「……」
巨人は彼を飛ばしそのまま、鶏を追いかけ走り去った。逃げるなら今。
しかし、……動かない。手も、脚も、首も……何も。
今にも手放してしまいそうな意識を、ただ、燃えるような痛みが繋ぎ止める。
静寂に支配されていく脳内を、自分の鼓動が、響き渡る人々の悲鳴が、やけに鮮明に反響する。
(……死ぬのか)
己の死を悟った彼は、最後の整理だとでも言うように、過去の記憶を巡っていく。
彼は無類の犬好きだった。
東京郊外に大きな一軒家を持ち、その九割を何十匹ものペットの為に改造した稀代の犬バカ。
死に瀕して尚心配なのは、家で待つ彼等の無事である。
辛く厳しい訓練も、彼等の無条件の愛があったから頑張れた。
人を助けるという信念が折れてしまいそうな時も、彼等の寄り添いがあったから頑張れた。
「グルァッ」
「――っ」
――死肉を漁る獣型の群れが、彼の腕を噛み引き摺る。
亜門は思う。
彼等は今も、自分の帰りを待ち続けているだろう。
モンスターに怯え、自分の助けを求めているだろう。
……ならば今度は、自分の番じゃないか。
――皮膚が裂かれ、肉を貫かれ、彼の身体は血に染まっていく。
守らなければ……人を。
守らなければ……信念を。
守らなければ………………家族を。
「……貴様らじゃ、ない」
獣じみた手が一匹の頭を掴み、握り潰す。
彼を囲んでいたモンスターが一斉に飛び退いた。
立ち上がる亜門の身体は一回り大きくなり、全身が銀灰色の体毛に覆われていく。
顎の形状と耳の位置が変わり、腰下に生える一本の尾がゆらりと揺れた。
「ガロロロロ……」
黄色の瞳孔が有象無象を射抜く。
「グルァッ――ギゃべ⁉」「ギョぶッ」「べっ」「ガッ」「ッ」――
亜門は飛び掛かってくる傍から、切り裂き、噛み千切り、へし折り、撲殺する。
その惨劇を見て当然逃げる者もいるが、数倍に跳ね上がった脚力は彼を風に変える。
一匹たりとも逃がさない。
目についた悉くを血祭りにあげていく。
「ガロァアッ‼」
「ぶギャべっ」
振り下ろされた両の拳が、大地を陥没させモンスターを染みに変える。
逃げることなど許さない、圧倒的暴力。
一瞬でひっくり返った、生態系の立場。
風に靡く荘厳たる体毛が、月光に照らされ赤く煌めいた。
「ぐぅっ、これ以上の負荷は危険です‼」
「全速を維持しろッ‼今落ちたら死ぬぞ‼クソっ、まだ切り離せないのか⁉」
「銃弾も爆弾も効かないんだ‼どうしろってんだよ‼」
舌に絡めとられたヘリの機内では、必死の抵抗が五分以上も続いていた。
少しでも速度を緩めれば、強靭な力で引き落とされてしまう。
そうなれば瞬く間にモンスターに群がられ、本当の終わりだ。
かと言ってずっと均衡を保てるわけもなく、遂にエンジンから煙が上がり出す。
誰もが諦めた、その時、一際大きく機体が揺れた。
「――っ何だ⁉」
「……あ、あれ」
固まる皆の視線の先には、顔面が凹んだ両生類の上に立つ、返り血を全身に浴びた人狼がいた。
「ガロロ……タフだナ」
「ゲ、ゲゴェ」
全力で殴ったにも関わらず、未だヘリを離さない蛙もどきを睨みつける。
「貴様に構ってる暇は無いんだッ」
爪を立て、太い舌の中腹までよじ登り、
「ウㇽルルァアッ‼」
「ゲブシャ⁉」
万力を以て引き千切った。
弾き出されたように上昇するヘリ。
亜門はぶら下がる舌に捕まり、小さくなっていく戦場を見下ろした。
「「「――っ」」」
自力でヘリに乗り込んだ亜門に、一斉に銃が向けられる。
「「「……」」」
「……すまん、限界だ」
彼は一言残すと唐突にぶっ倒れ、寝息をたて始めた。
そして身体の変化が徐々に戻り……
「――っそ、総隊長⁉」
その姿を見た兵士達がすぐに駆け寄る。
「酷い傷だっ、救急道具一式を持ってこい‼」
再度慌ただしくなる機内。
しかし今度こそ、彼等の邪魔をする者はいなかった。
§
長時間にわたる大規模な戦闘。
その轟音と光景に引き付けられるのは、何もモンスターだけではない。
ある者は大量に飛来するヘリに期待を寄せ、
ある者はビルの上で双眼鏡を手に、楽し気に凄惨な現場を見つめる。
ある者は活性化するモンスターに戦いを余儀なくされ、
ある者は去って行く救助に涙を呑んだ。
そんな彼等が共通して心に秘めた思い。
頼れるのは、自分だけだ。
皮肉なことに、
今宵、絶望に直面したからこそ、希望への手掛かりを見つけた者が大勢いた。
そしてここで生き残れるのもまた、その『希望』に貪欲になれる者だけである。