雨の匂いが空気に溶け込んでいた。灰色の雲が低く垂れこめた空の下、生徒会長綾瀬千尋は静かに屋上の扉を押し開けた。
濡れたコンクリートの上、制服の裾を揺らしながらひとりの少女が佇んでいる。橘玲奈――彼女はフェンスに寄りかかり、しとしとと降る雨をじっと見つめていた。
「……校則違反よ、橘さん」
千尋の声に、玲奈はゆっくりと振り返る。濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、どこか寂しげに揺れていた。
「見つかっちゃいましたね、生徒会長」
玲奈は悪びれる様子もなく微笑んだ。その無邪気さが千尋を困惑させる。
「ここは私の秘密の場所なんです」
玲奈が手を広げると、雨粒がその指先に溶けて消えた。千尋は思わず息をのむ。屋上の冷たい空気が、なぜか熱を帯びたように感じた。
「……早く戻りなさい」
「生徒会長も、私を咎めるだけで帰っちゃうんですか?」
玲奈の瞳が千尋を捉える。逃げられない。千尋は理由のわからない鼓動を抑えながら、玲奈のそばへと歩み寄った。雨が、ふたりの距離を縮めるように降り続けていた。
「橘さん、次の書類を整理しておいて」
生徒会室で千尋が指示を出すと、玲奈は「はいっ」と元気よく返事をした。周囲の生徒たちが「さすが玲奈、仕事が早い」と笑う中、彼女は軽やかに動き、柔らかく微笑んでいた。
――本当に、あの屋上にいた子と同じ人間なのだろうか?
千尋は、ふと視線を彷徨わせる。玲奈はいつも明るく、誰とでも親しく接している。しかし、千尋が見たのは違う顔だった。冷たい雨に濡れた寂しげな横顔。
気のせいだろうか。
「先輩?」
玲奈の声が近くで響く。気づけば目が合っていた。千尋は咄嗟に目を逸らし、視線を書類へ落とした。
放課後の廊下、人波の間を縫うように歩くと、不意に玲奈とすれ違った。
「……!」
指先が、かすかに触れた。ほんの一瞬、玲奈のぬくもりが千尋の肌に残る。振り返ると、玲奈は微笑んでいた。だが、その瞳の奥には、やはり何かが隠れていた。
夜の帳が降りる前、千尋は無意識に屋上への階段を上がっていた。扉を押し開けると、そこにはすでに玲奈の姿があった。
「やっぱり来ましたね、生徒会長」
フェンスに寄りかかりながら、玲奈は微笑む。その表情はどこか嬉しそうで、千尋は言葉を失う。
「どうしてここに?」
「ふふ……先輩なら、また来ると思っていました」
玲奈は軽やかに言うと、傍らのコンクリートに腰を下ろした。千尋は一瞬迷ったが、その隣に立つ。
「この場所、好きなんです。風が気持ちよくて、誰もいなくて。……まるで世界にひとりきりみたいで」
「そんな風に思うなんて……寂しくない?」
千尋の問いに、玲奈は少しだけ視線を落とした。
「……昔から、ひとりの時間が長かったんです。母が忙しくて、家に帰っても誰もいないことが多くて」
ぽつりとこぼれた玲奈の言葉に、千尋は胸が詰まる。
「それで、転校の話が出たときも、別に驚かなかった」
玲奈の声は、あまりにも静かだった。
「転校……?」
「まだ決まったわけじゃないんです。でも、そうなったら……ここも、私だけの秘密の場所じゃなくなりますね」
千尋は言葉を飲み込んだ。玲奈の言葉の端々に、どこか諦めのような響きを感じた。
「……それなら、今日からここは、私たちの場所にしない?」
不意に、玲奈の目が丸くなる。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「先輩がそう言うなら……秘密を共有ですね」
その笑顔が、雨に濡れた屋上の風景よりも、ずっと儚く、愛おしく感じられた。
放課後の教室、窓の外には朱色の夕焼けが広がっていた。千尋はペンを走らせながらも、ふと手を止める。机に頬杖をつき、思い出してしまう。
玲奈の微笑み、風に揺れる髪、指先がかすかに触れたあの瞬間。
「……何を考えてるの、私」
小さく息を吐き、ペンを握り直す。それなのに、視線の端に玲奈の姿を探してしまう。
翌朝、校門で玲奈を見つけた。明るく笑いながら友人と話す姿が、妙に眩しく見える。
「おはようございます、生徒会長」
玲奈が千尋を見つけ、駆け寄る。その瞳がまっすぐで、千尋の胸がざわついた。
「……おはよう」
いつも通りに返したはずなのに、どこかぎこちない。玲奈は不思議そうに首をかしげる。
授業中、玲奈の横顔を盗み見るたびに、千尋は自分が何を求めているのかわからなくなる。友達以上の気持ち? でも、恋とは違うはず――。
けれど、玲奈が誰かと楽しそうに笑うたび、胸の奥が苦しくなるのは、どうしてだろう。