那雪はカーキ色のコートに袖を通した。黄土色に近い色合いのコートを纏って鏡に姿を映す。かつては紺色を、制服のような色合いこそを好んでいたものの、いつから変わってしまったのだろう。中学生の頃だっただろうか。それから先のことを思い返すだけのことに対してどうしても突っかかりが出て来てしまう。想い出巡りに躓いてしまう。
目が悪いからだろうか、日常生活でもメガネをかけ、日頃から分厚いレンズ越しの世界しか見ていない那雪には遠くは見渡せない。これはそのような問題ではないということくらいは理解していたものの、それでも目が悪いせいにしてしまいたいものだった。
それ程までに過去の空白感が大きすぎた。
「似合ってるね、なゆきち」
褒める言葉は本気のものなのだろうか。自分の見た目やオシャレに対する明るい言葉はあまありにも眩しく嘘くさく。
ただ、褒めてくれている人物が人物。きっと本気で思ってくれているのだろう。
「肌が白いからか、淡い色の方が似合うものね」
そう評してくれたのは薄茶色の髪をうねらせ全体的にふっくらとした体つきをした柔らかそうな女、奈々美。
彼女は那雪の彼女であり、いつまでも女の子同士の薄桃色と薄水色の心の模様を交わらせるような淡い関係を紡ぎ続けていた。
奈々美は食パンにレタスやチーズ、ハムなどを挟みサンドイッチを作ってラップに包んで山葡萄のかごに新聞紙を敷いて入れていく。
「今から映画館に行くんだよね、それとも先に公園にでも寄るの」
那雪の枯れ気味の声はかつての悲しみに沈んで根付いてしまったものなのか、それとも痩せこけて力が出ないからなのか、すっかりと地声となり果てていた。
そんな弱い声でも、響きの悪い声でも静寂は阻むことはなく、奈々美は耳で触れ、目を緩めて答える。
「今から行く映画館はルールも公開している作品も変わった所だからね」
話によればそこは一度入場すれば閉館時間が来るか抜け出すまで幾つでも何度でも作品を観ることが出来るのだという。
「随分古いやり方」
那雪の頭の片隅に母との何気ない会話が蘇ってきた。時間というヴェールの中でどこか曖昧に見える実家でなされた会話、そこで言われていたこと。その方針そのものだった。
「ところで何の映画を観たいの」
当然のように湧いて来る疑問。何も考えなし、一度行ってみたかっただけの可能性も否定は出来なかったものの、単純な疑問はそのまま零れ落ちていた。
「二作ほど観たいのがあって」
どちらも素人が作った短編映画、奈々美の知り合いが制作に携わっているのだという。
「知り合いが作った映画って気にならないかな」
「確かに」
素直な同調。肩の力を抜いて素直に言葉を贈り合うことの出来る関係、そこに程よい心地よさを見ていた。
家を出て、歩いて行く。飲食物の持ち込みが可能な映画館など今時幾つほど残っているものだろうか。今回向かう場所は恐らく商業映画は取り扱っていないだろう。それどころか金を稼ぐ意志があるのかどうか。もしかすると趣味の延長線上にあるものなのかも知れない。
町並みが弱々しい太陽に照らされている。少しの寂しさが感じられる道路を、葉を散らして残された木々が虚しく立っているだけの道を進み続ける。この町並みをふたり並んで歩くこと。それだけでも映画のワンシーンとなりそう、那雪の感想は親の趣味に取り憑かれたものだろうか、最近はもう少し動きや賑やかさのある映画が増えているように感じられる。それでも尚、那雪の中での映画の印象は少しばかり静かなものだった。
「なゆきちは映画と言えばどんな印象を持ってるの」
奈々美の質問は那雪の今の情を見抜いてのことだろうか。別に今から変わり種の映画館に行くというだけ、何も特別なことを訊ねられているわけではなかった。
「大人しくて洒落た話が多いような」
そんな言葉に耳を傾けて、奈々美は頬を緩めて言葉の手を繋ぐ。
「なら安心、趣味制作だとどうしてもそういう作品が増えるから」
制作費用の捻出という現実的な話題、映画というフィクションを作るために直視しなければならない課題そのものだった。
そうした会話を挟みながら着いたそこはかつては純白を誇っていたであろう壁に支えられた建物。乳白色にも見えるボコボコとした壁にはひび割れや埃の沈着が見られ、年月の経過を身体で示しているようだった。
薄い木の色がむき出しな扉を開いたそこに立つ女は深々と一礼して入場料を告げる。
七百円、果たして維持費に届くだけの金額だろうか。毎週土曜日と日曜日しか開いていないという表示からしても趣味だということを強く感じさせられた。
「安いね」
「映画の公開を頼む側も会場の使用料を結構払っているみたいだし、それと自分のお金でどうにかやってるみたい」
どうやら利益を出すつもりは無いそう。女は顔に刻まれた皺を深めて優しい笑顔を作ってみせる。
「ゆっくりと過ごしてね」
そこまで広くはない会場、上映のために使われている小部屋が五つ、清掃用具や機材を仕舞っている部屋がひとつ、四人一組で休憩するためのテーブルがふたつ。
この場所に映画好きを自称する人物は入ることもなく、どちらかと言えば友人や知り合いが趣味や学校のサークル活動で撮影したものを公開したり物好きな人物が誕生日や結婚記念日のスライドショーを流すために借りる場所なのだそう。
そこまで理解しつつ、那雪はここが本気の趣味が剥き出しになる場所なのだと噛み締めながら進む。その様は奈々美にも伝わっただろうか。手は小刻みに震えて緊張は空気をも震わせる。
気が付けば奈々美はこちらを見つめていた。澄んだ瞳には那雪の顔がしっかりと映されていて、自分をまじまじと見つめているのだという感覚に更なる緊張を走らせる。
「どう、これからの上映作品、楽しみになってきたでしょ」
ただ一度頷く。間違いなく楽しみだった。奈々美が見てきた世界の一端を知ることが出来るかも知れない、今まで観てきた映画とは何かが異なるかも知れない。それを受け入れるかはね除けるか、メガネ越しに見つめる世界の中に那雪が見向きもしなかった場所など幾つもあるのだと既に思い知らされていた。
ひとつめの部屋へと入る。釘を打ち付けられたドア、そこに吊された板には大きな文字で『距離』と書かれていた。ふたりの訪れを明るい部屋は無事に歓迎してくれる。
先ほどの女が入ってきて上映準備を始める。機材のセッティング、広げられたスクリーンとの適切な距離、カメラの角度、様々な拘りがそのまま正直に現れるのだという。
無事にセッティングを終えたのだろう。電気を消し、暗闇を招き入れて女は部屋を出てドアを閉める。
「終わったら出ていいの」
「そうなんだ」
商業施設としての映画館しか知らない那雪には先輩の存在が、愛しの奈々美がこの上なく愛おしくて堪らなかった。
やがて映し始められる映像。ある男の話。大学に進学する際に上京し、仲の良かった女子と再会するべく故郷へと戻る話。
男は上京してからも手紙のやり取りを続けていた。例えただの友情だったとしても大切な仲だった。そんな彼だったものの、ある日、サークルの飲み会で他の女と付き合ってからというもの、女子に返事を出すことが叶わなくなったという。
後に結婚すると決まりようやく手紙を出したものの、返事は一切来ない、招待状にも返事のひとつも来なかった。
妻はそんな出来事を、男の想いの流れをしっかりと見つめていたためだろうか、会って来ると言った時にも引き留めることなく了承した。
三日前のことを思い返しながら、会いに戻った結果を噛み締めながら電車に乗り込む。そこに残る想いの味は苦みひとつ。あの子は今まで通りのあの子などではなかった。どうしてだろう。いつの間に距離が開いてしまったのだろうか。そこに想いの色など宿っていなかった。
あの目は、完全に他人を見つめる冷たさをしていたのだから。
暗転する画面、明かりが戻ることもなくただ流れ続ける沈黙に映像と音の余韻は強烈に焼き付いていた。
那雪は湧き出る想いに打ち震えながら奈々美と共に部屋を後にする。
「どうだったかな、あの時の冷たい演技、私が男を見る時の目を真似したらしいの」
「冷たい感情だったね」
明らかに別の生き物を見ているような目、確かに那雪と強く濃くどこまでも想い合って色を深め続けていた奈々美にとって異性など全て他人だったことだろう。聞いた途端に納得してしまう那雪がいた。
「あの映画の女の子が結婚報告を手紙で受ける時の話は小説にもなってるわ。そっちも趣味、文学とか文芸とか言って同人誌を扱うイベントで出してたわ」
きっと片方でも両方でも、どちらの側面でも楽しめるように、或いはそうした制作がしたかったのだろう。
続けて観た作品は夜の景色を見つめて散歩するだけの作品。人の姿は殆ど出て来ることもなく、男なのか女なのか、それすら判断の付かない手にはCDが収まっている。人という情報はただそれだけで、台詞に相当するものは全て空の星の瞬きと共に文字で映されるだけ。
こうした形式の映画を観ることなど初めてだった。空に映される輝き、薄らとしながらも鮮やかに色付いた文字たちはどこまでも美しく幻想に溢れていた。
そんな幻に彩られた心情に那雪は思わず目を湿らせてスクリーンから溢れる光の滲みに同調していた。
やがてそうした麗しく美しい時間が終わると共に奈々美が持っているサンドイッチを戴くべくふたりテーブルに腰掛けて向かい合う。
「どうだった」
「すごくよかった、うん、とっても」
あの想いの震えは上手く言葉に表すことが出来なかった。輝きに充たされた想い。暗い部屋の中にきらめく画面。その中には人々が生を歩み紡ぎ続けたドラマが息づいていた。
誰の人生でもほんの一部を切り取るだけでよく出来た掌編小説のような映画になる。そんな小さくも広い世界、たった五つの部屋で公開されている世界たちが愛おしく想えて仕方がなかった。
「よかった、私もここが大好きだもの」
それは偽りも脚色もない純粋な事実だった。ノンフィクションならではの自然な笑顔が溢れて不思議な花を咲かせる。
那雪もつられて同じ花を咲かせていた。
サンドイッチに挟まれた萎れたレタスは今まで食べてきたどのようなレタスよりも美味しく感じられる。食パンも水気を吸ってお世辞にもいい食感とは言えないはずなのにこれまでにないほどに心地よい歯ごたえにすら感じられる。
恋や愛、思い出とは、この世で最も不思議で煌びやかなスパイスだった。
窓ガラスの向こうの世界が、灰色を背負ったように見える働き盛りの人々が自分たちと切り離された世界の人々に見えて仕方がない。
きっと将来は同じような色を背負うこと間違い無しだと言うにも過言でないにもかかわらず。
「なゆきちと食べるサンドイッチは美味しいわ、いつも以上」
奈々美も同じ事を感じていたのだろうか、お揃いの色をした感情を、同じ柄をした想いのペアルックを喜んでいた。那雪の口からも感情を共有するための言葉が零れ落ちて、奈々美の笑顔を色付けて。
「よかった、なゆきちも満足したみたいで」
おかしなあだ名、何年もの間そう呼ばれてきたものの、いつ聞いてもおかしなものはおかしい。
しかし、そんなおかしなあだ名が可愛らしく感じられるのは相手が恋人だからだろうか、それとも元々の感性なのだろうか。
「そういえば何でペットに付けそうなあだ名いつまでも使ってるの」
なんとなく、特に深く考えたことも無かったことを訊ねてみた。
奈々美の方はと言えば笑いつつも少しきまりが悪そうに顔を傾け視線を逸らしながら口を開き始めた。
「なんとなくちょうど良い親しみやすさかなって。気に入らなかったかしら」
「むしろ大好き」
きっとただの友人からの呼び名でも同じ事を答えていただろう。やはりなゆきちはなゆきちだった。
やがて昼食を食べ終わると共に奈々美は訊ねてみた。
「なゆきちが気になる映画があったら観てみましょ」
選ぶ権利は完全に那雪に手渡された。綺麗な状態そのものの権利は美しさに満ちていて、これから覗く夢の切り抜きがどれも面白そうで仕方がなかった。
残されたタイトルは二つ、半分残し。一室は何も上映されていないためか札には上映作品募集中と書かれておりドアも締め切られていた。
「お時間あと三十分です」
閉館時間が早い。やはり趣味というべきか、もしかすると買い物や掃除といった生活の都合もあるのかも知れない。
映画を観る空間である以上は考えずにはいられない女の人生。刻まれた皺の数だけ感情を動かしてきたのだろうか、手が萎れてしまう程に頑張って生きてきたのだろうか。
そんな考えを他所へと追いやって那雪は二つの札を見つめる。
片方は短編のラブストーリー。学園祭の中で付き合いが始まるのだとタイトルの下に小さな文字であらすじが記されていた。
もう片方を見つめて那雪は目を見開いた。
そこには何も書かれていない。しかしドアは開かれていた。
奈々美と目を合わせて確かめてみるものの、奈々美もまた分からないといった態度を形にしていた。
女のミスだろうか。実は募集の案内を書き忘れていて開けっぱなしにしているだけではないだろうか。気になって仕方がない。意識は自然と向こうへと吸い込まれていった。
「こちらの作品を鑑賞なさいますか」
いつの間に後ろに立っていたのだろうか。女はふたりを案内すべく手を動かしていた。
「ええ、お願いします」
気が付けば自然と返事をこぼしてしまっていた。まるで引き寄せられるように吸い込まれるように、足は自ら飲み込まれるように。
不安で胸が一杯になるものの、不思議と嫌な予感はなかった。
室内へと、スクリーンの目の前へと身体は招かれていく。奈々美もまた同じように歩いて行く。
ふたりとも何かに魅入られてしまっているのだろうか。
女が慣れた手つきで上映の準備を整えると共に変化が訪れた。那雪の意識は夜よりも暗い闇の中へと引きずり込まれていく。足首をつかんで下へ下へ、暗闇の底へと、暗黒の空間の仲へと、引っ張られて。
やがて目の前に広がり始める映像、そこに映されていた人物はこの世で最も愛しいあの子だった。
那雪と出会い、自らも傷ついていたのだという事実を隠し通しながら励ましながら同時に励ましてもらっていたのだという彼女。
その彼女、奈々美が他の魔女の世話になるために〈東の魔女〉の名だけを掲げて進んだ後のこと。
『〈東の魔女〉のくせに火の属性すら扱えないの』
彼女は周りの魔女たちから嘲笑われて名ばかりが立派な彼女を責め立て続けた。
『そんなならもういっそ出てこない方がマシでしょう、アナタのためを思って言ってるの。この恥さらし、一族の面汚し』
人のためを思って流す言葉なのだろうか。どこからどう見てもそうとは思えない。
もしもこの行いが正しいのだと言うのなら、躾のためだといって暴力を振るう家庭の大人たちでさえも正しさを主張してしまう。
そんな時間でさえ大したものではないのだと言わんばかりに流れ去っていく。
奈々美は帰ってきた。愛すべき故郷、大切な人が過ごしているはずのこの地へ。
懐かしい景色、キミと歩いた世界、キミと触れ合ったあの時間が今という世の中と重なり合って滲む。気が付けばその目は潤んでいた。
歩いて行けばそれだけ思い出が蘇ってくる。ひとつひとつを柔らかな手で掬いながら、那雪との思い出に浸っていた。
「ここで一緒にクレープ食べたかな」
夜の公園、そこにはないものを見ていた。あの日あの時、日差しに照りつけられながら内外の熱に晒され続けていたキッチンカーから差し出されるクレープ。その味は幸福のひと言へと無事に繋がった。
バナナとクリーム、イチゴとブルーベリーにチョコレート。
噛み締めるほどに果物の食感が香りを連れてきて幸せを広げてくれる。
あの時のことはもう二度とこの場では味わえないかも知れなかった。
「他にもあったよね」
公園の中へと足を運ぶ、橋の下は植え込みになっているのだろうか、そこから覗く花に目を通しながら大きな噴水の前へと身を持ち込んだ。石で出来た縁に座って会話を繰り広げていたこともあった、そうしたことでふたり大切な時を過ごし続けていた。
「懐かしい」
ついつい零れ落ちる言葉に自分ながらに圧倒されて時の流れというものを肌に染み込ませていた。
このままではきっといつまで経っても今の自宅にはたどり着くことが出来ないだろう。
それを心に留めて噴水に背を向ける。
足を進める。時間の流れに置いて行かれてしまわないように、今という時間の中で那雪に会うことが出来るように。
それから幾つの日時が過ぎ去ったことだろう。そう言いたくなるほどに、ため息をつきたくなるくらいに長い時間をひとりで過ごしてしまったように感じられた。
那雪に会うことは叶わない、何故だかどれだけ探しても見つけることなど出来ないまま、息苦しさに打ち震えながら眠る夜が幾つも出来上がっていた。
「なゆきち、どこにいるの」
本人は答えてなどくれない。かといって自然や他の人が代わりに返事をしてくれることもまず無かった。
那雪は未だ高校生、県外に進学か親の事情でも無い限りこの土地から手を離すことなど起こることもない。もしかしてそうした事情があったのだろうか。思考に影が射し込んできてしまうものの、そう簡単に諦める事も出来ない。きっとどこかにいるはず、脳のどこかがそう感じ取って叫ぶのだ。
「でも、どこにいるんだろう」
分からない、まるで霧に包まれているように見通すことか出来ない。
別れ際に渡したしおりは今でも大切に保存されているだろうか。それとも那雪の手の中でゆっくりと朽ち果てて、今では焼却炉の燃えかすの中だろうか。
やがて奈々美は那雪を探すために更なる手段を握り締めて振るう。決して褒められたことではなかったものの、場合次第では許されない事ではあったものの、こうするほか無いのだと奈々美の中で決意を固める声がこだまする。音の響きが心の水面にいくつもの波を立てる。
澄んだ心などここで捨ててしまった。
一般人への魔法の使用。これがどれだけ恐ろしいことなのか、世の中の罪人と変わりの無いことなのか、考えながらも使わずにはいられなかった。
薬を煮詰め、様々な人々をウワサや張り紙、ビラなどを使って呼び込む。そうしたことの全ては魔女の誘い。甘い餌につられて訪れた人々に黒猫の夢を体験させるイベントを立てたのだった。
そうして他の人々の視線によって作り上げられた世界の中で奈々美本人は愛しのあの子を探してみるというもの。誰かが姿を目にしていれば間違いなくこの場所に現れるだろう幻影。 その気配をたぐり寄せること、或いは気配を手に本人のいる場所まで辿ることで再会しようという試みだった。
幻の世界、そこではかつての現実を幾つも混ぜ合わせた複雑なフィクションが繰り広げられていた。一度では見つかることがなくても何度も試してその成果を無事につかみ取る。
幾つの夜が過ぎ去っただろう。何年もの時間をひとりで過ごしてしまっただろう。
奈々美は新たな薬を煮込み、それを喉に流し込んで夢の中へと潜り込む。
あの子のことを想いながら、あの子の気配をその手に握り締めながら。
やがて映し出される夢、そこにあの子は立っていた。メガネのレンズは少し分厚くなっただろうか、右の額を髪が避けてまるまると見えているのはかつての自分の髪型、左の額を出していた奈々美の反対側ということだろうか。
その手を伸ばす。ひとりの少女しか目に映されていない中で儚い手は細々とした身体を抱き締めようと近付いて。
ふいに漂う冷気に気が付いてしまった。闇より深く影より冷たい、底知れぬ冷気が辺りを包み込む。
やがてどこから湧いて出たのか、爆発の如き炎が吹き出して。辺りを包んで奈々美の身体を焼く。
手を伸ばして声を振り絞るものの、なにひとつ伝わることなく虚しい響きとなって消え去った。
那雪は目を見開いた。目の前にはそれ程の大きさを感じさせないスクリーンが張られていて、世界はいつも通りの時間を歩んでいることを告げていた。
隣に座る奈々美に恐る恐る訊ねてみた。
「今のって」
言葉も無しに頷くだけ。
静寂を纏って映画館を後にしてようやく口を開いた。
「なゆきちがどんなことを想って過ごしてたのか分かって更に愛しく想えて仕方がないの」
きっと彼女は彼女で異なる何かを網膜というスクリーンに焼き付けていたに違いなかった。
「私は奈々美がどれだけ頑張って再会しようとしてたのかひしひしと伝わってきたよ」
「知ってる」
どういうことだろう。奈々美はその目で何を視てきたというのだろう。疑問は自然と言葉に変わって溢れ出る。
「奈々美は何を視てたの」
それに対して奈々美は口元に人差し指をあてながら微笑んで答えるのだった。
「今日という日の全部、それだけ」