◆
よくある話だ。
私の恋人が私の親友と男女の仲になっていた。
その事実を私が認識したのは、冬の気配が漂い始めたある雨の日の午後だ。
そうそう、これからはその親友を「あの子」と呼ぶことにする。
かつて親友という関係にあったけれど、今はただ「あの子」。
あの子とは中学時代からの付き合いだった。
常に人の輪の中心にあり、快活で、誰からも好かれる存在。
私は教室の隅で本を読むのが好きだったけれど、不思議と私たちは共に過ごす時間が長かった。
互いにないものを認め合い、補い合える関係だと──そう認識していた。
彼と出会ったのは大学のサークルだった。
彼は先輩で、穏やかな物腰と時折見せる不器用さが印象的だった。
私たちはごく自然な流れで交際を始めた。
あの子にも彼を紹介した。
「お似合いだね」と、彼女はそう言った。
私たちは三人で出かけることがよくあった。
映画を観たり、彼の運転で遠出をしたり、私の部屋で一緒に食事をしたりもした。
今振り返れば、彼があの子に向ける視線に、私に対するものとは異なる種類が含まれていると感じる瞬間があったかもしれない。
あの子が彼に対して、友人以上の親密さを示すような言動があったかもしれない。
でも当時の私はそれらを特に意識することはなかった。
あの子は親友であり、彼は恋人である──それが当時の私にとっての事実だった。
話がそれてしまった。
私が彼の浮気に気づいたのは、彼が浴室に入っている時だった。
テーブルの上に置かれていた彼のスマートフォンが、メッセージアプリの受信を知らせた。
ロックはされていたが番号は分かっている。
そしてつい魔がさして見てしまった。
まあこれは私が全面的に悪いので、言い訳をするつもりはない。
そして画面に表示された数行の文面。
画面に表示された文字列を、私は目で追った。
「今日のあなたも素敵だった」
「早く次の約束の日にならないかな」
「週末、どうする?」
そして、彼からの返信。
「僕もだよ」
「週末、時間を作るよ」
「彼女にはいつものように話しておく」
彼女とは私のことだろう。
思考が一時的に停止した。
呼吸が浅くなるのを感じ、その場に座り込んだ。
浴室から彼が出てきた。
私は急いでスマホを元の場所に置き、電源ボタンを押してロックを掛けた状態に戻す。
やがて居間へとやってきた彼が私の様子に気づき、「どうかしたのか」と尋ねてきた。
私は何も答えなかった。
その日から私の日常は変わった。
食事の味がしなくなり、夜も十分に眠れなくなった。
あの子からは、以前と変わらない調子で連絡があった。
「最近、少し元気がないように見えるけど、大丈夫?」
私はその連絡に返信しなかった。
そして、彼女の連絡先を全て削除した。
彼とは話し合いの機会を持った。
といっても、あの子の事は言わなかったが。
私に好きな人ができた、と伝えたのだ。
彼は悲しそうだったが、私を引き留めはしなかった。
§
ところでなぜ私が彼を糾弾しなかったかといえば、なんとなくやってみたい事があったからだ。
当時私はとある小説家を推していた。
ジャンルとしてはオカルト推理小説という感じだろうか。
ひたすら分厚く、1,000ページを超える作品も珍しくはない。
その人の作品の中で、探偵役の登場人物がこういったのだ。
呪いは、ある──と。
ただその登場人物のいう呪いとは超自然的なものではない。
なんというか、負のベクトルで自己暗示をさせるというか……そんな感じであった。
私はそれをあの子にしてみたかったのだ。
まあそれに、彼を糾弾したところでどうなるというのか。
私の中に彼への信頼はないし、謝罪されたところでどうにもならない。
そして私は行動──というか、
§
まずあの子のSNSアカウントを定期的に確認するようになった。
あの子は日々の出来事を頻繁に投稿する傾向がある。
私はあの子の投稿の中から、体調の悪化を訴えるもの、人間関係の悩みを吐露するもの、その他ネガティブな感情が読み取れるものに対して、淡々とサブ垢で「いいね」を押し続けた。
あの子が新しい投稿をするたびに、私はそれを確認し「いいね」を押す。
時にはアカウントを変えて。
ただそれだけ。
その行為は日課となった。
次に私は複数の探偵事務所に連絡を取り、あの子の尾行を依頼した。
依頼内容はあの子の行動を記録すること、そしてもしあの子と視線が交錯することがあれば、穏やかに微笑みかけること。
微笑みかけた時点で依頼は終了。
それ以上の行動は求めなかった。
探偵は依頼内容に特に疑問を挟むことなく、契約に従って業務を遂行した。
契約する探偵事務所を頻繁に変える。
異なる人物が週替わりであの子の行動範囲に現れ、視線を送り、微笑む。
するとあの子のSNSの投稿内容に、少しずつ変化が見られ始めた。
「誰かに見られているような気がする」という趣旨の記述が増えた。
次に私は匿名のSNSアカウントを複数を作成した。
プロフィールは全て架空のもの。
それらのアカウントを使い、あの子のダイレクトメッセージ機能を通じて──
「あなたのことだったんですね」
というような事をぱらぱらと日を置いて送った。
このメッセージに具体的な意味はない。
送信後、私はそれらのアカウントを即座にブロックした。
あの子が返信することも、送信元を特定することも不可能にした。
さらに私はあの子の投稿に対して共感的なコメントを送り、悩みを聞く姿勢を示す──トモダチの振りをするアカウントを作った。
するとあの子はその匿名の存在に徐々に心を開いていく。
日々の不安や他者への不信感を、そのアカウントに対して吐露するようになった。
やがて、直接連絡をしようだとか一度会ってみたいだとか、そんな事をあの子が言うようになった。
他にもいろいろやった。
発信者番号を非通知に設定し、あの子の携帯電話に不定期に電話をかけたり。
もちろん電話がつながると、何も言わずに数秒で通話を終了する。
それを数日に一度、あるいは数週間に一度の頻度で繰り返した。
あの子の自宅の郵便受けに、差出人の記載がない、中身が空の封筒を投函することもあった。
封筒のサイズや色は、毎回変えた。
あの子が頻繁に利用する駅の伝言板や、行きつけのカフェの隅のテーブルに、あの子のイニシャルを書き残したりもした。
お店にとっては迷惑だろうし、私もそこは少し申し訳ないと思っている。
あの子が通勤に使用している自転車のサドルの高さを、ほんの数ミリだけ変えておくこともあった。
どれもこれも気づくか気づかないか、微妙な変化だ。
あの子の自宅アパートの近くの電柱や壁に、チョークで意味不明な記号や、小さな幾何学模様を描いた。
それは雨が降れば消える程度の、些細なものだった。
これらの行動を私は淡々と、でも長期間にわたって継続した。
大体3年くらいたってからだろうか──あの子のSNSの更新頻度は徐々に低下し、やがて完全に途絶えた。
探偵からの報告によればあの子の外出回数は減り、表情は乏しくなり、周囲を過度に警戒する様子が見られるようになったという。
私はその報告書に目を通し、次の契約更新の手続きを進めるだけだった。
金銭的には非常に大変だ。
おかげで風俗の仕事をしなければならなくなった。
まあでも、些細な事だ。
そして──
ある日、いつものようにインターネットを閲覧していると、見慣れないSNSアカウントからの投稿が目に留まった。
それはあの子の妹を名乗る人物のアカウントだった。
投稿には、短い一文──「姉が、永眠いたしました」とだけ。
私はその投稿にも「いいね」を押した。
死因や経緯については、書かれていなかった。
§
数日後、私のスマートフォンに着信があった。
ディスプレイには、かつての恋人の名前が表示されていた。
私は通話ボタンを押し、電話に出り。
彼の声は以前とは比べ物にならないほど弱々しく、憔悴しているのが分かった。
「……久しぶり。突然、本当にすまない」
私は何も言わなかった。
ただ、彼の次の言葉を待った。
「あの子のこと……君も知っていると思う」
私は静かに「うん」とだけ答えた。
「俺は、その……彼女と浮気を、その、してしまった。君もそれに気付いたから俺と別れたんだろう? それで……もし、君さえよければ……一度、会って、きちんと謝罪させてほしいんだ。駄目元なのは分かっている。でも、どうしても、直接……」
彼の声は震えていた。
私は数秒の間を置いて、短く「いいよ」と答えた。
日時と場所を指定する彼の言葉を、私は黙って聞いた。
数日後。
指定された駅前のカフェに私は時間通りに到着した。
窓際の席に、彼が座っているのが見えた。
最後に会った時よりもずっと痩せて、顔色も悪く、目の下には濃い隈が刻まれている。
私が近づくと、彼は弾かれたように立ち上がり、深く頭を下げた。
「来てくれて……ありがとう」
私たちは向かい合って座った。
彼はなかなか言葉を切り出せないようだった。
俯いたまま、テーブルの上の自分の指先を神経質に弄んでいる。
やがて、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
過去の自分の行いがいかに愚かだったか。
私を、どれほど深く傷つけたか。
後悔と自責の念に苛まれていること。
彼の言葉は途切れがちで、何度も声を詰まらせていた。
私はただ黙って彼の言葉を聞いていた。
彼の謝罪は長く続いた。
私は時折小さく頷く以外、何の反応も示さなかった。
彼の憔悴しきった顔、力なく震える声、繰り返される謝罪の言葉。
それらを冷静に観察しながら、私は心の中で静かに思った。
──二年くらいかかりそうだな
と。
◆◆◆
カフェの店員──坂口あずみは、店内のやや奥まったテーブルに座る一組の男女にピンとくるものを感じていた。
「ははあん、別れ話だな」と彼女はそう直感した。
坂口あずみは生来、そういった修羅場好きといった悪癖がある。
故に、“そういう雰囲気”を漂わせる客の存在は、退屈な午後の勤務における格好のスパイスとなるのだった。
仕事の合間を縫っては、ちらりちらりと二人を観察する。
男の方は終始俯き加減で、何かを必死に訴えているようだが声までは聞こえない。
女の方は男の話を聞いているのかいないのか、表情一つ変えずに窓の外を眺めているようにも見える。
いかにも、という雰囲気だ。
あずみは空になったグラスを下げるという名目で、さりげなく二人の男女の席へと近づいた。
その時だった。
あずみは思わず「あっ」と小さな声を漏らしそうになるのを、寸でのところで堪えた。
なぜなら女の顔が明らかに変だったからだ。
不細工だとか、化粧が崩れているとかそういう類の話ではない。
──な、なに!? 私の、きのせい……?
そうあずみが思ったのも無理はなかった。
女の目──その二つの瞳が無かったのだ。
少なくともあずみの目にはそう見えた。
まるで墓穴を思わせる不気味な黒い穴が二つ、ぽっかりと空いている。
ぐっと目を閉じ、恐る恐るもう一度見てみる。
すると、女の目は元に戻っていた。
そして、口元には笑み。
(了)