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第52話 栞

 生きたままの死霊。

 那雪の脳裏をそんな言葉が過って落ちて行った。この世界にいるにも拘わらずいないような扱いを受ける事。学校に在籍しているという事実はある。テストや面談と言った最低限必要な事は受けているはずがただそれだけ。

 クラスメイトの目に那雪の姿はどのような姿で映っているのだろう。初めから隅で孤独を貪るだけの人物だと思われているのか影のようですぐにいなくなる黒猫のような人物とでも思われているのか。

 教室をいつでも騒ぎの渦に巻き込んでしまう男子生徒たちによる悪口の話題に上った気配も無ければ女子たちの視線に薄暗さを感じる事もない。那雪の事など初めからいない、そんな扱いを受けているように思えて仕方がなかった。

「こんなに大勢の人の中で一人ぼっちみたい」

 一人で呟いたそんな言葉も枯れ気味の響きを持った弱々しい声もつかむ人物など誰一人としていない。誰も那雪の事など気に留めはしない。まるで忘れられているよう。

「あなたも忘れてしまったのかな、ねえ、奈々美」

 そんな言葉が痩せこけた身体に刺さって。内側から現れた想いが外から跳ね返って刺して来るようで、どこまでも空しかった。


 朝は恐ろしく優しくて冷たい。秋空は心地よい冷気を静かに運び込んで那雪の身を毛布の外から包んでいた。

 身体を起こし、ベッドから降りる。冷たい床が季節の巡りを思わせて、空気の温度が人肌には少し厳しい。か細い身体では寒気を強く受け取ってしまうものだ。

 着替えを済ませて机の上に置かれた眼鏡を手に取り、カーテンを開く。色の沈んだ晴れ空は数年前から変わらない那雪のようで寂しさを覚えつつも親しみを感じていた。

 今日は休日。学校と言う愉快な孤独の檻に閉じ込められずに済む日が愛しくて、那雪は空から元気を分けてもらって部屋を出る。レーズンパンを軽く食べてコーヒーをゆっくりと飲むだけの単純な朝食。簡単な食の中、迸る思い出が入り乱れ、コーヒーの表面に移された那雪の顔に色を付ける。

 魔女の奈々美が遠くへと行ってしまったあの冬休みから二年半もの時が過去へと変わってしまった。奈々美は今頃どこにいてどのような世界を見ているのだろう。

 部屋へと戻り、机に立てられた写真を眺める。茶色のうねる髪に彩られたその顔はちょっとした肉感を持っていて可愛らしさの象徴となっていた。

「私は何も変わっていないよ、見た目も心も」

 いつまでも彼女を想う事、ただそれだけの不変なら心に薄暗いヴェールのカーテンなど現れなかっただろう。

 成長を感じられない、それが自分の中の評価。

 やりきれない気持ちを指先にまで行き渡らせて四つ葉のクローバーが貼り付けられた栞を力なく掬い、細長い指で包みながら胸に当てて目を閉じ、机からサコッシュを取って中へと仕舞い、歩き出した。


 太陽は顔を上げ、世界を見下ろすように光を注ぐ。まつ毛に当たって景色を色付ける淡いきらめきを見ながら那雪は歩き続けていた。

 この道にいつまでも眠っている思い出たち。色も形も薄れて、しかしながら記憶から抜け落ちることも出来ずに不思議な心地を残している。

 歩く度に影は動き後をつけている。誰もいない、太陽がつけた影だけが那雪と一緒にいる。そんな散歩はいつもと同じ流れを見せて、公園へと踏み込んで。

 背の低い草に覆われたそこの一部を借りて集まるシロツメクサや草原の際に生えて大きな存在感を示すソテツに外を素早く通りすがる車たちを横目に歩き、ベンチに向かう。

 そこで那雪は普段と異なる輝きを見つけて目を見開く。ベンチにいた先客は深緑のローブを纏って色素の薄い茶髪をうねらせながら座っていた。いつか千切れてしまいそうな程ボロボロになっていた思い出を補修して補強して、新鮮な色を付けていく。

「奈々美」

 那雪の声は風に飛ばされてしまったのだろうか、再び繰り返し名前を呼んでみるものの、返事は向かって来ない。

 隣に座り、見つめてみるものの奈々美には姿が見えていないのだろうか、草を踏む音も座った時にかかるはずの振動も伝わっていないよう。まるでこの世に生きていない生者。

 隣同士、詰められたはずの距離に得体の知れない距離を感じてしまう。

 奈々美がボトルを取り出し麦茶を飲む隣で那雪は栞を取り出して眺める。麦茶に冷やされた空と栞から伸びる赤い靄。靄が繋ぐ那雪と奈々美に空の色は琥珀の絵画を描いていた。

「会いたいよ」

 ぽつりと呟かれた奈々美の言葉は何故だか那雪の事を指しているのだと理解できてしまった。

 栞から伸びる靄が那雪の姿を隠している、そんな気配を感じ取り、那雪は栞を優しく胸に当て、想いを刻む。

 会いたい、だから、お願い。

 そんな言葉の一つが仄かな温もりとなって消え、辺りに再び静寂が訪れる。気が付けば那雪の手は奈々美の手に重ねられていた。

「奈々美」

「なゆきち」

 驚きに見開かれた目とふわりと広がるように細められた笑顔、淡いピンクの空気同士が交わるそこで、那雪は優しく言葉を滲ませた。

「久しぶり、会いたかったよ」

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