目まぐるしい日常の中で、移ろう季節を数える余裕もなかった。
いつからか誕生日なんてものもすっかり意識しなくなって、それから自分の年齢を思い出すのすらやや間を置く必要があるようになってきた。
上京して以来、私はこの日々に慣れていくしかなかった。気がつけばもうこの始末。仕事にもやりがいは無くはないけど、私は一体なんなんだろうっていつも思うようになった。
その疑念は自分でもわからないうちにじわじわと私の中を蝕んでいて、いつの間にか心は病巣になっていた。
じめじめとした蒸し暑い梅雨の日、イライラしてイライラしてたまらなくなった。
べたべたする書類にまとまらない髪の毛。押し付けられる雑務に厄介なクレーマー。
頭が痛くなる。気持ちが悪くなる。目の前が暗くなる。意識が朦朧として、倒れそうになった。
そんな私を見つけてくれたのか周りから同僚たちが集まってきた。それに安心して私はもう力を抜いてしまった。
そこで意識を手放した私には考える余裕もなかったけれど、普通にしてたらそんな私を見つけられるはずもない。その時私は自分で出した覚えもない叫び声を上げていたらしい。
翌朝医務室に呼び出された私は、軽い問診の後心療内科の受診を勧められた。
オフィスに戻ってもどことなくよそよそしく、しかしぎこちなくも優しい周囲に肩を竦めた。
それからしばらくは無理のない程度に仕事を続けた。相変わらず周りが気を遣ってくれているが、そのままではいけないのはわかりきっている。私の分の負担を他の誰かが担っているのだとしたら……。それは限りなく明白でいつまでも甘えていい事実ではなかった。
再びじんわりと心が燻んでいくのを感じた。
いつしか梅雨は明けたが、溶けそうなほどの視線を送る太陽が心底憎かった。
そんなある日のこと、会社内で慰安旅行への参加を促された。
以前の事があったからか、周りの同期達も私の参加を強く勧めてきた。
半分ありがたく、半分は迷惑だった。
どうせ腹の底では私のことを使えないやつだとか弱いやつだとか思っているに違いないのに。
陰鬱とした気持ちは晴れることはない。
この快晴の夏空に漂えばその暗雲は晴れるものだろうか。
そんな一抹の希望を抱いて、結局私は慰安旅行へ参加することにした。
幸いというか、この慰安旅行、ツアー形式ではなくバカンスに近いものだった。
社員全員でまとまってどこかの観光地を回るものではなく、その土地に全員で行って各自自由行動した後、数日後に全員で帰る。
要するに、異郷の地での夏休み。
どこか懐かしく温かみのある触れ込みに惹かれ、私はこの旅行に同行することにしたのだった。
大きな白い雲と鮮やかな青い空。そして水平線を隔てて映えるのは美しく煌めく透明な海。
8月10日。私たちは古めかしくも美しい自然に囲まれた港町を訪れた。
小さいが海水浴場もあるし散歩するのにちょうど良い山もある。
ここに滞在する5日間はそのどこで何をしても良い。
小学生の夏休みでは、ひと月もの間そんな日常が続いていたものだが、忙しない日常を送る今は、そんな1週間にも満たない休暇をも渇望するものだった。
……小学生の、夏休み。
ふと、思い出した。
この水平線に浮かぶ島、山、町の景観にどこか憶えがある。
私はかつて、ここに来たことがある。
今の今まで忘れていたひと夏の思い出が朧気ながらに蘇った。
私がまだ10歳だったあの夏。
親戚の家族たちと合同でこの港町に遊びに来た。
いとこのお姉ちゃんとその弟の男の子、それと私の3人で一日中遊んでいた。
……あれ?なんか、ちょっと記憶が合わない。
もう1人、誰かいたと思う。
髪の長い、無口な女の子。真夏に出歩いている割には、やけに色白で美しい子だった。
どこかの浜辺で遊んでる時に混ざって来て、そして……。
「おーい、霧江さん」
思い出に浸っていた私に呼びかける声がひとつ。
「わっ……篠宮さん……」
「なぁによ。オバケじゃないんだから。ね、そんなところでぼーっとしてないでさ、早く荷物運んじゃお?」
いつの間にか私のすぐ隣に立っていた同僚の篠宮 明穂が口を尖らせながらそう言った。
バスから降りて以降景色を見ながら物思いに耽っていた私は、周囲の人々はもう既に荷物を持って移動してしまったことにすら気づいていなかった。
「あ、ごめん……なさい」
「謝ることないって!さ、行こ!」
そう言って比較的軽装の篠宮さんは私の荷物の一分を持つと私の歩幅に合わせて進み出した。
「ありがとう……ございます……」
「霧江さんさぁ」
私のキャリーをゴロゴロと引きながら篠宮さんは私に話しかける。
「もう予定とか決まってる?」
「あ、いえ……特に」
「じゃあさじゃあさ!」
ぴたりと足を止めると篠宮さんは私にぐいと詰め寄ってきた。
「あたし行きたいとこあるんだよねっ!でもほら、都会と比べて人がいないからってヘンな人がいないとは限らないじゃない?逆に人気のないところばっかりだから助けを呼ぼうにも呼べないし……だから一緒に行ってくれないかなぁ?」
そう言って彼女は上目遣いで私を見つめた。
「あぅ……でも、私じゃ……何もできない」
「そんなことないって!それに霧江さんだって一人でいるより安全だよ!」
どうやらこの強引な勧誘は辞退することができなさそうだ……。
「わ、わかったよ……一緒に行きましょう」
「ほんと?あっりがとぉ~助かる~!」
断ったって押し通すくせに……。思わず悪態をつきそうになったがその先に待つであろうより膨大な憂鬱を想像して辞めた。
「じゃあひとまずは、コテージ行っちゃお!」
のんびりゆったりとした休暇では無くなりそうだが逆に良い刺激になるかもしれない……そう思おう。