目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
墓標
墓標
NIWA
ホラー都市伝説
2025年05月20日
公開日
8,669字
完結済
パワハラ上司の執拗な叱責に心を病む営業マンの青年。ある夜、彼は無数の電柱に個人の名が刻まれたおかしな場所へと迷い込み、そこで自身の名が記された電柱を発見してしまう。一方、工藤を追い詰めた上司もまた──

第1話

 ◆


 ああ、またか。


 そんな諦めにも似た感情が、腹の底からゆっくりとせり上がってくるのを感じていた。


 フロアに響き渡るのは、長谷川課長の怒声だ。


「おい。貴様、またやったそうだな」


 低く威圧的な声。


 俺は俯いたまま、ただその言葉を受け止めるしかなかった。


 もう半年間ずっとそんな感じだ。


 周囲のデスクからは、同僚たちの同情とも好奇ともつかない視線が突き刺さる。


 それももう慣れた。


 いや、慣れたくなどなかったが、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。


 俺は医療機器メーカーの営業として、この会社に入社して三年目になる。


 最初の頃はそれなりにやりがいも感じていた。


 新しい知識を身につけ、ドクターと信頼関係を築き、それが契約に繋がる。


 その瞬間は何物にも代えがたい達成感があったものだ。


 だがいつからだろうか。


 歯車が狂い始めたのは。


 長谷川がこの営業課の課長として赴任してきてから、職場の空気は一変した。


 長谷川は徹底した成果主義者だった。


 成績の良い者には優しく、そうでない者──特に成績が落ち込んだ者への当たりは異常なほどきつい。


 そして俺はここ最近、その「そうでない者」の筆頭だった。


「言い訳があるなら言ってみろ。ああ?」


 長谷川の声が、一段と低くなる。


 俺はゆっくりと顔を上げた。


 そしてできるだけ申し訳なさそうに説明する。


「申し訳ありません。アポイントの時間に遅れてしまいました」


「理由は?」


「……道を、間違えまして」


 我ながら情けない理由だとは思う。


 何度か訪問したことのある病院だった。


 それなのにどういうわけか、今日は全く見当違いの場所へ入り込んでしまったのだ。


「道を間違えただあ? この、大馬鹿者がっ!」


 再び怒声が飛ぶ。


 俺はただ、黙ってそれを受ける。


 今回の件に関しては全面的に俺が悪い。


 それは認める。


 だがあんな場所が果たして地図に載っていただろうか。


 ふと、迷い込んだ時の光景が脳裏をよぎる。


 やけに電柱の多い薄暗い通りだった。


 それこそ2、3メートル間隔で、びっしりと電柱が林立していたように思う。


「……聞いてんのか、おい!」


 長谷川の怒鳴り声で、俺は我に返った。


「はい、申し訳ありません」


「お前な、ここ最近たるんどるんじゃないのか? 成績もガタ落ちだしミスも多い。それでも営業マンかっ!」


 その言葉は、的を射ていた。


 ここ最近の俺は確かに酷い。


 集中力が散漫で、簡単な確認作業すら怠ってしまうことがある。


 疲れが溜まっているのだろうか。


 それとも、もうこの仕事に対する情熱が失せてしまったのだろうか。


 どうしたものか、と自問しても答えは見つからない。


 長谷川の叱責は、今日も今日とて三十分以上続いた。


 俺はフロアの真ん中で、ただひたすらに立ち尽くす。


 晒し者にされている気分だった。


 いや、実際に晒し者にされているのだ。


 それでも、俺は会社を辞められなかった。


 辞めたところで次がある保証などどこにもない。


 それに、どこかまだ諦めきれない自分がいるのも確かだった。


 いつかまた、あの達成感を味わえる日が来るかもしれない。


 そんな淡い期待が、俺をこの場所に縛り付けていた。


 ◇


 そんな日々が続いていたある日のことだ。


 俺はとある総合病院の外科部長、島田ドクターから呼び出しを受けた。


 島田ドクターは長年うちの製品を愛用してくれている、いわばお得意様の一人だ。


 嫌な予感が胸をよぎる。


 最近、納品した機器の調子が悪いという連絡が何度か入っていた。


 その都度、技術部の者と対応に当たってはいたのだが、根本的な解決には至っていなかったのだ。


 応接室に通され、待つこと数分。


 島田ドクターが、険しい表情で入ってきた。


「……単刀直入に言う。今回の契約だが、見送らせてもらうことにした」


 その言葉は俺の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。


 契約の、打ち切り。


 それは営業マンにとって死刑宣告にも等しい。


「そ、そんな……何か、不手際がございましたでしょうか?」


 声が震えるのを、必死で抑える。


 島田ドクターは、深いため息をついた。


「不手際、というよりは……信頼関係かな。君も知っての通り、例の機器のトラブルが続いている。その対応も、どうも後手後手に回っているように感じるんだ」


「申し訳ありません。早急に、改めて技術部と連携し……」


「いや、もういい」


 島田ドクターは、静かに首を横に振った。


「我々も患者さんの命を預かっている。信頼できないメーカーの製品を使い続けるわけにはいかないんだよ」


 俺は返す言葉も見つからなかった。


 ただ深々と頭を下げることしかできない。


 病院を出た後の足取りは鉛のように重かった。


 会社に戻り、この事を長谷川に報告しなければならない。


 想像するだけで胃がキリキリと痛む。


 だが報告しないわけにはいかない。


 意を決して俺は営業課のフロアへと戻った。


 そして長谷川に事の次第を報告した。


 結果は想像を絶するものだった。


 長谷川は過去最高と言ってもいいほど激怒した。


 顔を真っ赤にし、血管を浮き上がらせ、俺を罵倒する言葉は、もはや怒声というよりも絶叫に近い。


 周囲の同僚たちは恐怖に顔を引きつらせ、遠巻きに見ているだけだった。


 誰も助け舟を出そうとはしない。


 いや、出せるはずもなかった。


 そしてその日の俺への罰は、文字通り朝から晩まで社内で正座させられるというものだった。


 最初はただ足が痺れるだけだった。


 だが、時間が経つにつれて痺れは激痛へと変わる。


 膝が、足首が、まるで焼け火箸を押し付けられているかのように熱く、痛む。


 昼食ももちろん許されない。


 トイレに行くことすら、長谷川の許可が必要だった。


 周囲の同僚たちは俺に同情的な視線を向けながらも、何も言えずに自分の仕事に戻っていく。


 時折心配そうに声をかけてくれる者もいたが、長谷川の鋭い視線に気づくと、慌ててその場を離れるのだった。


 俺はただひたすらに耐えた。


 肉体的な苦痛よりも、精神的な屈辱の方が大きかったかもしれない。


 自分がまるで価値のないゴミのように扱われている。


 そんな感覚がじわじわと心を蝕んでいく。


 夕方になり、他の社員たちが退勤していく中も、俺はまだ正座を続けさせられていた。


 フロアには俺と長谷川の二人だけが残る。


 長谷川はデスクで何やら書類に目を通していたが、時折、俺の方に鋭い視線を向けてくる。


 一体何時までこの状態が続くのだろうか。


 もう足の感覚はほとんどない。


 意識も朦朧としてきた。


 時計の針が午後十時を回った頃だっただろうか。


 ようやく長谷川が重い口を開いた。


「……今日はもう帰れ」


 その言葉はまるで恩赦のように俺の耳に届いた。


 俺はふらつきながら立ち上がろうとした。


 だが長い時間正座していたせいで、足に全く力が入らない。


 何度か試みたが、その度に無様に床に崩れ落ちそうになる。


 長谷川はそんな俺の姿を冷ややかに見下ろしていた。


「さっさと帰れ。明日からは今日の分も取り返すくらい働いてもらうからな」


 その言葉を背に俺は這うようにしてフロアを後にした。


 エレベーターに乗り込み、一階に降りる。


 会社を一歩出ると、ひやりとした夜風が火照った体に心地よかった。


 だが体中の痛みは相変わらずだ。


 特に足は、自分のものとは思えないほど重く、一歩進むごとに激痛が走る。


 頭もぼんやりとしていて、うまく働かない。


 それでも帰らなければならない。


 あの息苦しい場所から、一刻も早く離れたかった。


 とぼとぼと駅へと向かう道を歩く。


 そうして──ふと自分が今立っている場所が、どこか「変な所」だと気付いた。


 いつも通る道のはずなのに、何かが違う。


 周囲を見渡す。


 そこには、電柱、電柱、電柱。


 異様なほど多くの電柱が、道の両脇にびっしりと並んでいた。


 まるで、先日のアポイントに遅刻した時に迷い込んだ、あの道のように。


 いや、それ以上に多いかもしれない。


 何だ、ここは。


 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。


 慌ててスマホを取り出し、現在地を確認しようとした。


 だが、画面には「圏外」の文字が表示されているだけだった。


 何度か試してみたが、結果は同じ。


 電波が全く入らない。


 こんな都心で、電波がないなんてことがあるのだろうか。


 不安がじわじわと胸の奥から広がっていく。


 とりあえず歩いてみるしかない。


 知っている道に出るかもしれない。


 そう思って俺は覚束ない足取りで歩き始めた。


 だがいくら歩いても、見覚えのある景色は現れない。


 電柱と、一軒家、そして時折現れるアパートやマンション。


 それだけが延々と続いているかのようだった。


 奇妙なのはアパートやマンションの壁に貼られているプレートだった。


 通常なら、その建物を管理している不動産管理会社の名称が記載されているはずだ。


 だが、そこに書かれている会社名がどれもこれも見慣れないものばかりなのだ。


 見慣れないというか──おかしい。


 例えば「(株)信州交通中央不動産」。


 また別のマンションには「甲信越都市開発(株)」といった名前が。


「信州……?」


 思わず声が漏れた。


 ここは東京都のはずだ。


 少なくとも会社を出てから、そんなに長野県に近い場所まで移動した覚えはない。


 まあ長野県の不動産会社が、都内に支店を出したり、都内の物件を管理したりすることもあるのかもしれない。


 そう自分に言い聞かせようとしたが、拭いきれない違和感が胸に残る。


 さらに少し歩いてみたが、やはり景色は一向に変わらなかった。


 相変わらず電柱と建物が続くだけだ。


 地図アプリは使えない。


 スマホの電波も死んでいる。


 こうなったら一か八かだ。


 俺は、110番に電話をかけてみた。


 だが呼び出し音が鳴ることもなく、ただ「プー、プー」という無機質な音が返ってくるだけだった。


 119番も同じだった。


 どうなっているんだ。


 焦りが徐々に恐怖へと変わっていく。


 やけくそになってあちこちの角を曲がってみたり、目についた家のインターホンを押してみたりもした。


 だが全く無意味だった。


 曲がっても曲がっても、同じような電柱だらけの道が続くだけ。


 そして不気味なことに、どこの家のインターホンを押しても全く応答がないのだ。


 まるで、ゴーストタウンに迷い込んだかのようだった。


「会社を出たのが、確か22時過ぎ……」


 腕時計に目を落とす。


 アナログの針は、23時15分を指していた。


「今は、もしこの時計があっているんだったら──」


 まだ、そんなに深夜というわけでもない。


 寝ている家庭も多いだろうが、起きている人だっていたっておかしくない時間だ。


 それなのにこの静寂。


 人の気配が全く感じられない。


 何でもいいから情報が欲しかった。


 この場所がどこなのか、どうすれば元の道に戻れるのか。


 ふと目の前の電柱に目が留まった。


 そうだ、電柱だ。


 この異常な数の電柱には、何か手がかりがあるかもしれない。


 俺は一番近くにあった電柱に近づき、隅々まで調べてみた。


 一見すると、何の変哲もないコンクリート製の電柱だ。


 だがすぐに違和感に気づいた。


 電柱には大抵、白い長方形のプレートが取り付けられていて、そこに番号が書かれている。


 これは電柱番号というらしく、その電柱の所有者や管理者を識別するためのものだと、以前何かで読んだ記憶があった。


 通常であればそこに書かれているのは、東京電力だとか、NTTだとか、そういった電力会社や通信会社の名前のはずだ。


 だが目の前の電柱のプレートに書かれていたのは、それらとは全く異なるものだった。


「ヨシダ ケイタロウ」


 カタカナで、そう書かれていた。


 人名……? 


 どういうことだ。


 電柱の所有者が、個人名になっているということか。


 そんな馬鹿な。


 俺は隣の電柱も調べてみた。


 するとそこにもやはり、人名らしきものが書かれていた。


「サエキ ユウキ」


 その次の電柱には、「タナカ マサハル」。


 さらにその次の電柱には、「スズキ アイコ」。


 どれもこれも人名だった。


 しかもどこかで聞いたことがあるような、ありふれた名前ばかりだ。


 背筋を冷たい汗が伝う。


 これは一体どういうことなんだ。


 この場所は、本当に俺の知っている東京なのか。


 それとも、俺は、何かとんでもない場所に迷い込んでしまったのだろうか。


 恐怖と混乱で頭がどうにかなりそうだった。


 それでも俺は足を止めなかった。


 何か、何か手がかりがあるはずだ。


 そう信じて、震える足で一体一体、電柱のプレートを確認していく。


 そして──。


 何本目だっただろうか。


 街灯の薄暗い光の下、ぼんやりと浮かび上がる白いプレート。


 そこに書かれていた文字を読んだ瞬間、俺は息を呑んだ。


 全身の血が、逆流するような感覚。


 心臓が嫌な音を立てて軋む。


 そこに書かれていたのは。


「……俺の、名前?」


 ・

 ・

 ・


 ◆


 長谷川 信二はここ最近、眉間の皺を深めることが多くなっていた。


 あの使えない部下筆頭──工藤 春樹が会社に出てこなくなって、今日でちょうど一週間が経つ。


 最初の数日は仮病かと高を括っていた。


 だが一向に連絡も取れず、さすがに事態は長谷川の想像を超え始めていた。


 工藤が担当していた契約先からは、矢のような催促と苦情の電話が鳴り止まない。


「一体どうなっているんだ、おたくの担当者は!」


「例の機器の件、いつになったら対応してくれるんだね!」


 その度に長谷川自らが頭を下げ、言い訳にもならない言い訳を並べ立てる羽目になる。


 部下の不始末の尻拭いというのはこれほどまでに屈辱的で、そして骨の折れる作業だったか。


 お陰で長谷川のデスクには未処理の書類が山と積み上がり、連日残業続きの多忙な日々を送っていた。


「ちっ、あの馬鹿、どこで何をしてやがるんだ……」


 悪態をつく長谷川。


 元より工藤の仕事ぶりには不満しかなかった。


 要領が悪く、覚えも悪い。


 同じミスを何度も繰り返し、その度に注意してもまるで糠に釘だった。


 何度、フロア中に響き渡る声で叱責したことか。


 それでもあいつはどこ吹く風といった態度で、ただ俯いているだけ。


 あれは、反省の色など微塵も見せていなかったに違いない。


 そう長谷川は結論付けていた。


 だが工藤が残していった厄介事は、仕事の後始末だけでは済まなかったのである。


 ある日、長谷川は上司である部長に呼び出された。


 重苦しい雰囲気の部長室で、告げられたのは衝撃的な事実だった。


「長谷川君。君の部下に対する指導について、コンプライアンス部署に通報があった」


「……は?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


 通報? 


 この俺が? 


「君の特に工藤君に対する言動が、パワーハラスメントに該当するのではないか、という内容だ」


 そんな馬鹿な。


 俺の指導はあくまでも業務上必要な範囲内でのものだ。


 確かに多少、言葉が荒くなることはあったかもしれない。


 だがそれは工藤の出来が悪すぎるからであって、俺に全ての責任があるわけではない。


 そう反論しようとしたが、部長の厳しい視線に言葉を飲み込んだ。


 更に追い打ちをかけるように、部長は続けた。


「加えて君の叱責の様子を撮影した動画が、SNSに投稿されているという情報もある」


 SNSだと? 


 誰がそんな真似を。


 ──あのフロアで俺の叱責を隠し撮りし、それをネットに晒したというのか


 長谷川は怒りが腹の底からこみ上げてくるのを感じた。


 と同時に得体の知れない恐怖もまた、長谷川の心を蝕み始めていた。


 結局その日、長谷川は上層部から自宅謹慎を申し渡された。


 期間は、調査が終了するまで。


 事実上の懲戒処分だった。


 自宅に戻った長谷川は、荒れに荒れた。


 リビングのテーブルを蹴り飛ばし、壁に拳を叩きつける。


 長谷川の妻が怯えたような目で見ていたが、そんなことは気にしていられなかった。


 何故だ。


 何故俺がこんな目に遭わなければならない。


 悪いのは全てあの工藤ではないか。


 あいつがもっとまともに仕事さえしていれば。


 あいつがもっと打たれ強ければ。


 いや、そもそも誰だ、通報なんかしやがった奴は。


 SNSに動画をあげたクソ野郎は、一体どこのどいつだ。


 許せない。


 絶対に許せない。


 最初はそんな怒りだけが長谷川の心を支配していた。


 だが事態は長谷川の想像を遥かに超える速度で、最悪の方向へと転がり落ちていく。


「崎沢チャリソ」と名乗るフォロワー数十万人を抱えるインフルエンサーが、例の動画を取り上げたのだ。


 面白おかしくそして過剰に脚色された編集で、長谷川の叱責シーンは瞬く間に拡散された。


 そうなるともう手のつけようがない。


 文字通りの大炎上だった。


 長谷川の顔写真、名前、勤務先、そして自宅の住所までもが匿名掲示板やSNS上で特定され、晒し上げられた。


 世界中からと言っても過言ではないほどの誹謗中傷が、長谷川に向けて浴びせられる。


「鬼畜上司」「現代の奴隷商人」「こんな奴は社会から抹殺されろ」


 目を覆いたくなるような罵詈雑言が、スマートフォンの画面を埋め尽くす。


 長谷川は慌てて、自身のアカウントを全て削除した。


 だがそんなものは焼け石に水。


 一度ネットの海に流れ出た情報は、決して消えることはないのだ。


 そしてついに恐れていた事態が起こる。


 自宅への、突撃。


 いわゆる「自宅凸」というやつだ。


 面白半分でやってくる野次馬。


 正義感を振りかざし、長谷川を糾弾しようとする者。


 家のチャイムが鳴り、ドアを叩く音が昼夜問わず響き渡る。


 窓の外には常に誰かの視線を感じるようになった。


 もはやまともに外を歩くことすらできない。


 長谷川は完全に憔悴しきっていた。


 食欲もなく、夜もほとんど眠れない。


 鏡に映る自分の顔は、まるで生気を失った亡霊のようだった。


 そして、そんな長谷川に追い打ちをかけるように妻から離婚届を突きつけられた。


「もう、あなたとは一緒にいられない」


 冷たく感情のこもらない声だった。


 長谷川は何も言い返すことができなかった。


 そんな長谷川は現在、妻とは別居している。


 だだっ広いマンションのリビングで、長谷川は一人、酒を呷る日々が続いていた。


 外に出られるのは、深夜の僅かな時間だけ。


 そんなある夜のことだった。


 長谷川は安物の焼酎を片手に、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。


 つけていたのは、深夜にありがちな低予算のホラー番組だ。


『……この世とあの世の境目というのは、実は非常に不安定なものでしてね』


 気味の悪い効果音と共に、霊能者を名乗る男が語り始める。


『ほんのちょっとしたことがきっかけで、我々の住むこの世界ではない、いわゆる「この世ならざる世界」へ、足を踏み入れてしまうことがあるんですよ』


 長谷川は鼻で笑った。


 くだらない。


 そんなものがあるわけがないだろう。


『特に、今わの際にいる時などは注意が必要ですね。例えば、大怪我を負って生死の境を彷徨っている時とか。それから、心が極度に弱っている時なんかも、危ないと言われています』


 心が弱っている時。


 その言葉が、妙に長谷川の胸に引っかかった。


「け、くだらねぇ」


 長谷川は吐き捨てるように呟いた。


 だが、その声は自分でも分かるほど震えていた。


 ふと手元のタバコの箱が空になっていることに気づく。


 舌打ちを一つ。


 こんな時間に買いに行くのも億劫だったが、タバコがないとどうにも落ち着かない。


 重い腰を上げ、長谷川は財布と鍵、それとスマホだけを掴んで玄関のドアを開けた。


 そして。


 深夜のコンビニへ向かういつもの道──のはずだった。


 しばらく歩いていた長谷川は、ふと、自分が今立っている場所がどこかおかしいことに気付いた。


 見慣れた景色ではない。


 周囲を見渡す。


 そこには、電柱、電柱、電柱。


 道の両脇に、まるで墓標のように、無数の電柱が延々と立ち並んでいた。


「はぁ?」


 思わず、間の抜けた声が漏れる。


 何だ、ここは。


 こんな場所、近所にあっただろうか。


 慌ててスマートフォンを取り出したが、画面の左上には無情にも「圏外」の二文字が表示されているだけだった。


 何度かアンテナを探すようにスマホを振ってみたが、状況は変わらない。


 困惑しながら、長谷川はとりあえず歩き始めた。


 どこか見覚えのある通りに出るかもしれない。


 そう思ったからだ。


 だがいくら歩いても、景色は一向に変わらなかった。


 どこまで行っても、電柱、電柱、そして時折現れる一軒家やアパート、マンション。


 それだけがまるで悪夢のように繰り返される。


 訳が分からない。


 焦りがじわじわと長谷川の心を侵食していく。


 110番に電話をかけてみた。


 だが、呼び出し音すら鳴らず、ただ「プー、プー」という電子音が繰り返されるだけ。


 119番も同様だった。


 完全に孤立無援の状態だ。


 そうして一体、どれくらい歩き続けたのだろうか。


 足は棒のように疲れ果て、思考もまとまらない。


 不意に、長谷川の目にある電柱のプレートが飛び込んできた。


「ヤマダ タロウ」


「サトウ ハナコ」


 気味が悪い。


 一体、これは何なのだ。


 そして長谷川は、ある一つのプレートの前で、足を止めた。


 そこに書かれていた名前に、見覚えがあったからだ。


 いや、見覚えがあるどころではない。


「クドウ ハルキ」


 あの、使えない部下の名前。


 何故こんなところに、あいつの名前が。


 理解が追いつかない。


 呆然と見ていると、ぴちゃり、と音がした。


 見れば──


 クドウ ハルキと書かれたプレートの接着面の隙間からツウと伝う赤黒い液体が。


 ──血


 そう思った瞬間、恐怖が全身を駆け巡る。


「う、うわあああああああああっ!」


 長谷川は意味不明の絶叫を上げながら、その場から走り出した。


 どこへ向かうという当てもない。


 ただこの気味の悪い場所から、一刻も早く逃げ出したかった。


 どれくらい走っただろうか。


 息が切れ、足がもつれ、長谷川はその場に崩れ落ちそうになった。


 無意識に、近くにあった電柱に手をつく。


 ぜえぜえと荒い息を繰り返しながら、ふと、その電柱のプレートに目をやった。


 そして長谷川は、そこに書かれた文字を認めた瞬間、全ての思考を停止した。


 プレートにははっきりとしたカタカナで、こう記されていた。


「ハセガワ シンジ」


(了)


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?