとソレの皮膚がたわみ、まるで厚手の手袋越しに握られているような感触だった。


 ついに両手が私を捉え、まるで私というなの綱を手繰り寄せるかのように近づいてくる。


 距離はもう互いの息が掛かるくらいまで迫っていた。


 奇声を上げ続ける皮膚を纏ったお化け。


「ヤめ……」


 ついには股から暖かい感覚が広がってくる。


「コ……る、ダ」


 お化けが私の名前を呼んだ。


 パティナさんと同じ声で。


 ふっと意識が遠のき、ようやく私の願いが叶った。




「……ダ、……ルダ」


 頭上から聞きなれた綺麗な声がする。


「……コルダ」


 ああ、これはパティナさんの声だ。


 ゆっくり目を開いてみる。初めのうちは焦点が合わずにぼやけていたが、だんだんと視界が晴れていく。


 そこには月のような美女がいた。


 白金の髪を垂らしながら、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。月明りに照らされた彼女の髪は、キラキラと音が鳴るくらいに澄んだ輝きを放っていた。もし月の光が人になるとするならば、こんな姿になるのだろう。


 あまりに幻想的な光景に、我を忘れて見入ってしまった。


「良かった。本当に良かった……」


 優しく頬を撫でられる。すると彼女の瞳は次第にうるみ、やがて大粒の涙を零す。


 ぽとり、ぽとりと降り注ぐ雫は、さながら宝石のようだった。


「初めてだ。涙から音が聞こえたのは」


 鼻を赤く染めながら、涙で声を濡らしながら、パティナさんは嬉しそうに言葉を紡ぐ。


 彼女の笑顔を皮切りに、私の意識は再び途絶えた。

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