意識が混濁している。
世界の輪郭が、にじんで見えない。
不規則に襲ってくる激痛で拳を握る。
今思えば、冴えない人生だった。
子どもの頃は“神童”だと持て囃され、いわゆる優等生だった。いや、ガリ勉か。
親が学歴コンプレックスを拗らせていたせいで、俺の記憶では友達と遊んだ時間より、塾にいた時間の方が圧倒的に長かった。
神童だと? ——同級生たちが恋だの青春だのしている間、俺は必死に勉強していたんだ。
中学、高校と、ずっと受験のことだけを考えて生きていた。
好きな女の子がいたこともあるが、目を合わせることすらできなかった。
“青い春”とやらを犠牲にして勉強した結果、第一志望の大学に合格できた。
さぞ、親も嬉しかっただろう。別に親のことを恨んではいない。
心のどこかではわかっていた。俺には勉強しかないと。
親は道を広げてくれていたのだろうが、視野の狭い俺には一本のレールしか見えていなかったのだ。
第一志望の大学に合格しても、そこで待っていたのは解放ではなく、次の戦場だった。
地元ではそれなりに優秀だったが、全国から集まった“神童崩れ”たちの中に放り込まれた。
天才と変人と狂人が入り混じった研究室で、日々、課題に追われる生活が始まった。
本当は、星の話がしたかった。
宇宙が好きだった。
けれど、学部生の頃に選べるテーマなんて限られている。
結局、隅っこで粛々と基礎データを取るだけの毎日だった。
それでも、腐らずに頑張った。
「ここで評価されれば、研究職の道が開ける」──そう信じていた。
学費を捻出するために、家庭教師のバイトをこなしながら、
修士課程、博士課程へと進んだ。
親は大学の先まで考えていなかったらしい。
指導教員は悪い人ではなかったが、
俺がやりたい研究にはまるで興味を示してくれなかった。
指導の合間に、ポツリと
「君は器用なんだから、もっと現実的なテーマを選んだ方がいいよ」
なんて言ってたっけな。
──じゃあ、何のために博士号なんて取ったんだよって話だ。
同級生とは、付き合いがなかったわけじゃない。
飲み会にも、たまには顔を出した。
仲間外れにされるほど孤立していたわけでもない。
……でも、誰かの記憶に強く残るような存在でもなかったと思う。
恋愛もまあ、しようとはした。
院生のとき、同じ研究棟にいた女子に淡い好意を抱いていたことがある。
けれど、きっかけも、勇気もなかった。
目が合うたび、話ができるたび、舞いあがっては胸が痛くなった。食事に誘うことさえできずに、彼女は卒業していった。
それでも、人生には良いこともあった。
宇宙や物理が大好きだった子どもの頃からの夢。
科学者にはなれた。
夢は叶った。宇宙の謎を解き明かして歴史に名を残す──ノーベル賞も獲っちゃったりしてな。
そんな希望に満ちた時期も、確かにあった。
だが、現実は違った。
オトナのしがらみ。限られた予算。
理不尽な研究費の配分。
足の引っ張り合い、忖度、派閥争い。
そこそこの業績を出しても、研究テーマは選ばせてもらえなかった。
「ここで成果を出せば、次は君の自由にできるから」──
その言葉を、何度信じたことか。
嘘つき野郎め。呪ってやる。
ああ、アインシュタインのように、世紀の大発見をしてみたかった。
どんな気分だろう?
今この宇宙の理を知っているのは、世界で自分ひとり──
しょうがない、愚かな民衆どもに教えてやるか、って感じ?
そういやアインシュタインって、二度結婚したあげく、その後も節操なく他の女性に言い寄っていたらしい。
おかげでノーベル賞の賞金を元妻に取られた。かっこいい。
まったく、こいつもろくでもない人間だな。
それに、死後に自分の脳をスライスされて保存されるとか……絶対にごめんだ。
あ、墓とか全く考えていなかったな。
きっと葬式の喪主は父親がやってくれるだろう。
最低限の保険には入っている。葬式代は心配ないはずだ。
保険会社からちゃんと親に連絡してくれるだろうか。
クソ。月面葬でも予約しておくべきだったか。
——普通の墓なんて、ダサすぎる。
同僚と関係者で、まあまあ葬式の人数は集まるだろうから、親の世間体も悪くはないだろう。
同僚はその後、飲み会でもやってどんちゃん騒ぎか。
誰も俺との思い出なんか語るまい。
唐揚げにかけたくないレモン汁を、勝手にかけられて嫌な思いをするやつがいますように。
……おい。俺の自宅PCはどうなるんだ!?
フォルダ名『論理哲学』。
あれをクリックするやつはいるだろうか。
大丈夫だ、変な性癖はない。いたって普通だ。
年上のお姉さん系なんて、普通だろ?
いや……エロゲだけは恥ずかしい。死ぬ。
クソ! クソ! こんなはずじゃなかった。
道路に飛び出した子どもを助けてトラックに轢かれるだと? 漫画かよ。
他人なんてどうでもいいし、ましてや子どもなんか嫌いだったのに。
こんなどうしようもないおっさんより、未来ある子どもを助けるように──
そんな本能みたいなものが、細胞に刻まれているんだろうな。人間ってやつは。
クソ。
これが、今際か。
もう拳にも力が入らない。あの子を突き飛ばした時に何かの拍子で握っていた、地球儀のキーホルダーが音を立てて転がっていく。返せなくて申し訳ない。
恐怖に脳を支配されそうで、思考を止めたくない。
何も見えない。
──聴覚が最後まで残るって、本当だったんだな。
ピーー……とか、鳴っていやがる。
心臓が止まっても、意識はあるのか。
知り合いも、家族も──誰も、間に合わなかった。
急だったしな。
……父さん。母さん。ごめん。
俺は──
俺は、何かを遺せたのだろうか。
突然、世界から切り離されるような感覚が襲ってきた。
孤独の、本当の意味を、ようやく知る。
そして、徐々に抑えられなくなった恐怖が、
水面に広がる波紋のように、静かに、確実に、広がっていった。
……静かだった。
音がない。匂いもない。
闇ですらない、何もない空間。
皮膚がない。骨も、血も、ない。
だが、“意識”だけが、まだ──どこかに、在る。
そのことに気づいた瞬間、
私は、自分が「私」だったことを思い出した。
──いや、“思い出しかけた”。
名前。思考。時間。
それらが、絹のように静かに剥がれていく。
“私”が輪郭を失っていく。
焦り……のようなものが生まれかけて、消える。
感情が、概念になる。
概念が、光に変わる。
皮膚の代わりに、情報が流れ込む。
宇宙のすべてが、肌に触れてくる。
言葉が消えた。
だが、“理解”だけは、残った。
太陽のコロナ。地球の核。星間ガスの流れ。
銀河の震え。空間のひずみ。時間の伸び縮み。
それらは“見えた”のではない。
“理解された”のだ。瞬時に。無条件に。完全に。
理解が、美しすぎて、苦しかった。
快楽にも似た圧力が、思考の残骸を潰していく。
情報が押し寄せる。波ではなく、洪水でもなく──全方向からの光圧。
現在が、ない。
過去が“見える”。未来も“見える”。
だが、今はない。
“今”とは、生前、脳が作り出していた錯覚だったのだ。
この世界では、すべての可能性が同時に“視える”。
無数に分岐した世界線を、観測できる。
──まず、子どもを助けなかった世界を視た。
事故の瞬間、私は立ち尽くしていた。
運転手が何かを叫んでいる。だが、その声は私には届かない。
その後、人生に劇的な変化は訪れなかった。
ただ、わずかな罪悪感と、大きな後悔だけが、
人生の底に澱のように沈み続けていた。
私は目立った業績も残せず、静かに、孤独に死を迎えた。
──だが、興味深かったのは、その三百年後だ。
愚かにも、自分たちの存在を宇宙に向けて発信し続けていた人類は、
やがて──超文明の知的生命体に見つかってしまう。
まるで、狩人が潜む暗黒の森で、稚児が無邪気に誰かを呼び続けていたかのように。
恒星間航行可能な超文明だ。敵うはずがなかった。
もちろん人類は抵抗したが、戦争と呼べるのかすら疑わしい。
戦いは一方的な蹂躙で、凄惨を極めた。
命乞いの意思が伝わることさえなく、彼らは──たった一人の例外もなく、人類をこの宇宙から消し去った。
七百万年続いた人類史は、わずか七日間で幕を閉じたのである。
最後に残ったのは、憎悪と悲痛と絶望。
そのすべての思念が渦を巻き、怪物のような存在となって私に襲いかかってきた。
──呑み込まれる前に、視るのをやめた。
———次に、子どもを助けた世界を“視る”。
彼は無事に成長し、青春を謳歌した。
ある女性と出会い、家族を持ち、穏やかな人生を歩んだ。
やがて、彼は科学者となる。
命を救ってくれた、名前も知らぬ“しがない科学者”に憧れて──。
彼は何度も、私の墓に足を運んでくれていた。
楽しかったことも、辛かったことも──すべてを、墓前に語っていた。
やがて家族を連れてくるようになってからは、
手を合わせたあと、やんちゃな男の子ふたりが墓石のまわりで追いかけっこを始める──それがいつもの光景になっていた。
「お父さんの研究はね──」
彼はよく、子どもたちに語っていた。
その人生を“理解”した瞬間、
情報の塊となったはずの私の中に、言葉にできない──けれど確かな、誇りのようなものが芽生えた。
彼は晩年、
人類が長らく追い求めてきた宇宙の謎──“ダークエネルギー”の片鱗に触れた。
彼の死後も、その意志は受け継がれていく。
やがて人類は、その正体を掴み──地球の技術は、新たな時代を迎えた。
先の世界線とは異なり、この未来では──
人類は超文明の知的生命体とのコンタクトに成功していた。
戦争は起きていない。
同等レベルの文明同士は、戦わない。
なるほど。
──ダークエネルギー。
理解した。
世界のすべてが“視え”、すべてを“理解”できる。
いや、もしかしたら最初から──知っていたのかもしれない。
……だが。
この“意識体”となった今でも、
どうしても“視えない”場所がある。
やはり、そこだけは特別らしい。
情報が完全に遮断されている。
どうせ他に知りたいことなど、もうない。
“そこ”に入れば、きっと二度と出られない。
だが、迷いはない。
まがりなりにも──私は、科学者だったのだ。
確かめずにいられるものか。
情報の流れが裂けるように、境界面が見えた。
あらゆる因果が終点を迎える空間。
もしかしたら──
アインシュタインも、ホーキングも、そこにいるのかもしれない。
天の川銀河の中心。
その、巨大な暗黒の静寂に私は向かっていた。
周囲には、もう星も光もなかった。
あるのは、曲がった空間と、ねじれた時間の感触だけ。
この先は———
まだ、行ける。まだ──観測できる。
視界がゆがみ、前後も上下も消えた。
加速という感覚が消え、“近づく”という概念までもが剥がれ落ちていく。
そして、境界に触れた。
──事象の地平線。
私という存在が、観測者であることをやめる空間。
すべての情報が、外の宇宙へ還らなくなる境目。
超えた瞬間、何かが爆ぜた。
知覚できない何か。情報が一切ない。
違う。“情報”が空間を歪ませていた。
空間が裂ける。
時間が崩れる。
因果律が反転し、光すらも中心へ落ちていく。
私は、点になった。
重さも、広がりも、意識さえも──潰れ、折れ、引きちぎられる。
あまりの密度に、存在という概念が解けていく。
思考も、記憶も、圧縮され──
物理法則が一切通用しない”何か”の中——
解けた糸が逆再生のようにまた織り重なる。
時間がマイナスへ流れていく。
あるはずのない光が現実の輪郭を描きはじめた。
──そして、“目を開けた”。
白い天井。
朝の光。
となりで眠る妻。
リビングには、笑い声。
男の子が二人、じゃれ合っている。
まるで、ずっと夢を見ていたようだ。
永遠のような、それでいて一瞬のような。
どんな夢だった? 思い出せない。
あまり良い夢じゃなかった気もするが……なぜか、救われたような気もした。
「お父さん、今日も遅いの?」
食パンのくずをこぼしながら、息子が聞いてくる。
「あぁ……今日は遅くなるかもな」
息子の眉毛が、額の真ん中でくっつきそうになった。
隣では兄がにやにやしている。
妻がこちらを見て、何かを言おうとした、その前に。
「冗談だよ。お前の誕生日、忘れるわけないだろ」
彼女がふっと笑う。
最近は仕事もうまくいっている。
こんな何気ない毎日こそ、俺が求めていた幸せだ。
「今日は、いつもより早く帰ってくる。待ってろよ」
「やった!やったー!」
息子はちょっと芝居がかった調子で言うと、
とびきりの笑顔を見せてくれた。
いつもより、少し早く家を出た。
仕事にかまけて──あろうことか、息子の誕生日プレゼントを買い忘れていたのだ。
「お父さん、なんか落としたよー?」
長男に呼び止められ、地球儀のキーホルダーを見せられる。
「なんだ、それ。俺のじゃないぞ」
「あ、そう。じゃあ貰っちゃおうかなー」
言いながら長男は弟と一緒に学校へ行った。
朝の光が心地いい。いつもの、慣れた道。
軽快に流れる、陽気な音楽。
誕生日プレゼントは何を買おうか。
息子が一番喜ぶもの、か。
あいつもいつの間にか大きくなった。
あまり子供扱いもよくないだろう。
──刹那。
何かが、目の前に飛び出した。
思考が止まる。
右足が反射でブレーキを踏んでいた。
タイヤが地面を掴み、トラックが痙攣する。
シートから伝わる衝撃で、何が起きたのかを理解する。
陽気なラジオは、止まらない。
血が、凍る。
トラックを降りた。
前方に──誰かが、腰を抜かしたようにへたり込んでいる。
見覚えのない、けれど、知っている顔。
その男の目を見た瞬間、
永遠のような、それでいて一瞬のような情報が、脳を貫いた。
甦る。
すべてが、甦る。
あの絶望の世界線が、口を開けて笑っていた。
叫んでいた。自分でも気づかないうちに。
自分への怒りと落胆、軽蔑が混じる。
「なんで──なんで助けなかったんだよ!!」
お前が轢かれて、俺が不幸になる世界線。
そして人類が救われる世界線。
いや──この子が、生きて幸せになる世界線。
「……こっちが正解だったのに──」
──後ろから子どもの泣き声が聞こえる。
振り向くと、身体が勝手に走り出していた。
子どもを抱きかかえる。
タイヤに潰されたランドセルが、視界の端に転がっていた。
「大丈夫か!? ケガはないか!?」
返事はない。ただ、泣き声だけが胸に響いた。
さっきまでの怒りも混乱も、今はもうどうでもよかった。
かつての俺に、言った。声は震えていた。
「救急車! 早く!!」
──病院の待合室。
前世で俺が死んだ場所かもしれない。
そんなことをぼんやりと思いながら、彼を見ていた。
彼は──かつての“俺”は、確かに助けていた。
子どもを庇うように、後ろから突き飛ばしていた。
でもこの世界線では、かつての俺は死ぬはずだ。
何かが…ずれたのか?
──無数の世界線の、その“隙間”。
前世の記憶は曖昧で、死後のあの体験も夢のようだ。
だが、あの怪物のような人類の思念だけは、強烈に記憶に焼き付いている。
「……本当、良かったです。あの子が無事で」
かつての自分と話すという奇天烈な体験。
だが、不思議と落ち着く。
「……ああ。お前が押し出さなきゃ、助からなかった」
なんとなく、敬語は使う気になれなかった。
こいつのPCの中の『論理哲学』という名のフォルダも、
宇宙が大好きだったことも、知っている。
──まったく。こいつも、ろくでもない人間だ。
だけど……親友になれる気がする。
なんせこいつは俺だ。
そして、二人でこれからやるべきことがある。
理由はわからないが、このままではあの子が科学者にならないという事が”わかる”のだ。
なにかがずれている。
そうなればあの世界線がやってくる。
「あの、すみません……そろそろ仕事に戻らないと……」
彼は腕時計を見ながら立ち上がった。
俺は、おかしな感覚をまだ拭えないまま彼の目を見る。
「なぁ……話がある。今度飲みにでも行こう。赤ワイン、好きだろう?」
かつての俺が困惑した顔で俺を見る。
俺は続けて言った。
「あの子を科学者にする。」
「……え?」
「世界を救うんだよ——」
──END