プッという軽い抵抗はあったものの、刀は思った以上に楽々と突き刺さった。コツンと硬い手応えがあったのは背骨に当たったのか、それとも背中側の胸椎に当たったのか。まあ、どっちでも構わない。とにかく体を貫くほど深く刺したことを確認すると、一気に引き抜いた。こちらも思った以上にスッと抜けた。
まるで豆腐を切っているようだ。
この刀の切れ味がいいのか、それとも人体というものがもともとそういうものなのか。両手で構えた刀に目を落とす。いわゆる日本刀だ。きちんと長さを測っていないが、おそらく定寸の二尺三寸五分はあるだろう。天井の照明を反射して、
刀を引き抜いたところからプッとドス黒い液体が噴き出す。みるみるうちに白いシャツに染みを作った。若い痩せた男だった。大学生くらいだろうか。飲み会の帰りなのか、煙草と汗のすえた匂いが充満している車内で、ひときわ強く酒の匂いがする。黒いジャージー地のズボンを履いて、だらしなく股を広げて座っていたので刺しやすかった。
刺されるまで手元のスマホを熱心に見ていたので、何をされたのか気づかなかったに違いない。きれいに中分けにした髪の下に、子犬のような無邪気で無警戒な目がある。それを見開いて、少し驚いた表情でこちらを見ている。喉元がひくりと動いた。何か言いかけたが、もう手遅れだ。致命傷を与えた。叫び声を上げることはできないだろう。
体を起こしながら、横目で周囲をうかがう。木曜日の終電間際の車内は、ガァーとかゴォーとしか形容できない走行音で満たされていた。騒々しい。だが、静かだ。どこかでイヤホンから漏れるシャカシャカという音がしている。皆、スマホに目を落としているか、さもなくばだらしない格好で目を閉じているか。警戒心のかけらもない。誰一人として同じ車内で命が一つ消えたことに、気づかない。
……逝け。
声が頭の中で響いた。それに弾かれるように反転する。後方の座席にいた、ふわふわしたブラウスにロングスカートの若い女は、イヤホンをつけてスマホを見ていた。目の前で人が殺されていることに気づいていない。手にしたスマホの少し下あたりから、突き込む。水月……要するに胃袋のあたりから、少し上方に向けて刺す。横隔膜を傷つけ、心臓か、あるいはその周辺にある太い血管を貫く。
いかに楽な手応えで刺せるとはいえ、刀が体に侵入するときには多少の衝撃があるらしい。その女も、驚いたように目を丸くして刀が刺さったところに目を落とした。引き抜く。プッとドス黒い液体が噴き出す。いや、噴き出したはずだ。もう確認しなかった。とにかく一人でも多く命を奪うのが先決だ。同じようにスマホに熱中している隣に座っていたくたびれたスーツ姿の中年の男性も、刺した。だらしなく太っているのでもう少し手応えがあるかと思ったが、刀はあっさりと水月に刺さった。
逝け、逝け。
声は刀から聞こえている。そして、頭の中で反響した。突き動かされて、なんの躊躇いもなく刺し続ける。刺す、抜く、移動する。刺す、抜く、移動する。恐怖や罪悪感は一切、なかった。まだだ。まだ、誰も気づいた気配がない。どこで気づかれるか。誰か止めにくるのか。みんなスマホに目を落として、すぐ隣で命が失われていることに気がつかない。なんという無警戒、無関心。
通路にいる若い男が邪魔だった。耳の下あたりまで伸ばした髪を茶色に染めて、ダボダボのカーキ色のトレーナーに黒いジーンズ。スポーツブランドのロゴがついたショルダーバッグを下げている。アルバイトの帰りか? いや、このタバコ臭さからすれば、やはり飲み会かもしれない。右手で吊り革につかまり、左手に持ったスマホを見ている。
車両の半分くらいまで来ていた。ここまで全て突き殺していたが、初めて横に薙ぎ払った。刀は男の首を切り裂く。糸のように細い切り口から、シュッと鮮血が噴き出した。床に血飛沫が飛び散る。男は自分の血を見て目を見開いて驚き、ゆっくりとこちらを向こうとして、その目がクルリと裏返った。急激な出血で意識を失ったのだろう。
グラリと倒れかけたところを突き飛ばし、次の座席に向かう。男がどうと倒れた音で、座っていた初老の女が目を上げた。
「あ……」
目を見開き、何か言いかけて立ち上がりかけたところを、深々と突き刺した。刀は何やらヒラヒラがついたブラウスの胸に吸い込まれる。少し硬い感触があった。胸骨に当たったか。そのまま座席に押し倒して、引き抜く。隣のミリタリーファッションの若い女はヘッドホンを装着してスマホを見ていて、すぐ隣で起きた凶行に気づいていない。この辺りで血振りをしておくかと、刀を振った。ヒュンといい音が鳴る。その動作で気配を察したのか、女が目を上げた。
「……!」
何か叫ばれる前に、その首を袈裟に切った。勢いで女は前のめりに床に倒れる。ドスンという音に、数人の乗客が顔を上げた。
「わ!」
少し離れたところから、男の声が聞こえる。ええい、ここまで順調に殺し続けていたのに。見ると車両の端にいた若い男が、立ち上がって隣の車両へと逃げていくところだった。ガチャンとドアを開ける騒々しい音が車内に響く。周囲の乗客が、ぼんやりと目を上げた。
逝け、逝け、逝け!
切迫した声に、突き動かされた。刀を振るうと、手近なところから次々に切り掛かる。心臓を突き刺し、首を切り裂き、車両の奥へと進んだ。
「ひ、ヒィ〜ッ!」
「た、助けて!」
「人殺しだ!」
ようやく惨事が起きていることに気づいた乗客たちが、隣の車両へと殺到する。血だまりができた車内を見て、腰を抜かして泣き出す女もいた。濃厚な血の匂いが鼻腔をくすぐる。いいね、たまらない。殺戮の匂いだ。
誰かが警報を鳴らしたのか、どこかでファンファンと耳障りな音が鳴っている。心なしか車両が減速しているように感じた。そろそろ潮時か。ドアのそばに行くと、緊急停止ボタンを押した。手動でドアを開ける。まだ車両は動いていた。だが、十分に飛び降りられる速度だ。
「よっと」
勢いをつけると、飛び降りた。手をついて暗い線路に着地する。すぐ頭の後ろで、地下鉄が疾風を巻き起こしている。刀を右手にぶら下げたまま車両の進行方向とは逆に、悠然と歩き始めた。