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第20話

紗英はソファに膝を抱えて座り、顎を膝の上に乗せて、ぼんやりと呟いた。


「瑛士を好きになった時、彼が私を好きじゃないことは最初から分かっていた。でも、私は気にしなかった。彼が私のことをかなり嫌っていたときも、少し寂しかったけど、それでも彼への想いは揺るがなかった。後に婚約が決まられ、瑛士からきっぱりと「愛することはない」って言われた。本当は……悲しかった。でも、好きな人と一緒にいられるだけで、もう十分幸せだと思った」


彼女は誠司をちらりと見て、少し首をかしげて言った。

「もし私が何もなかったかのように振る舞って、明日ウエディングドレスを試着しに行ったら、如月家はきっと、糸瀬愛乃の存在を絶対に許さないと思う。私はきっと、彼の妻になれる……でも……」


言葉を引き延ばし、紗英は次第に目を伏せ、感情を隠そうとするように言葉を詰まらせた。


誠司は何も言わず、ただ静かに彼女を見守っていた。


「だから……明日、ウエディングドレスの気分じゃない」


その言葉は、まるで軽く風に吹かれるように、あっさりとした口調で発せられた。

しかし、誠司がそれを聞いた時、その軽さが紗英の本当の気持ちを隠すための仮面であることに気づいた。彼女にとって、瑛士に対する気持ちはこんなにも軽い言葉で表現できるものではなかった。


彼女は少し眉を撫でながら、どこか寂しそうに笑った。

「分からない。今まで耐えてきたのに、あと一ヶ月でお嫁さんになれるのに、どうして突然耐えられなくなったのか……」


その声には、どこか迷子のようなものが滲んでいた。紗英は分かっていた、何を望んでいるか、そしてそれを手に入れるためにはどんな代償を払うべきかを。彼女が求めるものは、愛されることではなく、ただ一緒にいること、ただそれだけだったのかもしれない。


誠司は無言で薄く笑いながら言った。

「如月は以前からあんたを好きじゃなかったけれど、他の女性はいなかった。でも今、彼の初恋である元カノが戻ってきた。そして、あんたが思っているほど、裏切りを許せなかった」


紗英の顔が固まり、ソファに座ったまま、何も言わずにいた。

部屋は静寂に包まれ、呼吸の音だけが響く。

顎にあった傷がすぐに治療され、数分で処置を終えた。誠司は何も言わずに薬箱を閉じて、静かに立ち上がった。


「他に用事がなければ、先に失礼します」


紗英は目を閉じ、冷ややかな表情を少し見せた。

「糸瀬愛乃を監視しておいて」


誠司は一瞬だけ彼女を見つめ、無表情で答えた。

「分かりました」


紗英はそのまま、言葉の後に続く何かを探すように見つめていたが、すぐに目を伏せて言葉を続けた。

「それから、明日の朝食を持ってきて」


誠司は一度うなずくと、静かにその場を離れた。彼は時折、西園寺紗英という女性を理解するのが難しいと感じることがある。彼女は一体強いのか、弱いのか、賢いのか、愚かなのか——その境界線が彼にははっきりしなかった。


部屋の中に残された紗英は、顔を洗い、大きなベッドに倒れ込んだ。

灯りを消し、彼女は深い眠りに落ちた。


ーーーーーーーーーー


翌朝


誠司が紗英のアパートに到着したとき、紗英はすでに外でのランニングを終え、シャワーを浴びて簡単に服を替えた後、食卓に座って朝食を取っていた。


額に小さな傷が残っているものの、昨晩見せていたあの弱さはもうどこにも見当たらない。

紗英はスマホで新聞を見ながら、誠司に問いかけた。


「昨夜のことと、前からあった糸瀬に関するスキャンダルは、全部消したの?」


「はい。如月に消された」


瑛士は如月グループの御曹司で、この程度のスキャンダルは彼にとってどうってことないこただろう。


「昨日の夜、彼らは何時別れたの?」


「昨晩、僕たちが帰った後、如月はファンを追い出し、何人か問題を起こしたファンは警察に通報され、今はおそらく糸瀬愛乃の病室にいると思います」


紗英は何も言わず、ただ少しの間黙っていた。その後、スマホを手に取ると、ⅹに何かを投稿し、再び朝食に集中し始めた。


ーーーーーーーーーー


朝食後


紗英は部屋で動きやすい服に着替え、車の鍵を誠司に投げ渡した。

「今日は山を登るわよ」


誠司は紗英の横顔を見ながら尋ねた。

「ウエディングドレスの試着しないのですか?」


「言ったでしょ、気分じゃないって」


紗英は淡々と答えた。


紗英の投稿で瑛士が消したスキャンダルが再燃した。如月グループの関係者は急いでコメント削除に追われ、彼女の携帯は鳴り止まなかった。しかし、紗英はそれらを無視し、ただ心地よい風が吹き抜けるオープンカーの中で目を閉じ、自由な時間を楽しんでいた。


朝、スマホを手に取った紗英は、すでにいくつかの不在着信があったことに気づいた。それは、昨晩から続くファンとのトラブルを解決し、糸瀬を病院に送った後、ようやく彼女にかかってきた電話だろう。

紗英は好かれなくても構わなかった。でも、無視されるのは我慢できない。


昼食をとるために向かう途中、誠司のスマホが突然鳴り響いた。誠司は画面を見て、紗英に視線を向けた。

「西園寺さんからです」


紗英はその言葉に反応し、手に持ったフォークとナイフを一瞬止めた。そして、冷たく言い放った。

「絶対に出ないで!」


しかし、誠司はその言葉を無視して、スマホを取った。

「西園寺さん」


紗英は彼を睨みつけた。

(どうしてこの男はいつも言うことを聞かないの!)


「紗英は君と一緒にいるのか?」


「はい」


「今すぐ、彼女を西園寺家に連れて戻してくれ」


「おそらく、お嬢様は帰らないでしょう」


電話の向こうからの声が続く中、誠司は静かに間を置き、さらに言葉を続けた。

「無理に連れ帰すこともできますが?」


「……」


(この野郎!)


怒りが込み上げてきた紗英は、誠司のスマホを勢いよく奪い取り、投げ捨てた。さらに自分のカバンからもう一台、スマホを取り出してそれも捨てた。


「無理に連れ帰そうとしたら、お父さんに私をセクハラしようとしたって言ってやるわよ」


「構いません。どうせ西園寺さんは信じないので」


その瞬間、紗英の目が鋭く輝いた。何かを思いついたようで、得意げに口角を上げた。

「なら、あなたの婚約者に言うわ。私の裸の姿も見たって伝えておく。お父さんはあなたを信じるとしても、あなたの婚約者はどうかな」


誠司はその言葉に一瞬、固まった。紗英は彼をちらりと見て、鼻で笑いながら言った。


「あなたの婚約者が誰かなんて、すぐ調べればわかわよ」


誠司は眉をひそめ、紗英をじっと見つめた。その沈黙の中、紗英は満足げに牛肉を切り続けた。


(そんな目で私を見ても無駄よ、言うことを聞かないのは誠司の方だから)


食事を終え、会計を済ませた後、店員が「この近くに、日没がきれいに見える場所がありますよ」と教えてくれた。紗英はその提案に興味を示し、行きたいと急に言い出した。


誠司は仕方なく車を出して道を尋ね、彼女をその場所に連れて行った。


しかし、山頂に到着した途端、天候が急変し、空は曇り、強風と豪雨に見舞われた。紗英は助手席で震えながら、心の中でもっと服を重ねてくればよかったと後悔した。


そのとき、車が突然停止した。紗英は驚いて振り向くと、誠司は無表情で現状を伝えた。


「車が故障しました」

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