西園寺紗英は、ずっと如月瑛士に片思いをしていた。
その想いは高校時代から始まり、瑛士が大学を卒業した今でも変わらず続いている。
周囲の誰もがこの想いを知っているほどだった。
そして、先月。ついに彼女は、議員の娘として、如月グループの後継者である如月瑛士との婚約を正式に結んだ。
今夜、紗英は大胆な決断を下した。
それは、瑛士を誘惑し、二人の関係に既成事実を作ること。
ブルースカイホテル。海の中に建てられた豪華なホテルで、まさに特別な一夜にふさわしい場所。
瑛士がホテルの部屋に入ると、突然、紗英が彼の腕に飛び込んできた。
「西園寺、何をする?」
瑛士はすぐに彼女を受け止めたが、眉をひそめて叱りつけるように言った。
「瑛士~」
紗英は甘えるような声で彼の名前を呼び、首に手を回して、顔を近づけ、キスをしようとした。
しかし、瑛士は顔をそらし、彼女のキスを拒んだ。そして、強引に彼女を腕から引き離そうとしたけど、彼女はその腕に強くしがみついて、動けなかった。
「瑛士、苦しいの……助けて……」
彼女の顔は赤く染まり、言葉も少し震えている。瑛士は彼女の熱さを感じ取った。
「薬を盛られたのか?」
紗英は意図的に身体を寄せながら、ネットで得た知識を使って瑛士を誘惑しようとした。
彼女の手はゆっくりと瑛士のベルトに伸び、ジッパーを下ろそうとした。
「西園寺紗英、いい加減にしろ!」
瑛士はついに我慢できなくなり、彼女の手を強く掴んで、その先を止めた。
「私と結婚するんでしょ……どうしてダメなの?」
紗英は目に涙を浮かべながら、必死に彼を見上げ、可愛らしい表情で訴えかける。
結婚する……
瑛士はその言葉を耳にして、ふと深く考え込んだ。彼女と結婚することが、もうすぐ現実になる。家族のために彼女を娶ることになるのだから、これはきっと避けられないことだと思っていた。
「もし不能だったら、私が損するじゃない!結婚前に試してみるべきでしょ?」
紗英は彼の迷いを察し、さらに挑発的に言った。どんな男でも、この問いには耐えられないだろう。瑛士はもう一度、深いため息をつきながら、彼女の紅い唇に自分の唇を重ねようとした。その瞬間、突然、スマホの着信音が響き渡った。このロマンチックな雰囲気の中では、まるで雷鳴のように耳障りに感じられた。
「瑛士、出ないで……体が苦しいの……」
紗英は不安を感じ、薬の効果で体がふらつく中、必死に力を入れられない手で彼の袖をつかみ、甘い声でおねだりした。
瑛士はその声に一瞬動揺したものの、すぐに冷静さを取り戻し、手に取ったスマホを確認した。「愛乃」という名前が表示されている。
「お願い、出ないで……」
紗英はその名前を見た途端、顔色を変え、瑛士のスマホを奪おうとした。彼女はどうしようもなく瑛士に心を奪われていたから、その名前が胸に深く刻まれていた。
糸瀬愛乃――瑛士の元恋人。
三年前、如月家が彼女との関係を認めなかったことで、二人は無理やり引き離された。それから愛乃は海外で事業をしている男性と結婚し、瑛士との関係は完全に終わったはずだった。しかし、紗英と瑛士の婚約が決まった直後、愛乃は突然帰国してきた。瑛士は結局紗英の願いを無視し電話に出た。
「愛乃……」
「瑛士、助けて!お願い、彼が私を殺そうとしているの。お願い……助けて……」
「愛乃、今どこにいる?すぐに行くから!」
瑛士はすぐに電話を切り、その場を離れる準備を始めた。紗英はその後ろ姿を見ながら、心の中で何もかもが崩れていくのを感じていた。
「西園寺、僕はこれで行く」
瑛士は短く告げ、何も言わずに扉を開けた。
紗英はその一言を耳にして、まるで足元が崩れ落ちたかのような気がした。彼が別の女性のために立ち去る。それだけでも耐え難いのに、今の彼女の体にかかっている薬の影響が加わって、さらにパニックに落ちている。
「お願い、行かないで瑛士!一人にしないで!」
彼女は必死で叫び、瑛士の背中に向かって駆け寄ろうとしたけど、力が入らなかった。
「自分で救急車を呼べ。あるいはボディーガードに送ってもらえばいいだろう?」
「私は媚薬を飲んだのよ。どうして別の女のために私を見捨てるの?私があなたの彼女だよ!」
瑛士は少し躊躇したけど、結局紗英の手を引き離した。
「愛乃の夫は彼女に暴力を振る舞うから。もし俺が行かなければ、彼女は命の危険にさらされるかもしれない」
「警察に通報すればいいじゃない!あなたが行ったって、どうにもならないでしょう?」
しかし、瑛士は一度も振り返ることなく、ドアを開けて外へと去っていった。紗英はその背中を見送ることしかできず、ドアが静かに閉まる音が耳に残った。
「苦しい……」
心も体も、どちらが痛みを感じているのか分からなくなる。紗英はよろけながらテーブルの方に戻ろうとしたけど、足元がふらついて力尽き、床に倒れ込んでしまった。
バッグの中からスマホを取り出し、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、番号を探して電話をかけた。
「お嬢様」
電話の向こうから、低く落ち着いた声が聞こえた。それだけで少しだけ安心感を覚えた。
「私が予約したホテルに来て……早く……」
「分かりました」
相手は一言だけ返し、電話を切った。紗英は力なくスマホを握りしめ、天井を見上げる。
九条誠司――彼は紗英の父である国会議員が高額な報酬を払って雇ったボディガード。そして、紗英が最も嫌いな人物であり、最も信頼している人でもあった。硬直した性格と融通の利かなさが、彼女にはどうしても馴染まなかった。しかし、そんな彼の冷静さと確実さこそが、今の紗英には最も頼りになるものだった。
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紗英がまだ自分のボディーガードのことを考えているうちに、突然、部屋のドアが静かに開かれた。シンプルな黒いシャツを身にまとった男が現れる。
完璧な顔立ちに、冷徹な印象を与えるその顔は、まるで感情を読み取れないかのように無表情だった。
「お嬢様、如月さんはどこですか?」
誠司はそのまま眉をひそめて、紗英の前に跪くようにして問いかけた。
しかし、紗英はその問いに答えることができなかった。彼女の思考はすでにぼんやりとしており、ただ近くに誰かがいることだけが感じられた。
誠司の香りが、彼女の神経を刺激した。繊細でありながらも強烈に感じられるその香りが、どこか安心感をもたらしつつ、同時に紗英の体内で何かが反応しているのを感じさせた。
彼女はその誘いを拒むことなく、無意識に手を伸ばした。
その瞬間、誠司は彼女の動きに気づき、急いで手を差し出す。だが、紗英の体が予想以上に寄りかかってきたことで、誠司は一瞬、驚きに固まった。
彼女の体は驚くほど熱く、柔らかく、まるで彼に依存するかのように無防備に寄り添ってきた。
その思い掛けない接触に、誠司の心は一瞬、大きく動揺した。普段は冷徹で無感情に見える彼の表情が、微かに崩れる瞬間だった。そのわずかな隙に、紗英の紅い唇が、誠司の唇に重なった。