春を感じさせない
駅の裏手側にある古びたベンチに背を預け、一人の少年が空を見上げて座っていた。
高校指定の
ぽたり、ぽたりと、冷たい雨が左手に握られたビニール傘へと落ちてゆく音に少年は、じっくりと耳を傾けた。
その合間からは、京紫色の瞳が覗く。
それは神秘的で、同時に伶俐な雰囲気を漂わせる。
彼の視線――その先には連日の雨に打たれ続け、少しずつ散りつつある、淋しげな一本の桜の木があった。
予報によれば、今週末には、強い雨と風が街を襲うはずだ。
おそらくはその時、ほとんど散ってしまうだろう。
小さく、か細い嘆息が、少年の口から漏れ出た。
駅の裏手にある桜の木は、少年が暮らす街の小さな観光名所となっている。
近年は桜の時期になると、雨が多くなるために、花見へとゆけなかった人達からも好評だ。
今も、電車を待つ人々が、無言のままに、雨に
この
少年は雨の日の桜が好きだった。
雨音が人々の
瞬きを繰り返す間に、
自分が居るその場所が、まるで世界から、
だが、もうじき、駅の周辺は帰宅ラッシュで騒がしくなる頃だ。
そろそろ、帰った方が良いだろう。
黒いショルダーバッグを肩にかけると、青年は音さえも立てることなく、ベンチから静かに立ちあがった。
――「もう帰っちゃうの?」
「えっ?」
まだ冷たい春の風が、暖かな生命の息吹を乗せた声を運んできた――。
振り返ると、黒いマキシ丈のワンピースが視界に映り込んだ。
胸元まで伸びたウェーブのかかった
薄桃色の艶っぽく小さな唇が、悪戯っぽく
少年よりも、わずかに大人びた顔に浮かぶのは、どこまでも澄み切った木漏れ日のような微笑みだった。
「あ、〝春〟――」
そこまで口に出して、急いで少年は口をつぐむ。
気がつけば、彼女の微笑みに、すっかりと警戒を解かされていた。
彼女の笑みも、
自身の口から、思わずこぼれた言葉に、言いようのない
——何を言ってるんだ、僕は……。
少女漫画じゃないんだし……。
女性は、それを
「ねぇ、君も好きなんでしょ? 雨の日の桜。もう少し一緒に見ようよ」
少年は、人付き合いを好まない。
こんな風に誰かに誘われても、普段ならば絶対に断るだろう。
避けられない場面でも、相手に気を遣ったりはせず、場の空気を悪くしてしまっても気に留めなかった。
だが、なぜだか、彼女の言葉には逆らうことができなかった。
これが、〝雰囲気に呑まれる〟ということなのかもしれない。
「ってかさ、あんた傘は?」
「えへへ、忘れちゃった。君のに入れてくれるかな?」
「今日、朝から降ってたのに何やってんの。まぁ、別にいいけど……」
少年は左手で女性へと傘を差し出した。
こんなことも今までの自分ならば、まずしないことだ。
それも今さっき会ったばかりの相手に。
どうにも、彼女を相手にすると調子が狂う。
「あと、あんたその格好寒くないの?」
「あぁ、あまり気にしてなかったかな」
「はぁ、これからもっと温度下がるんだからこれ着て」
少年は自分が着ていたコートを脱ぐと、溜息交じりに女性へと差し出す。
「えぇ~! いいよ! 君が風邪引いちゃうし」
「そういうのいいから。隣で女性に、そんな格好されてる方が困る」
「それじゃあ遠慮なく……」
まるで、それが、かけがえのない宝物ででもあるかのように。
彼女は、それを受け取ると、とても幸せそうな笑みを浮かべた。
春の日差しを受けて、蕾だった花々が、一斉に花開いたように――その場が、ふわりと温もりに包まれたような気がした。
それからしばらくは、どちらが言葉を発するでもない、だが、決して居心地の悪いものではない、ただ、静謐な沈黙の時が流れた。
「こういう時って何を話すのが正解なんだろ?」
女性は指を口元に当てて、「うーん」と小さく唸りながら、くりくりとした瞳で空を仰いでいる。
「人を誘っておいて何も考えてないわけ……? まぁ、普通は自己紹介とかするんじゃない?」
「そっか! 頭良いね! じゃあ君の名前は?」
天啓を得たりとでもいうように、手を叩き、目を輝かせる彼女に、少年は肩を落とし嘆息した。
「僕は
「漓音! 素敵な名前だね! 私かぁ、うーんと……あ、雨野桜子?」
「何で疑問系だし。ってか、それ絶対に偽名だよね?」
「むぅ、失礼な。素直じゃない子は、お姉さん嫌いだぞ」
「素直じゃないのは今更だから。まぁ別に、いいけどさ。よろしく、雨野さん」
漓音がそう呼ぶと、なぜか彼女はわずかに眉をひそめ、不満げな眼差しを漓音の顔へと向ける。
「何……?」
「さ・く・ら・こ」
「はっ?」
「だから! 桜子って呼んで!!」
「桜子……さん」
「〝さん〟は余計だけど良し!」
桜子は両手の指を重ね合わせて、花が咲くような満開の笑みを浮かべた。
春風に乗せて、ふくよかな桜と瑞々しい
あまりにもな気まぐれ――。
異性はおろか、同性とすらまともな付き合いをしてこなかった漓音には、彼女のような女性の相手は難易度が高過ぎる。
――でも、そんなに嫌ではないかな。
「りっくんはさ、雨の日の桜のどこに惹かれる?」
「りっくんって……。そうだな――」
桜子と隣り合って座る漓音は、風と雨に
「
「気高い……?」
「うん、人生と同じだよ。こちらが特に何かをするわけでなくても、この雨や風のように生きていれば、多くの外圧や困難がふりかかってくる」
漓音は、ひとつ、ひとつ、ゆっくりと言葉を選びながら、ありのままの気持ちを
瞳に憧憬を滲ませ、達観するように切なげな横顔を、桜子は静謐な面持ちで見つめていた。
「それでも桜は誰にも頼ることも、助けてもらうこともなく、最後まで誇り高く咲いて、そして美しく散っていく。そんな姿が僕には、あまりにも
本当に不思議だった。
普段、家族や同級生とさえも話すことを避けがちな自分が、今日初めて出会った彼女の前では、こんなにも自分の中にある想いを言葉にして、伝えることができる。
もっとも、自分のような捻くれて利口ぶった人間が、雑に思考をこねくり回して吐き出した言葉を、彼女のような常に陽の光の側に立つ人が、どう受けとるかまではわからないが――。
「驚いた……。りっくん、詩人とか向いてるよ。私、ちょっと恥ずかしくなって来ちゃった」
「なんで桜子さんが恥ずかしがるんだよ、バカにしてる?」
「ち、違うよ! 本当に凄く素敵な感情の
桜子は頬を真っ赤に染めあげ、うちわのようにした手でパタパタと扇いでいた。
「いや、御礼を言われる意味もわからないから」
「でもさ……りっくんって友達居ないでしょ?」
突如、放たれたあまりにも直球な一言に漓音は顔をしかめるも、事実なので反論はできない。
それに、友人と呼べる存在が居ない理由が、自分にあるということくらいは、とっくに自覚している。
「あ、ごめんね。でも、持ってる世界観、
「間違ってないよ。桜はさ、その場所から動いて逃げることはできないよね?」
「そうだね、どんなに願っても、どこにも行くことはできない」
言葉の
長く優美な印象を与える、まつげが伏せられ、ほんのわずかに、彼女の表情へと影が差した気がした。
その顔は、ひどく淋しげなものに思えて、漓音は思わず、柄にもない言葉を発しようとしてそれを飲み込んだ。
まだ、自分には、そこまで踏み込む資格はないと思ったから。
思考を振り払うと漓音は、中断した言葉を再び、紡ぎ出す。
「でも、だからこそ、桜は必死で生きてるんだ。僕は雨が降れば傘を差すし、風が強ければ家から出ない。人と関わって、無理して合わせて、余計な重荷が増えるくらいなら、最初から自分が、一番楽で苦しまない道を行くよ」
「そっか」
「僕、昔から勉強はそれなりにできたんだ。多分、大学も良いところに行けると思う。その後は、給料が良くて人とできるだけ関わらないで済む仕事をしようと思ってる」
さっきまで普通に見ることができた桜子の顔――それをなぜか、今は見ることができなかった。
彼女が、まだ何かを言葉を発する様子はない。
できることならば、この会話を早く断ち切ってしまいたかった。
「……くだらないヤツだと思う?」
その言葉を振り絞るのには、想像以上の勇気が必要だった。
今の自分は一体、どんな顔をしているのだろうか、声はちゃんと出ていただろうか。
まだ、微かな冷気を含んだ春の風が吹き、二人の視線の先を桜の
「くだらないなんて思わないよ。ありきたりな言葉だけど、人それぞれに生き方があって、それがどこに繋がってるのか、それは誰にもわからない」
漓音は少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。
それが、肯定されたことによる安堵からなのか、慰めだとしても彼女に嫌われなかったことへの浅ましい感情によるものなのかはわからない。
「何より、りっくんはこうして私という一人の相手と、ちゃんと関係を結べる人だもの」
漓音の瞳から、光り輝く雫が一滴、地面へと落ちてゆき、水溜りへと波紋を広げた。
前髪が隠してはくれない右の瞳――降り続ける雨だけが唯一、破裂しそうなほどに膨らんだ漓音の胸の内を誤魔化してくれた。
「でもね……りっくん自身が、その選択を受け入れられてないのに、自分の世界をそこで完結させようとしてるのは、ちょっと納得できないかなぁ~」
「えっ――?」
「なので、お姉さんは、ちょっとだけ、お節介をしようと思います!」
ガバッと効果音が付きそうなほどに勢い良く、傘から飛び出した桜子は、泥水が体へと跳ねるのも気にせず、雨の中へ駆け出した――。
一層と勢いを増してゆく雨が、容赦なく桜子の体を濡らしてゆく。
「ちょ、何してんのさ!?」
「あはは、楽しい~!!!!」
漓音が制止する声も無視して、桜子は雨の中で両手を広げると、くるくると踊り出した。
一瞬にして、そこは彼女のために用意された
喝采をあげるように降り注ぐ、雨を一身に受けて、彼女は光の世界を舞う。
「ねぇ、りっくんもこっちおいでよ! 雨もすっごく冷たくて、とっても気持ち良いよ!!」
揺れる桜を背に彼女は、まるでダンスに誘うかのように左手を差し出した。
そこには、このわずかな時間で何度も、いとも簡単に漓音の
「ったく、桜子、君って本当に……めちゃくちゃだ!!」
傘を投げ出し、立ち上がった漓音は、新しく買ったばかりのスニーカーを泥水に濡らしながら、桜子へと向かい駆け出した――。
その速度は、一歩、また一歩と速くなってゆく。
吹きつける風が、体を押し返そうとしても、構うものかと、彼女のもとへと走った。
雨水が、ばしゃりと目に跳ねる。
リズミカルな雨音が耳を満たしてゆく。
風が運ぶ
もう一歩、あと一歩――伸ばされた漓音の右手が、がっしりと桜子の色素が抜け落ちたかのように白く、たおやかな手を掴んだ。
もう離さないとでもいうように、優しく握り締められた手から伝わった熱に、彼女の双眸が大きく見開かれた。
時が止まった。
胸が、かつて経験したことがないほどに、やかましく高鳴っている。
この感情の名を漓音は知っていた。
なのに、それを言葉にする勇気は無くて――。
京紫と
二人の世界を止めた、一瞬の奇跡、魔法――それが解けたとき、雨脚が少しずつ、弱まっていくのを漓音は感じた。
「嘘だろ? さっきまで、あんなに強かったのに。予報だって夜まで止まないって言ってたはず……」
漓音の戸惑いも無視して、徐々に雨が止んでゆくと、今度は隠れていた太陽が姿を現した。
曇天に出現した太陽が放つ、わずかな祝福の光が桃色の花々を照らしてゆく。
花を
「ね? りっくんの世界と他の人の世界は、こんなに簡単に繋がるんだよ」
――〝カタリ〟と音を立てて、
「りっくんにはさ、りっくんのまだ知らない可能性が、いくらでもあるんじゃないかな?」
「僕が、まだ知らない可能性……?」
「例えばだけど、知ってるかな? アイスランドでは国民の約半分が、妖精を信じているんだよ」
「えっ? ちょっと待って、何のはな……」
「いいから聞く!」
「あ、はい……」
教師のように人差し指を立てた桜子より放たれる圧に、漓音は続く言葉を発することができなかった。
「他にもスパゲッティの怪物を信仰対象にしてる宗教だってある。イギリスのグラストンバリーには、魔法使いや妖精が暮らしてるとか。そして……なんと、北海道の
顔に、それこそ魔女のような怪しげな笑みを浮かべる桜子の口から語られるのは、どれも漓音が聞いたこともない、にわかには信じがたい話ばかりだった。
「僕が詩人なら、桜子は小説家に向いてるよ。それこそ、そんなの
「えっーと……多分?」
額に汗を浮かべた桜子は、少し困ったように、自信なさげな微笑みを浮かべる。
「いや、何で疑問形だし……」
「だって、私は……ここから動けないし実際には見てないもの……」
桜子の語気は、だんだんと弱く、頼りないものへとなってゆく。
彼女の過去を自分はあまりにも知らない。
こうして明るく振るまっているが、もしかしたら何かの病気や怪我で、あまり動き回れないのかもしれない。
二人の間には会話の糸口を探す、気まずい沈黙が走る。
それは自己紹介をする前に話題を探していた時のものとは別種のものだ。
沈黙を先に破ったのは、今回は桜子だった。
「とにかく! 世界には、まだ私達が想像もつかないようなことが、たくさんあるのです! こんなことも知らない、りっくんごときが達観するなんて百年早いのです!!」
「なんか、すごいディスられてない?」
「ふふん、私は、りっくんよりも遥かに長い年月を生きてきて、いろいろと知ってるからね」
「いや、そこまで年齢変わらないでしょ」
空気は変わったが、未だに心に
それでも、この時間を、このまま終わりにはしたくないと思った。
「そこまで言うならさ、桜子の知ってること――もっと教えてよ」
小さく
桜子の目が見開かれ、周囲の時間さえも止まったようにその
それでも次の瞬間には、夕焼け空のように朱く染まった頬に満面の喜びを浮かべていた。
「うん、もちろんだよ」
「それじゃ今日はもう遅いし、また明日」
◆◇◆◇
次の日も、そのまた次の日も漓音は桜の木へと足を運んだ。
桜子は本当に多くのことを知っており、漓音を驚かせた。
実際には、そのほとんどが、
曰く、南極にはエノク書に記された堕天使が封印されている。
こんな話をまともに信じるほど、漓音はロマンチストではない。
なぜ、彼女の知識はこんなにも
それでも桜子と過ごす時間ほど、楽しいものは自分の人生には無かった。
周りのもの全てが、彼女と一緒に居るとキラキラと輝いて見えるのだ。
桜子が、その話をしたのは二人が出会ってから四日目のことだ。
「私ね、一つ忘れられない物語があるの――」
「物語?」
「うん、数年前に女子高生が、ここで読んでいたイギリスの小説」
〝【世界樹】と呼ばれる巨大な樹がありました
その樹が放つ光の粒子は、天命を全うせずに死んだ全ての人を生き返らせる力がありました
あるとき、戦いで重傷を負った一人の騎士が、世界樹へと運ばれました
神秘の力は、容易く彼の傷も癒しました
そこで彼は一人の女性と出逢い、恋に落ちます
厳格な騎士の父に知られぬようにと、二人は世界樹のもとで密会を重ねました
ですが、戦争が二人を引き裂きます
騎士は戦場から、何通もの手紙を彼女へと送りました〟
「話はここで終わり。日本では続きの翻訳もされてないんだって」
「続きが読みたいの?」
「うん」
「僕が探してくる」
「えっ――」
漓音の発した言葉に、息を呑むように桜子の目が見開かれた。
「僕が探してきて、桜子に読むよ。一度くらい海外生活を経験してみても良いし」
「えっ!? 流石に急過ぎない……?」
「この世界の広さを知れって言ったのは桜子だろ」
「そっか……。りっくんはすごいね」
そう思うのならば、それは全て君のおかげだとは、この時の漓音は言えなかった。
「それじゃあ約束――」
気がつけば桜子の顔がすぐそばにあり、桃色の
固まる漓音の隣で桜子は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、おまじないだよ」
次の日、いつもの木の下に桜子の姿は無く、桜も全て散っていた。
漓音は次の春を待たずに高校を中退し、イギリスの高校へと編入した。
両親には怒られるどころか、やっとやりたいことを見つけたのかと泣かれて、流石に驚いた。
だが、桜子の言っていた小説は、なかなか見つからなかった。
卒業が迫る中、漓音は将来性のあるアフリカ市場との結びつきが強いフランスで、国際ビジネスを学ぼうと決心する。
桜子の影響で、もっと世界に目を向けてみようと思えたから。
結局、桜子の話していた小説が見つかったのは、イギリスで過ごす最後の一年のことだった。
それは本国でもかなりマイナーな小説だった。
小説を読み終えた漓音は、最速で日本へ帰国する便のチケットを購入した。
飛行機に乗る前日も機内で彼は一睡もできなかった。
足元がおぼつかず、手を震わせ、いっそうと細くなったように見える身体を近くの人に支えられながら、漓音は空港へと降り立った。
急ぎ捕まえたタクシーの車内で、小説の内容が漓音の精神を
〝騎士の手紙には三年間の戦争中、一度も返事はありませんでした
それでも騎士の彼女への想いは変わりませんでした
戦いは多くの犠牲を出し、騎士の友人も多くが命を落としました
戦争が終われば、きっと世界樹が彼らを生き返らせてくれる
彼女にだって会える
それが騎士の唯一の希望でした
ですが――
和平の
人類は世界樹の力を使い過ぎたのです
彼は騎士の幼馴染でした
騎士の父から
ですが、命令よりも友情を選んだ彼は、二人の関係が誰にも邪魔されないように動いていました
女性が騎士に伝えた住所は、どこにも存在せず、手紙は届きませんでした
ですが、手紙は全て彼が女性へと届け、そして彼女の言葉も代わりに書き留めていたのです
彼が取り出したのは、三年に及ぶ彼女の言葉を書き留めた紙の束でした
どうか怪我をしないでください
何があっても自分を責めないでください
どんなに辛くても生きてください
私は身勝手な女です
こんなことを言って、貴方を傷つける私を許してください
貴方を愛しています
貴方も私を愛してるのならば、これが最後のお願いです
どうか私を忘れてください
さようなら
女性は世界樹そのものだったのだ。
タクシーから飛び降りた漓音は、無我夢中で走った。
外は、あの日のような雨だった。
強風が吹きつけ、泥水が容赦なく、服を汚してゆく。
息が苦しくて、脇腹にかつて経験したことのない痛みが走る。
胸が、ドクドクと高鳴って、背筋を嫌な冷たさが駆け抜けた。
何をこんなに焦っている。
これはあくまで小説だ。
彼女――桜子がよく話していた
もう少し、あと少し、きっと彼女はそこに居る。
「桜子――――!!!!」
駅の近くということも忘れ、漓音は大切な愛しい人の名を叫ぶ。
そこに、あの美しい桜の木は無かった――。
あるのは、小さな切り株だけだ。
隣に立つ看板には、冷たい文字で駅の西口を作るために切る事になったと説明があった。
「……そんなのってないだろ!!」
――「りっくん?」
何年も聞いてなかった温かくて、少しだけ悪戯っぽい幼さを残した声――。
涙を拭うことすら忘れて、振り返れば、もう見ることはないと思っていた彼女――桜子が立っていた。
だが、彼女の身体は既に膝の辺りまでが消えていた。
残された身体も、どんどんと薄くなってゆき、儚げなその姿は、今にも霧のように空気中に溶けて、消えてしまいそうだ。
「あはは、また少し痩せたかな? でも嬉しいな。あの〝約束〟を果たしに来てくれたんだよね」
「あぁ、でも君は……」
「うん、ごめん。私にとって、りっくんとの時間はとっても、とっても特別なものだったから」
「謝る必要なんかない!」
「りっくん?」
「僕の方こそ、僕の方が君から、あまりにも沢山のものをもらった!!」
「そっか、嬉しいよ……本当に。ねぇ、もう時間が残されてないんだ、本を読んでほしいな」
腰元までが桃色の粒子へと変換され、桜子の存在は一層と
「わかった……」
これを読み終えれば全てが終わる。
漓音は、一つ一つの
言葉を発する度に、彼女との思い出が、色をつけて甦る。
「〝貴方を愛しています〟」
その続きを読むことは、漓音にはできなかった。
雨音の中に、堪え切ることができず、
「続けて――りっくんの言葉で」
「僕は、僕は……君を決して忘れない。ありがとう、桜子、君に出逢えて、恋をしてよかった。君を好きになって……よかった!」
「私もだよ、君のことが大好き」
満面の笑みと共に桜子の体は、桃色の粒子へと変わり、空へと昇ってゆく。
今度は誤魔化さない。
彼女へのこの想いも、彼女と過ごした時間も、自分の宝物だから。
漓音は空を見上げながら、彼女に恋した自分の心を誇るように涙を流した。