「汝、心を正しく持ちなさい」
「汝、隣人を愛し、助け合いなさい」
クヴァドラート王国の辺境に位置する村、リュトムス。
人口30人程度の小さな集落。
村人は皆、ほとんど自給自足の生活をしている。
唯一の教会で、俺は村人に神の教えを説いていた。
毎週日曜日、村人は教会に集まって神父の教えを聞く。
温かな光が天窓から差し込む。
うとうとする老人、目を輝かせて見つめてくる女性たち、走り出したそうな子どもたち。
どれも見慣れた景色だった。
手元の聖書に目を向け、続きを口にする。
「汝、真実のみを口にしなさい」
気づかれないようにやや口角を上げた。
口にする内容と現実の乖離に、我ながら呆れてしまう。
俺の正体は、聖職者の姿に擬態している、ただの魔物である。
*
ミサが終わり、村人たちが教会から帰っていく。
「アベル様、今日もありがとう」「神父さまの声はいつも優しいのよね」
そんな言葉に、いつも通りの微笑を浮かべて見送った。
俺はいわゆる『インキュバス』と呼ばれる種族の魔物だ。
本当の姿は頭に尖った角、おしりに尻尾が生えている。魔物らしい赤の瞳もあるが、今は”変化”の魔法を使って緑色の瞳にし、人間の格好をしている。
数年前。騎士団の魔物狩りに遭い、命からがら逃げ延びた。
そして辿り着いたのがこの辺境の村・リュトムスだった。
“洗脳”の魔法で「この男は王都から派遣された神父である」と村人たちに信じ込ませ、
それからずっと、この村に滞在している。
人間たちからは「インキュバスは人間の精液を搾りとる愚かな魔物」だと言われている。
だが、実際のところそんなのは偏見だ。
実際の俺は、セックスはおろかキスだってしたことない。ピュアピュアなインキュバスだ。
多分、インキュバスの使う”魅了”魔法のせいで変な誤解が生まれてしまったんだろうけど、名誉毀損も甚だしい。
……生きづらい種族に生まれてしまったもんだ、ホント。
はあ、と気づかれないようにため息を吐いた。
「神父様ー!みてみて!」
ぼーっとしていると、五歳の女の子・ミアが話しかけてきた。
「あのね。ミアね、花冠作ったの!神父様にあげる!」
「わあ、すごく上手ですね、ミア。ありがとうございます」
ミアはピンクの花が編み込まれた花冠を手渡した。
俺はしゃがんでミアと視線を合わせ、それを被る。
「えへへっ!神父様、お花似合うね!」
「ふふ、嬉しいです。ミアのお花のチョイスがよかったんですね」
ミアは照れたように顔をほころばせた。
リュトムスでは贈り物やお裾分けが日常的に行われている。
牧歌的で幸せな空気が流れていた。
この村で人間のふりをして過ごすのは、案外気楽で。
「まだ帰らなくてもいいか」「この仕事が終わったら」「次の春が来たら」
……そう言い訳を重ねているうちに、この村の生活にすっかり馴染んでしまった。
*
ーーー夜。
一日の仕事を終え、村の近くを歩いていた。月光に反応する薬草を探すためだった。
村人は俺になんでも頼んでくる。特に多いのは病気や怪我の相談だ。
この村に医師はいないから、ほぼ全ての身体の不調を俺がなんとかしなければならない。
薬草や医療について必死に勉強して、今では大体の不調は対応できるようになった。
幸いこのあたりは薬草の種類が豊富だ。暇を見てはこうして薬草をストックしている。
目当てのポイントに辿り着いてーーーー、
俺は叫び声を上げた。
茂みの中、ひとりの騎士が血まみれで倒れていた。
腰を抜かした。全身が震えている。
目の前に、立派な甲冑に身を包んだ騎士が倒れている。
(ーーーーークヴァドラート騎士団)
数年前に俺を襲ってきた集団の甲冑だ。
あのときの恐怖が蘇り、手足が冷たくなる。
(……俺を殺しにきたんじゃない。……倒れてる。それだけだ、落ち着け、大丈夫だ)
必死に恐怖を抑え込んで、息を整える。
震える手で目元を拭って、ゆっくりと騎士に視線を向けた。
騎士は意識を失っているが、死んではいないようだった。血の臭いがする。
あたりが暗いのと黒い甲冑でよくわからないが、おそらく傷だらけだろう。目は閉じられ、顔は泥と血で汚れていた。頭にも怪我がありそうだ。
「神父様!どうされたのですか!?」
背後から村人の声がした。
振り返ると、複数の村人がランプを持って俺の元に駆け寄ってきた。ざっと見たところ5、6人。俺の叫びを聞いて駆けつけたのだろう。
「いえ……」
「あれっ!誰が倒れてる!」
「あ、そ……そう、ですね……」
「怪我してますね、助けましょう!」
親切な村人たちは倒れている騎士を抱え、リュトムス唯一の教会に連れていった。
*
ーー困ったことがあったら、お互いに助け合いなさい。
俺がこの村に溶け込むために教えてきたことだった。
けれど、その優しさが今は憎たらしかった。
「このひと、ひどい傷だな。神父さま、どうしようか」
「神父さま、治してあげて」
「……ええ。お任せください」
教会に村人が集まって倒れた騎士を囲む。
夜だというのに騒ぎを聞きつけて、大人たちが助けにきたのだ。
騎士の重苦しい甲冑を脱がせると身体には無数の傷があった。
女性たちは「大丈夫よ、大丈夫よ」と、意識を失っている騎士に声をかける。
……こんな状況で、神父の俺がこいつを見捨てるなんて。できるわけがない。
「傷口を洗いましょう。パット、水を運んできてくれますか。そのあとはタオルで傷口を押さえて。カローラ、お願いします。私は奥から薬をとってきます」
村人たちに軽く指示を出し、その場を離れる。
教会の奥にある倉庫に向かった。
薬草から作った軟膏を持ってくる頃には騎士の状態はややよくなっていた。
まだ意識を取り戻していないが、荒かった呼吸は比較的安定し、傷から流れる血も落ち着いたようだ。
俺は騎士に軟膏を塗りながら、村人たちがひそひそと会話をするのを背中で聞いた。
「魔物に襲われたんかね」
「ツヴィンガーの森も近いからねぇ。あのあたりから流れてきたんか?」
「こんな立派な騎士様がボロボロになるのだから、相当強い魔物が出たのかもしれん」
「それは怖いねぇ。見回りもーーー」
「あ、あのっ!」
騒がしい村人の声を、俺は遮った。
実際のところ魔物が人間を襲うことはあまりない。ゼロではないが、数で言えば魔物が人間に襲われるパターンのほうが多い。
けれど一部の魔物への偏見は強く根付いていた。見た目が凶悪な魔物も多いからだろう。
……とは、分かっているけど。親切な村人から魔物の悪口を聞くのは辛かった。
「みなさま、もう家に戻られては?夜も深いですし」
「でも、騎士様は……」
「私が面倒を見ますよ。幸い呼吸は落ち着いています。あと私たちにできることは神に祈ることだけです」
にこりと笑いかけると、村人たちはほっと息を吐いた。
「神父さまが祈ってくれるなら安心だ」と、お調子者のポールがカラッと笑う。張り詰めていた空気が和らいだ。
青年たちに協力してもらい、騎士を教会の奥に運ぶ。
教会の奥には俺の居住スペースがある。ベッドに騎士を寝かせ、笑顔で青年たちを見送った。
姿が見えなくなるとーーーー俺は深いため息をついた。
どっと疲れた。さっさと寝たい。
心はざわついて気持ち悪いし、重いものを運んだから疲れてるし。
けれど、ベッドには騎士が眠っている。
ひとりで住んでいるので、当然だがベッドはこれ一つだ。
こいつが寝ていてはふてくされて眠り込むこともできない。
(……なんなんだよ、もう!)
*
「ーーーま、ーーーーーさま」
聞いたことのない声がした。低くて、優しいような声だ。
誰かに肩を揺すられている。意識がだんだんと浮上してくる。
体中がぎしりと痛い。変な体勢で寝ちゃったかな。仕事をしながら寝落ちしたんだっけ?
あれ、でも、これ机じゃないな。
うっすらと目を開ける。眩しい。
もう朝か。あれ?なにがあったんだっけーーーー
「神父様」
顔をあげた途端、
ぼんやりしていた脳が一気に覚醒した。
「…………っ!!!!!」
叫びそうになるのを必死にこらえた結果、唾が喉に引っかかった。変にむせる。
浅い咳を繰り返すと、目の前の騎士は慌てて俺の背中をさすった。「大丈夫か」と心配そうに声をかける。
イガイガする喉をさすり、急いで状況を確認する。
昨日の騎士はすっかり目を覚ましていた。ベッドに腰掛けて俺を心配そうに見つめる。
傷はよくなったのだろう。命の危機は脱したようだ。
「すみません、取り乱してしまいました。お元気になられたようですね」
「驚かせてすまない。ここは……?」
「リュトムスの村です。あなたは傷だらけで倒れていたんですよ」
騎士は「……そうか」と呟いた。所在なさげな表情だ。
もしかしたらリュトムスという地名を知らないのかもしれない。
まあそうだろう。小さな村だし、ほとんど外部の人間は来ないのだから。
「ご挨拶が遅れました。私はこの村の神父、アベル・パストアと申します」
「アベル……」
騎士が俺の名前を繰り返す。
「看病してくれたのか」
「困ったときはお互い様ですから」
「……ありがとう」
騎士はぎこちなく笑った。ぱっと見は怖そうな顔だったのに、笑うとなんだか大型犬みたいな雰囲気があった。
大柄な身体と綺麗な黒髪。白い肌とはっきりとした目鼻立ち。瞳は綺麗な青で、人間の中でも位が高いのだろうと感じさせる。傷だらけなのにどことなく上品な雰囲気を醸し出していた。
「ノルベルト・ベルンシュタインだ」
騎士の名前を聞いて、ヒュッと息を呑んだ。
ーーーーーノルベルト・ベルンシュタイン
魔物の村で耳にしたことがある名だ。クヴァドラート騎士団第三騎士団長の、ノルベルト・ベルンシュタイン。
有力な公爵の息子。優れた剣術で多くの武功をあげた。
魔物との武力衝突の際には最前線に出て、多くの魔物を倒してきたらしい。
(黒い人間が現れたら一目散に逃げろ。特に青い目の”ベルンシュタイン”ってやつには気をつけるんだ。やつは容赦なく殺す)
友達の一人が俺に教えてくれたことがある。そいつの家族がベルンシュタインに殺されたらしい。何があったのかは知らないけど。
……あの騎士団が俺たち魔物を襲っているのは、事実だ。
恐怖で身がすくむ。
笑顔を崩さないように、必死に顔の筋肉に力を込めた。
「ツヴィンガーの森への道中……色々とあって。おかげで助かった」
「まあ、それは大変でしたね」
ツヴィンガーの森とは、俺が人間に襲われた森のことだ。
人間たちの間では凶暴な魔物が出るという噂が広まっている。
やはりコイツは魔物退治のためにこの近くに来たのだろう。
(……早くこいつを村から追い出さないと)
「お体はいかがですか?」
「あなたのおかげで、なんとか」
「村人全員のおかげですよ。それで?怪我は?もう歩けるのですか?」
「多分……、っ!」
騎士がベッドから立ち上がろうとすると、途端に顔をしかめた。
足の傷が開いてしまったようだ。じわりと赤い血が滲む。
俺は急いでタオルを当てた。昨日の看病道具がすぐ近くにあって助かった。
……この分ではおそらく一ヶ月くらいは治療に時間がかかるだろう。
「歩くのは厳しいですかね」
「それほど激しい動きをしなければ問題ない。これくらいの傷は戦場でもよくある」
「まあ、騎士様はすごいですね。では移動されますか?王都へはーーーー」
「………いや、さすがに王都までは難しい」
騎士が落ち込んだ様子で呟く。
まあ確かに、この怪我で辺境の村から王都までを移動するのは厳しいだろう。リュトムスに移動用の馬の余裕なんてないし。
「厚かましい願いだとはわかっているのだが、傷が治るまでここにおいてもらえないだろうか」
貼り付けていた笑顔の仮面が、崩れそうになった。
「……ここにおくというのは?」
「傷が治るまでこの部屋をお借りしたい」
「……村人は他にもおりますので。声をかけますよ。少々お待ちください」
「いや、あ、あの……、できれば、あ、あなたの、そばが、いい、」
「はあ?」
やべっ。苛立った声になった。
咄嗟に口元を押さえる。つい素が出てしまった。
騎士は俺の反応について特に気にしない様子で続けた。
「こんなに早く身体が回復したのは初めてなんだ。あなたの看病のおかげだろう。近くにいられたら、もっと早く回復するかも、しれない、から……」
(……大変厚かましい願いだな、オイ)
俺は笑顔を崩さずに、頭を回転させる。
この男はあの“ベルンシュタイン”だ。魔物たちの間で最も恐れられている騎士。
こんなリスキーな存在、さっさといなくなってもらいたい。
……だが、おそらくこの男に”洗脳”をかけるのは難しい。
瀕死の時に見聞したが、かなりの魔力耐性を持っているようだ。
かけるなら相当の魔力を消費する。
俺の魔力量的にもこれ以上洗脳対象を増やすのは厳しい。
ほかの村人に預けるよりかは、俺が常に監視している方がリスクは低いか。
幸い俺を”親切な神父”だと思い込んでいるようだし。
期間はせいぜい一ヶ月程度。それくらいなら、頑張れば……。
「わかりました。傷が癒えるまで、この教会をお使いください。お力になれることがあれば、なんでもおっしゃってくださいね」
ノルベルトの目が、ぱっと明るくなった。