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Fallen Angel’s Lover
Fallen Angel’s Lover
皐月紫音
恋愛現代恋愛
2025年05月17日
公開日
1.3万字
完結済
宇佐美飛鳥は都内の私大に通う大学二年生。 長身にルックス良し、社交的な性格で男女ともに好かれる人気者だ。 だが、そんな彼の恋愛記録は残念ながら連敗を更新中。 失恋記録を重ねたある日、彼は最寄駅にある廃墟と化している大聖堂へと足を踏み入れた。 そこで彼を待っていたのは封印された堕天使であり……。

僕の恋のキューピッドは堕天使のようです



【都内某所遊園地】


 紫紺色へとライトアップされた白亜の城を背に、二十歳を過ぎたかどうかほどの若い男女が、わずかな距離を空けて庭園を歩いていた。


 青や紫のパンジー、白のシクラメンが、幽幻な夢の世界を彩る。


 栗色の髪とパッチリと開いた浅縹色の瞳が愛らしい女性は、厚手のダッフルコートの上から、身体を抱いて「寒いね~」と朗らかに微笑んでいた。


 そんな彼女の表情かおが一瞬、意表を突かれたように固まる。

 頬に、よく温まったココアの缶が押しあてられていたためだ。


「だから、さっきの自販で買っておけば良かったのに」


 女性の視界に映るのは、そよそよと風に靡く赤銅色の髪と、真っ直ぐにこちらへと向けられた優しげなヘーゼルの瞳。


 やや軽薄な印象も受ける柔らかな笑みを浮かべる男性が、してやったりという顔で立っている。


 黒いライダースに巻かれたクロスノットの深紅ワインレッドのマフラーは、彼女――ヒカリが誕生日に贈ったものだ。


「だって、現金しか使えなかったんだもん……」


「今も自販は、現金しか使えないところが多いでしょ。PoyPoyとクレカだけじゃ、いざって時に危ないですから」


「君って、たまにお母さんみたいだよね。歳下のくせに」


 ヒカリは、少しだけムスッとしながらも、お礼を言ってココアを受け取る。

 再び、二人は歩幅を合わせて人も少なくなってきた光の庭園を歩いてゆく。


「それでね、遠矢とおやってば、私の誕生日を勘違いしてたんだよ……」


「やっぱり、僕には可能性が無さそうですね」


「うん、ごめん……」


 苦笑交じりの男性に応える形で女性が発した言葉は、冷気とともに冬空へと消えた。


 女性は視線を逸らすと、左手の指を髪に絡めて弄ぶ。


「飛鳥くんはさ、素敵だよ」


 女性が隅のベンチへと腰を下ろすと、少しの間を置いて飛鳥もそれに続いた。

 ふと、飛鳥の身体から、朝露をふくんだ若葉のような瑞々しい匂いが、わずかに漂う。


「服や髪の変化も一番に気付いてくれるし、私の食べ物の好みも覚えてくれる。歩く時も自然と車道側に立ってくれるよね。君と仲良くなって数ヶ月、どれだけドキドキさせられたか。それでも私はやっぱり、遠矢が好き。年下の男の子をキープしたりして嫌な女だよね」


 今朝、合流したばかりの彼からは、微かな苦味を感じるベルガモットの香りがした。

 けれど、その香りは既にない。

 肌と自然と溶け合うような、「月明かり」という意味を持つ、この香水の匂いが、ヒカリは好きだった。

 彼に相応しい、淡くて温かい香りだ。


 ――君を好きになれたら、すごく幸せなのにね……。


「ごめんね、ありがとう。私みたいな女に何ヶ月も付き合ってくれて」


「昔から、こういうポジションになることは割と慣れっこですから」


 弱ったように飛鳥は頬を掻いた。


「こんなことに慣れちゃダメだから」


「肝に銘じます」


「よろしい。月並みな言葉だけど、君のこれからの幸せを願っています。君に好感を持つ一人の先輩としてね」


「はい、僕もヒカリ先輩のこれからの幸せを願っています。あなたに恋をした一人の男として」


「なっ……」


 油の切れた機械のように、カタカタと震える彼女を残して、飛鳥は悪戯っぽい笑みを受かるべると立ち上がった。


「それと、さっき遠矢さんの話をしてる時の先輩の顔ですけど、この三ヶ月で見た中で一番綺麗でしたよ。あの顔で告白すれば、遠矢さんもイチコロだと思います」



 飛鳥はベンチからクラッチバッグを取ると、片目を軽く閉じて、その場を立ち去ってゆく。


「あぁ、もう本当に君は……」




◆◇◆◇


 赤煉瓦造りのレトロな趣きを漂わせる最寄駅へと着くと、飛鳥の体は自然と動き出した。


 肌寒さに体を抱きしめながら出口をくぐれば、硝子ガラスの空が割れたかのように光り輝く粒子が空を舞っていた。


 飛鳥の吐き出した息も白い煙となり、夜空を気ままにに踊り、消えてゆく。


 実らぬ恋とは、わかっていたつもりだった。


 今日は笑顔で彼女を想い人のところに送り出すつもりだった。


 それでも自分の中に、わずかな期待の気持ちが残っていたのだろう。


 飛鳥は、家への少しだけ長い道のりを歩き出す。


 ニッチな本を取り扱った書店、五十年以上続く洋食屋、和洋折衷なチグハグ感のある喫茶店。


 飛鳥は、この時代の進歩から取り残されたような街が好きだ。


 ふと、左側へと視線を向ければ坂を登った先に古びた大聖堂が見える。


 尖塔が立派なゴシック様式の聖堂であり、長い年月による風化が進んでいた。


 おそらくは何十年と使われていない廃墟と化した聖堂だ。


 いつもならば素通りする場所だが、この日は妙に聖堂の存在が気になった。


 飛鳥の足は自然と方向を変えて坂道を登り出していた。



◆◇◆◇


 威容を誇る大聖堂を支えるためには頑丈な石造りの基壇が使われており、それはさながら城塞のようだ。


 凍えるような強風が吹いたかと思うと、ギイィィ……という重厚な音と共に扉が開く。


 時計は既に零時を過ぎていたが、異様な高揚感が飛鳥を突き動かし、教会へと足を踏み入れさせる。


 扉の先には、最奥まで暗く、静謐な空間が広がっていた。


 足を一歩踏み入れれば、その音を深紅の絨毯が吸収する。


 絨毯は祭壇へと続き、左右には年季を感じるマホガニーの長椅子とステンドグラスの窓が並ぶ。


 歩を進めてゆくと、祭壇の背に四体の聖人の像が並ぶのが見えた。


 その中央には神聖な雰囲気に不釣り合いな石像が、聖人達に取り囲まれるようにる。


 床から伸びた禍々しい鎖に、体を縛られた漆黒の天使像だ。


 むごたらしい姿でありながら、その表情からは気高ささえも感じさせる。


 哀れみを覚えることさえも彼女の前では、おこがましく思えた。


 飛鳥は鞄から、紺色の小ぶりな箱を取り出した。


 その中には雪の結晶をモチーフにした首飾りペンダントが入っている。


 ヒカリへと今日、渡そうと思っていたものだ。


「他の女性へのプレゼントなんて、ちょっと失礼かな……。でも天使さん、きっとこれはあなたに似合う」


 飛鳥は優しい手つきで、その首飾りペンダントを天使の首にかけた。


 彼は十字を一度切り、その場を後にしようと祭壇に背を向ける。


「他の女への贈り物というのは気にくわないけど、貢物としてもらっておくわ」


 鎖が弾け飛ぶ音とともに尊大な声が響く。


 一瞬の後に硬直を解いた飛鳥が振り返れば、そこには腰下まで伸ばされた艶やかな濡羽色の髪と金色の双眸、そして漆黒の翼を持つ女性が立っていた。


「私の名は堕天使サハリエル――貴方の主よ」



◆◇◆◇


 床に正座させられた飛鳥は、ベッドで尊大に足を組む、黒いローブを纏う堕天使を見上げていた。


「つまり、サハリエルさんは神様に反逆して封印され、善行を積まないと天国に帰してもらえないと」


「えぇ、何度も言わせないで」


 嘆息する彼女の表情は、心底めんどくさそうだ。


「いえ……神や天使とか流石に馴染みが無くて」


「面倒ね。あなた、宇佐美の人間でしょ? 慎二は生きてるかしら?」


 彼女の言葉を受けた飛鳥の表情が驚きに固まる。


 宇佐美慎二――それは彼の祖父だからだ。


「えぇ……今年で78歳ですが、ピンピンしてますよ」


「そう、なら彼に電話なさい。あなたの前は彼だったから」


 躊躇いもあるが、今は一つでも情報が必要だ。


 同時にわずかな好奇心も働き、飛鳥はスマホを取り出して緑色のチャットアプリを開く。

 電話をかけると、遅くであるにも関わらず、数コールののちに祖父は出た。


「飛鳥か。久しぶりだな、元気しとるか?」


「じいちゃん久しぶり、うん元気元気。ところで実は……」


「えっ? マジ? 堕天使のサッちゃん、そっち居んの?」



◆◇◆◇


 どうやら彼女の話は本当のようだ。


 大聖堂は遥か昔に、サハリエルを封じるために建てられた。

 そして、その管理を担っているのが宇佐美家らしい。


 彼女が帰還するには多くの人間の願いを叶える必要があり、一人の人間の願いを叶えると再び彼女は封じられるらしい。


 彼女が右手の指を弾けば、手の上に大ぶりなクリスタルが出現した。


 先端部分は透明で、その下は紫色の怪しげな光が満ちている。


「このクリスタルに光が満ちた時、それが私がそらに還る時よ。それにはあと一人の人間を救えば良い――」


「それが僕というわけですか」


「そのとおりよ」


 彼女はベッドの上に立ち上がると、腕を組み高圧的に飛鳥を見下ろした。


「さぁ、人間よ。この高潔にして偉大なる堕天使サハリエル様に願いを言ってみるが良いわ!!」


 堕天してる時点で高潔ではないのでは、というツッコミを飛鳥は必死に飲み込んだ。


「それでは……自分にピッタリな彼女が欲しいです」



◆◇◆◇


 八王子にある飛鳥が通う私立大学は、東京ドーム約八個分の広さを持つ自然豊かなキャンパスだ。


 著名なドイツ人の建築家がデザインした最新設備を備えた講義練やスポーツ施設、偏差値は中の上、まだ歴史が浅いながらも志望者はとても多い。


 そんなキャンパスは、今ある噂で持ちきりだった。


 整った顔立ちと社交的な性格、大学一のイケメン、我が校の誇り、むしろ東京の誇りとも名高い飛鳥が謎の美女を連れて来たと。


 それも艶やかな濡羽色の髪と、映画か音楽のPVでしか見ることのないようなファーコートを風に靡かせ、寒空の下でもブランド物のサングラスをかけたセレブ美女。


 首元には、飛鳥の贈った、雪の結晶がモチーフの首飾りペンダントが、かけられていた。


「ふっ、有象無象の人間どもが、私の美貌から目が離せないようね」


 この服は飛鳥がコンビニで見繕ってきた雑誌から、サハリエルが気に入って天使の力で生み出したものだ。


 それ自体には最早、突っ込まない。

 首飾りペンダントを使ってくれていることも、意外と律儀なのだなと嬉しく思う。


 だが、よりによって何故こんなに目立つ服を選んだのか。


 ちなみに参考にしたのは、表紙を開いてすぐにある海外のハイブランドの広告か何かだったと思う。


 飛鳥は今日一日のことを考えると、はげしい頭痛に襲われた。


 かくして、その予感は的中する。



「見なさい! 飛鳥!! あの女子おなごなど魅力的ではないの。顔も愛らしく、胸のサイズも申し分ない。もちろん、この私ほどではないけどね」


「法学部の小森さんですか。可愛いですよね。天然そうなのに将来弁護士になったら、法廷でスーツを着てビシバシと議論するのかなぁ。その姿を想像するだけで、ドキドキしちゃいますね。あ、でもレディが胸のサイズとか大声で言うのは良くない……」


「そうと決まれば早速アプローチね!!」


「あぁ、待ってください! そんな急に~!!!」


 抵抗する間もなく、走り出すサハリエルによって、彼は引きずられて行った。


「見なさい! 飛鳥!! あの女子おなごなど魅力的ではないの。切れ長の瞳に磁器のような肌、脚の長さも素晴らしいわ。言うまでもなく、私ほどではないけどね」


「外国語学部の菊池さんですか。美人ですよね。あぁ見えて、可愛いものが大好きらしいですよ。でも、恋人はきっとクールな自分が好きだからって、猫の動画とかを見てても彼氏さんが来ると、すぐにスマホを隠しちゃうんです。二人で猫カフェとか言ったら、絶対に楽しい……」


「そうと決まれば早速アプローチね!!」


「あぁ、待ってください! 相手は彼氏持ち~!!!」



◆◇◆◇


 空が茜色の夕日に染まってきた頃、街には疲労困憊で肩で息をしながら歩いてゆく二人の姿があった。


 彼女に振り回され、飛鳥は大学と街で一日中、ナンパをさせられた。


 ちなみに女子たちには、飛鳥以上にサハリエルが人気があった。


 美人で高飛車、時々古風な言葉を使う彼女のキャラは、意外にも女性受けが良いようだ。


 最も当の彼女は、すっかりと疲弊しているが。


「今時の女子おなごは、いつもあんなに元気なの……?」


「あはは……女の子は、可愛いものが好きですから」


「それは私のことを言ってるのかしら……。まぁいいわ、連絡先を交換した中に気になった女子おなごは居た? こういうのは、待たせない方が良いわ。早めに好意を示して……」


 その時、儚げな旋律が二人の耳朶を打った――。


 二人が視線を向けた先では、路上ライブが行われていた。


 飛鳥と同年代の男女混成のロックバンドで、集まってる人の数を見ると結構な人気のようだ。


 中央に立つのは、白金色プラチナブロンドの長髪と、淡青色アイスブルーの瞳を持つ愛らしい顔立ちの女性だ。



〝降りしきる雪に涙を隠して


 押し殺したこの想いは冷たい大地へ


 あの教会の鐘楼に登ろう


 日付が変わると同時に私は鐘を鳴らす


 あなたへの想いは今日へと置いてゆく


 それでも朝がれば、雪が溶ければ


 甦る、この鼓動おもい


 今、私の胸に溢れるのは、君がくれた暖かさたからもの


 溶けない雪がないように、この愛も消えないから 〟



 歌が終わり、女性を中心にメンバーが頭を下げれば、耳が張り裂けんばかりの拍手が響く。


 気がつけば、聴衆もかなり増えている。


 そして女性の声に聴き惚れていたのは飛鳥も同じだった。


 隣でサハリエルが意味深な笑みを浮かべた気がしたが、今は気にしない。


 この音楽の余韻に浸っていたかったから。


 ライブ後はメンバーとファンの交流時間が設けられた。


 この距離感の近さが、路上ライブの良さだろう。


 その場に立ち尽くしていると、ボーカルの女性が飛鳥達の姿を目に止める。


「二人は初めてだね、来てくれて……って宇佐美飛鳥!?」



◆◇◆◇


 飛鳥達、三人は近くのカフェへと場所を移した。


 ボーカルの彼女は、飛鳥と同じ大学の生徒で東雲真音しののめまおんというらしい。


 校内の話題は飛鳥の奇行で持ちきりらしく、咄嗟に彼が思いついた言い訳は、世話焼きの従姉妹が押しかけて来たというものだった。


「サッちゃんはいつも突然、恋人はできたかって様子見に来るんだよ」


「誰がサッちゃんよ……。あと、いつの間にか、あなた、敬語が抜けたわね」


「従兄弟同士で使うのもおかしいでしょ?」


「生意気、言うようになったじゃない」


 目を細めて、露骨に嫌そうな顔を向けるサハリエルに、それを飄々とした様子で受け流す飛鳥。

 真音は、二人の様子を微笑ましいものを見る目で見つめる。


「二人は仲良いんだね~」


「どこが」


「従兄弟だからね~」


「うん、息ぴったりだ」


「もういいわ、それより! あなた、飛鳥とデートしない!? 今ならケーキも買ってあげるわ」


「僕はセール品か何かかな……」


 悪巧みを持ちかけるような微笑みを浮かべて、真音へとメニューを差し出すサハリエルには、流石の飛鳥も複雑な表情となる。


「それとも好きな人でも居るの?」


「それは……」


「お客~。長居するなら注文してくれ」


 歯切れが悪くなった真音のグラスに水が注がれる。

 飛鳥達が視線を上げると、茶色いエプロンを付けた男性が立っていた。


 束感を出し、無造作に整えられたすっきりとした黒髪に日焼けした肌がよく映え、いかにもスポーツマンといった雰囲気を感じさせる。


 灰色の鋭い瞳と引結ばれた唇は、少しだけ不機嫌そうだった。


 真音はグラスから水をグイッとやると、勢いよくそれをテーブルに叩きつける。


「もう一杯!!」


「居酒屋じゃねぇよ」


 男は手に持っていたメニューで軽く真音の頭を叩く。


「いてっ! これがDVドメスティック・バイオレンス……」


「変な言いがかりつけんな!」


 そこで、飛鳥達が固まっているのに気がついた彼が視線を移す。


「俺は千葉隼人。真音とは……まぁ腐れ縁みたいなもんだ」


「ひどい! 昔は、「俺、真音ちゃんと結婚するんだ!」って、あんな情熱的に告白してくれたのに!!」


「お前!? あんな小学3年生の頃の話を今更……!!」


「覚えてるんだ……」


「しかも、具体的な時期まで……。これは相当ね」


「お前らも、そんな目で見るんじゃねぇ!!」


 指摘され、顔を真っ赤に染めあげる隼人に飛鳥は苦笑すると、ミルクをふんだんに使った濃厚な紅茶で口を潤す。


「あはは、僕は宇佐美飛鳥。真音さんとは同じ大学なんだ」


「私はサハ……」


「彼女は佐原理恵! 従姉妹だ!!」


 あっさりと正体を明かそうとする彼女の言葉を、飛鳥が急いで遮る。

 気持ちよく名を告げようとしたのを、邪魔された彼女は不服そうな面持ちだ。


 こんなところで堕天使だの、サハリエルだの言われたら、どう考えても変人扱いは免れない。


 ――はぁ、今日だけで僕の寿命は一年は、縮んだ気がするよ。


「おう……まぁいいや、夜は冷えるから早めに帰れよ」


 隼人は飛鳥達のグラスにも水を注ぐと、その場を後にして厨房へと歩いてゆく。


「ま、待って! 隼人!!」


「何?」


「日曜日、ライブに来ない? 夕方からはオフだし、その後は二人で水族館でも」


「今週は予定がある……」


「そっか……」


 隼人が厨房に戻ると、真音は緩くなったコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜ出す。


 瞼の下がった瞳には憂いの色を帯び、わずかに吐き出された息は儚く、空間へと溶けてゆく。

 飛鳥とサハリエルは、顔を見合わせたのち、再び、彼女へと視線を向けた。


「水族館、僕と一緒に行かない?」


「えっ?」



◆◇◆◇


 隼人のシフトが終わると同時に雪は降り出した。


 自主的に少し残業して、丁寧に掃除をしていった隼人は、店長自慢のパンの残りを受け取ると店を後にした。


 素材や見栄えにやたらとこだわったオリジナルパンは、値段も高めで学生の多いこの街では、売れ行きは正直良くない。


 それでもやめないのは、店長なりの意地なのだろう。

 実際、こだわりは本物のようで、時間が経ってからも味は絶品。

 いつも持ち帰られせてもらう隼人としては嬉しい限りだ。


 そのためなら多少の残業くらいは苦ではない。


「寒っ……」


「お疲れ様」


 声に隼人が視線を移せば、電柱に一人の男が背を預けて立っていた。

 紺色のトレンチコートを風に揺らし、一目で上質とわかる革靴を雪にさらし、彼は口元に柔らかな微笑を浮かべた。


「宇佐美だっけ……?」


「飛鳥で良いよ」


 飛鳥の右手から何かが、かろやかに放り投げられた。


 思いの外、高く飛んだそれを隼人は、後ろへと下がりながらキャッチした。


「熱っ!!」


 一度、空中でバウンドさせてから再びキャッチすると、手の中には、練乳をたっぷりと使った缶コーヒーが収まっていた。


「あそこのコンビニいつも熱々なんだよね」


「マジで熱いな……。あんた、さっきもロイヤルミルクティ飲んでたし、結構甘党?」


「ふふ、甘いものは人を幸せにするんだよ」


 電柱から背中を離した飛鳥は、悪戯っぽく笑って片目をつぶり、手をポケットに突っ込んだまま、ゆっくりと歩き出す。


「ふーん、まぁ俺も嫌いじゃねぇし、ありがたくもらっておくわ。ってか何の用?」


「少し歩かない?」



◆◇◆◇


 しんしんと、空から舞い落ちる雪に身体をさらしながら、二人は肩を並べて、駅までの道をともに歩いてゆく。


「真音さんのこと好きなの?」


 飛鳥が何食わぬ顔で投げかけてきたド直球な質問に、隼人はコーヒーを吹き出した。


「い、いきなり何聞いてんだ!?」


「正解か」


「腐れ縁ってだけだ……」


「じゃあ何で彼女のこと避けてるの?」


 その問いに隼人は、しばらく続く言葉を発せなかった。


 飛鳥は隼人に買ったものと同じ練乳コーヒーを飲み終え、板チョコの包みを開き出す。

 その表情から、心のうちを読み取ることはできない。


「今のあいつの隣に俺は相応しくねぇ……。これ見てみろ」


 彼はスマホを出すと、真音のバンド名を検索して飛鳥へと差し出した。

 そこには、いくつもの数万再生を超える動画が表示されている。


「才能も本気さも俺は、あいつに到底及ばない。俺さ、小中学校までは本気でサッカーやってたんだよ……。中学に入ってからは、真音が歌を始めて、お互いに試合とライブ見に行ってさ。夢は叶うもんって信じてた。

 一応、中学まではエースだったんだぜ? でも高校に入ったら、俺より強いのなんていくらでも居た。結果を出し続ける真音に会うのも怖くなったんだ」


 雪は更に強くなってゆき、二人は傘を差した。


「だからさ、今度は本気で勉強やってみようと思ったけど、今までまともにやってきたヤツらには勝てなかった。入った大学も中の下。俺が胸を張って誇れるものなんて何もない。そんな俺が、あいつみたいな女の隣に居ちゃいけないんだよ」


「ここだと思った道が違ったなんてのは、いくらでもあるよ。でも、自分の気持ちも偽って、相手を悲しませながら、いつまでも半端な関係を続けてるのはどうかな」


「ハッキリ言いやがって……」


「遠慮するつもりはないからね。日曜、真音さんと水族館に行くんだ。正直に言うよ、僕は彼女の歌と輝きに惹かれてる」


 隼人の表情に影が落ち、身体は糸の切れた人形のように動かなくなる。


 石畳に傘が、痛ましく落下した。


 その間も、雪は容赦なく勢いを増してゆき、隼人の身体から体温を奪ってゆく。

 彼は無言で傘を拾うと、向き合う飛鳥とすれ違う形で、その場を後にした。


 背中越しにそれを見送る飛鳥の吐いた息は、冬空へと昇り、消えて行った。



◆◇◆◇


 公園から昼の喧騒が消え去ったころ、噴水に一人の男性が腰掛けていた。


 グレンチェックが気品を感じさせる、ダブルブレストのチェスターコートを羽織り、首元では黒いマフラーが風を受けて揺らめく。


 人気の少なくなった園内には、購入したばかりであろう、真新しいカバーを付けた文庫本のページをめくる音だけが聞こえる。


「飛鳥くん、お待たせ~!」


 一時間、歌い続けていたとは、とても思えない快活な声が響く。

 噴水に腰掛けていた飛鳥は、手元の文庫本から目を離し身体を声の方へと向けた。


「お疲れ様、真音ちゃん」


 昼のライブを終えた真音が走ってくるのを視界に入れた飛鳥が、陽だまりのような微笑みを浮かべる。


 真音はライブの時に着ていたロックな服装から、どうやら着替えたようだ。


 ベージュのトレンチコートに、淡いブルーのニットが、鮮やかな彩りを添える。

 濃紺のスキニーデニムの足元には、雪を考慮して、ダークブラウンのブーツが合わせられていた。


 大人びた印象を与える服装ファッション――これを本当に見せたかったのだろう相手のことを考えて、飛鳥は静かに苦笑した。


「それじゃあ行こうか。素敵な歌のお礼に、今日は君にたっぷりと楽しんでもらないとね?」


 本をクラッチバッグにしまうと、飛鳥は軽く伸びをして立ち上がり、片目をつむってみせた。


「ふふふ、ハードル上げるねぇ~。それじゃあ楽しみにしてるよ」


 肩を並べて歩き出す飛鳥達を見送る、二つの影があった。


「良い雰囲気ね。気になる?」


「別に……」


「ここまで女を追っかけに来てて、それは無理があると思うけど……」


「お、俺は別に! 急に魚、見たくなっただけだ! あぁ、そういえば、あいつらも今日行くとか行ってたかなぁ」


「あなたね……」


 顔を真っ赤に染め、見苦しい言い訳を並べる隼人に、偶然にも尾行仲間となったサハリエルは、腕を組んで嘆息した。



【都内某所水族館】


「見て! 飛鳥くん、カクレクマノミだよ。可愛いなぁ~」


 真音は水槽と同化しそうな淡青色アイスブルーの瞳をキラキラと輝かせ、オレンジ・白・黒の三色で構成された魚を愛おしげに見つめていた。


 隣で頷く飛鳥の慈しむような色を帯びた瞳は、真音の横顔へと一直線に注がれていた。


「どうしたの?」


「楽しそうで良かったなって」


「心配かけちゃったね……」


「気にしないで、それに僕は君と隼人くんの隙間につけ込むようなことをしてるんだから」


「飛鳥くんは何というか、直球ストレートだね……」


 何食わぬ顔で、そう言ってみせる飛鳥に、真音は戸惑うように視線を落とし、頬をわずかに赤らめて答えた。


「必要なら、嘘だってつくよ」


「あはは……君は結構悪い人なのかな?」


「そうかもね。それじゃ今日一日で僕のことを見極めてみて」


「あっ!」


 飛鳥は悪戯っぽい微笑みを浮かべて、真音の手を取ると、ゆっくりと歩き出した。



◆◇◆◇


 飛鳥と真音、それを尾行してきた隼人とサハリエル、四人が外に出た時には既に空は暗くなっていた。


 連日積もった雪を二人のブーツが、ぎゅっ、ぎゅっと、低いアルトの音を立てながら、踏み締めてゆく。


 気温が下がってゆき、真音は自身のか細い身体を、頼りなさげな、たおやかな両腕で掻き抱いた。


 彼女の首に飛鳥は、そっと自分のマフラーを巻いてゆく。


 真音は、どこか申しわけなさそうに、切なげな笑みを浮かべた。


 飛鳥からそっと視線を逸らし、空を見上げた彼女の眼差しが、ふと、ある一点で止まる。


 その先には、年季の入った老舗のデパートが、時代から取り残されたように立っていた。


 確か、全国に十店舗ほどしか、もうない屋上遊園地が併設されたデパートの一つだ。


「あそこ……隼人とよく行ったデパートの屋上でね、星がすごく綺麗に見えるの」


「真音さんの話には、彼がよく出てくるね」


「ごめん……」


 飛鳥に指摘され、真音は気まずそうに視線を外した。


 切なげに掠れた声音――そこに飛鳥が好ましく感じる明朗さは存在しない。


「あはは! いいよ、今日は彼の代わりで来たんだからね?」


「ちょっと~、その言い方も性格悪いと思うよ~?」


 ムッとした顔を作ってみせる真音に、彼は口元に女性のように白く、たおやか手を添え、ふくよかな声で笑った。


 わざとらしく頬を膨らませ、子供っぽくさえも見える顔で抗議したのち、真音は静かに嘆息する。


「隼人はさ、本当真っ直ぐなの。何をやるにも全力、サッカーでもコーチに指導されたら、その練習ばかり。

 だから挫折も人一倍辛くて、サッカーをやめた自分には価値がないって思い詰めてるの。

 でも、今も昔も隼人は頑張り屋さんだよ。親に心配かけないようにって、勉強もバイトも必死にやってる。夢を追う姿だけが、かっこいいわけじゃないのにね」


 前方に十七階建ての巨大デパートが見えた。


「不器用でまっすぐ、口は悪いけど誰より私に優しい。私が好きになった、たった一人の男の子」


 真音は自分のバッグからスマホを取り出すと、それを飛鳥へと差し出す。

 そこには、隼人からのごく短いメッセージが無数に残っていた。



〝「新曲見た。良かった」


「もう夜は寒い時期なんだから早めに帰れよ」


「この前の5万再生だってな。良かったな」


「遠征行くんだってな。気をつけろよ」〟



 瞼をわずかに下げ、口角をゆるやかに上げ、画面を宝物のように眺める彼女の姿を見れば、その心は痛いほどに理解できてしまう。


 それは飛鳥が、何度も見てきた恋をする女性の顔だから。


「これは……女々しいね」


「あははっ!! 本当、これじゃ距離置きたいのか置きたくないのかわからないよ……」



◆◇◆◇


 二人の姿が店内に消えたのを見届けると、隼人はデパートから顔を背ける。


「どうするの?」


「どうするも何も、今俺が出て行くとかダメだろ」


 隼人は、大きく嘆息してみせると、がしがしと頭を掻きながら歩き出す。

 サハリエルは腕を組み、隼人の前へと移動すると鋭い視線を投げかけた。


「くだらない自尊心を優先するなら勝手になさい。それで、あなたが後悔しないならばね。でも機会チャンスは決して待ってくれないわ。それが訪れた時に自分の手札で勝負するしかないのよ」


 言い逃れることは決して赦さない、彼女の言葉。

 まぶたを下げ、表情に影を落とした、隼人の強く握り締められた拳が震える。


「ったく……〝あんたら〟よくお似合いだよっ!!」


 勢いのままに、踵を返して走り去る彼の背を見送り、サハリエルは小さく嘆息した。


「愚かな男……」


 彼女が、ぼそりと呟いたその言の葉ことばは、誰の耳に入ることもなく、風に攫われる。



◆◇◆◇


 エレベーターを待つ心の余裕は無く、隼人はエスカレーターを周りの目も気にせず駆け上がる。


 捨て去ることも、胸の奥に閉じ込めておくこともできなかった真音との数々の思い出が、蓋の壊れた宝箱のような心の中から、洪水のように溢れ出す。


 大好きな歌声、沢山の元気をくれた笑顔、自分のせいでさせてしまった悲しい顔――。


 最後の一段を気合いで登り切った時には、隼人の体力は限界に達していた。


 その場に、今にも座り込みそうになるのを必死に堪える。

 呼吸が辛い。

 痛みに悲鳴をあげる横っ腹を、右手で押さえつけて、歩みだけは決して止めない。


 窓の曇った屋上広場へと続く扉が目前に現れ、その脇に飛鳥が立っていた。


 コートのポケットに手を突っ込み、窓へと寄りかかる気障な姿も、彼がやると妙に自然体で様になっている。


「覚悟は決まった?」


「あぁ、でもあんたは……良いのかよ?」


「ぷっ――あははっ!!」


「な、何がおかしい!?」


「ふふ、それをここで聞くのは、無粋じゃないかな」


 涼しげな微笑みを口元にたたえながら、エレベーターへと歩き出した彼は、隼人の隣で足を止めた。


「彼女のような人は、どんどんと前に進んで行くよ。僕らは、かっこ悪くても、必死に置いていかれないように足掻くしかないんだ」


 そう言い残すと、彼は左手だけをひらひらと振りながら、エレベーターへと乗り込んだ。


「かっこつけ過ぎだ。あんた達は……」


 扉を開け放てば――そこには満天の星空、連日の雪が積もった銀世界、その全てに祝福されたように立つ真音が居た。


「真音っ――!!!!」


 隼人の叫びは、確かにとどいた。


 待ち望んでいた月光を受けて、やっと咲く満開の夜顔よるがおのような笑顔を浮かべて、彼女は隼人の顔を見つめる。


 その表情かおは、どこか勝ち誇っているように思えて、隼人は少しだけ悔しかった。


「バカ、あいつ……」


 ――でも、本当にバカだったのは……。


 星々のライトを一身に浴びて、真音の唇は、澄みわたるような清麗な旋律を紡いでゆく。



 〝夜の鐘を鳴らして、君への想い紡ごう


  私には何も無いけれど、君のために送ります


  この声で歌と想いを


  永遠とわに広がるこの星々を〟



◆◇◆◇


 飛鳥はサハリエルの力を借り、彼女と肩を並べて、眼下の二人を見下ろしていた。


 紫紺色の粒子を身体に纏わせた飛鳥達の足元には、まるで透明な板が差し込まれたかのように、彼らの足は、ぴたりとそこに立っていた。


「あなたも損な役回りね」


「彼女の笑顔と歌をこんな特等席で見れるんだ。それだけで充分だよ」


「さぶっ……」


「あはは……でもね、サハリエル。僕は今回のことで気がついたんだ。僕が好きなのは、誰かに恋をしていて、眩しく輝いている人なんだって」


 空を見上げた飛鳥の顔は、淡い月明かりを受け、そのまま夜闇に吸い込まれて、消えてしまいそうなほどに儚げに輝く。


 サハリエルは鋭い双眸をさらに細め、冷然たる表情で、彼の横顔を見つめる。

 その首元には、飛鳥の渡した首飾りペンダントが輝く。


「あんた、寝取り願望でもあるの?」


「そんなものはないよ。でも、今この人が誰かのことを好きになったら、どうなるんだろって気になる人は居るかな。そして、その相手が自分であれば良いなとは思ってるよ」


「ふーん。まぁ、あなたの願いが叶わないと私も戻れないしね。その時は手伝ってあげるわ」


 彼女は視線を再び、真音達へと向けると、指をパチンと鳴らした。


「これはサービスよ」


 紫紺色の粒子が真音を包み込んでゆき、その背にサハリエルのものと同じ黒翼が出現した。


「普通は白い翼じゃない?」


「仕方ないでしょ、堕天使なんだから……」


 翼から、さらに細かな夜色の輝きが放たれ、それは風にさらわれ、隼人の身体を貫くように駆け抜ける。


 それは、あまりにも幻惑的な光景で、紡がれる天上の旋律との調和マリアージュが生んだ奇跡のような一瞬じかん――。


 隼人は吸い込まれるように、真音から、目を一瞬たりとも離すことができなかった。



 〝さぁ、ともに奏いうたましょう


  私達の想いを


  あの日、出せなかった勇気を


  あの日、伝えられなかった言葉を


  今日、この歌に乗せて


  気がつけば、いつだって君を想っていた


  遠くに居ても同じ星を見つめている君を


  失いたくない、この想い


  幻想ゆめで終わらせたくないから


  ことばにする


  君を愛しています〟




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