「決めた。天野家のあの植物状態の人、私が嫁に行くわ。」
桐谷美月はドアに体を預け、紅い唇をわずかに歪めて冷笑を浮かべた。
桐谷正志は手にしていたタバコを落としそうになり、驚きのあまり、椅子から勢いよく立ち上がった。
彼の顔が一瞬にして明るくなり、
「美月、やっと決心ついたか。よかった!
天野家からも急かされてるし、半月以内に南区に行かなきゃって。
ウェディングドレス、どんなデザインがいい? 父さん、すぐに手配してやる。」
「言いたいの、それだけ?」
美月は冷たく答えた。
「あなたの大切な愛人の娘の代わりに嫁ぐんだから、それなりの報酬がないと割に合わないでしょ?」
リビングの空気が急に冷たくなり、、桐谷正志の顔色が変わった。
「何を言ってるんだ? 琴音はお前の妹だろ?」
「妹?」
美月は軽く笑い、目の奥に氷のような冷たさが宿った。
「あれはただ不倫の産物。私は一生あの子を妹とは認めないわ。」
桐谷正志は怒りを隠しきれず、額に青筋を浮かべたが、なんとか冷静を保とうと必死に息を呑んだ。
「何が欲しい?」
「百億。」美月は口をわずかに開け、冷たく言い放った。
「それと、私が結婚した後、深山一真をそいつの護衛に回して。」
桐谷正志の顔が固まり、しばらく言葉を失った。
「頭おかしくなったのか? 百億だと?俺の運転資金全部なくなるぞ!
それに、一真はお前が一番好きなボディガードだろ? 前はあいつと結婚したいとか言ってたくせに、今回はあいつを連れていかないのか?」
「yes かno、答えだけ教えて。」
美月はもう待てない様子で、背を向けて歩き出した。
「分かった!」 桐谷正志は思わず机を叩いて立ち上がった。
「約束する。お前が南区に嫁ぐその日、百億を渡す。深山一真も琴音のところに回す。」
彼は深く考える暇もなく、ただこの話を早く決めたくて仕方なかった。
天野家の一人息子、天野蓮。完璧な容姿を持ち、かつては天才と呼ばれ、若い世代ではトップに立っていた。そのため、桐谷正志は天野家との婚約を決めていた。
桐谷琴音を天野家に嫁がせるつもりだったが、天野家の息子が事故で植物状態になってしまった。
桐谷正志は桐谷琴音のことが心配になり、その時ようやくもう一人の実の娘、桐谷美月の存在を思い出した……
背を向けて手を軽く振り、ヒールを高く上げると、その音が床に響く。
ドアを開けたその瞬間、また桐谷正志の声が背後から聞こえてきた。
「お前が金を欲しがるのは分かるけど、深山一真が好きだろ? どうして琴音に渡すんだ?」
桐谷美月の指が一瞬ピタリと止まった。
その名前は、心の中に深く刺さった棘のように痛かった。
彼女は力を込めてドアを勢いよく開き、父とその質問を閉じ込めた。
別荘に戻ったとき、すでに深夜だった。
美月は高いヒールで階段を踏みしめながら上がり、深山一真の部屋を通り過ぎると、中から抑えようとした喘ぎ声が聞こえた。
ドアは少しだけ開いていて、美月は少し目を上げると、部屋の中で起こっていることがはっきりと見えた——
深山一真はベッドに半身を寄せ、長い指で一枚の写真を挟んでいた。その写真を見ながら自慰をしていた。
彼は目を閉じ、喉を動かしながら低く、魅力的な声で囁いた。
「琴音…いい子だ…」
指に挟まれていたのは、桐谷琴音の写真だった。
去年の誕生日パーティーで撮った写真で、白いワンピースを着た琴音が無邪気に笑っている。
桐谷美月はバッグを握りしめ、爪を立てて、心の中で桐谷正志の質問に答えた。
「だって、あいつもお前と同じように桐谷琴音だけが好きなんだ。」
その答えが彼女の心の中でぐるぐる回り、胸を締め付ける激痛を引き起こした。
三年前、彼女が初めて深山一真を見たときのことを思い出した。
ボディガードを選ぶ日、数人の男たちの中で、彼女は一瞬で彼を見つけた。
理由は単純だった。
「彼、一番格好いいから。」
188センチの身長、広い肩、引き締まった腰、鋭い顔立ち、特にあの漆黒の目、氷のように冷たかった。
最初はちょっと遊びたかっただけだったけど、三年が過ぎ——
彼女がわざと酔って彼に倒れかかっても、彼は片手で彼女を支えて、まるで猫を抱くようにソファに戻してくれた。
夜中、キャミソール姿で彼の部屋をノックしても、彼はコートを広げて優しく包み、丁寧に部屋まで送り返してくれた。
プールで溺れるフリをしても、彼は飛び込んで助けてくれたけれど、決して彼女の体に触れることはなかった。
美月がどんなにが誘惑しても、彼は決して近づかず、いつも「お嬢様」と礼儀正しく呼ぶだけだった。
それでも美月は恋に落ちた。
理由はよく分からない。
たぶん、が亡くなってから、ずっと一人で孤独だったからだろう。
美月が七歳の時、桐谷正志が不倫をして、愛人の娘を連れて帰ってきた。
桐谷琴音と美月はたった三ヶ月の差しかなかった。
桐谷正志が母と結婚して十年、そのうち九年間も不倫をしていたなんて、彼女には信じられなかった。
その日、幸せだと思っていた家は、完全に崩れ去った。
桐谷美緒は第二子を妊娠しており、出産が間近だった。
桐谷美緒は桐谷正志を必死に問い詰め、泣き崩れ、その夜、流産を引き起こしてしまった。病院に運ばれたが、手遅れで子供ともども亡くなった。
その時から、美月は桐谷正志と桐谷琴音を憎み、家を出る決意をした。
彼女は家を出て、一人で学校に通い、一人で食事をし、一人で成長した。
やがて、あまりにも美しくなりすぎたため、周囲の男性たちがしつこく絡んでくることが増え、ついにボディガードを雇うことを決意した。
深山一真は、彼女の初めてのボディガードだった。
それ以来、彼女は一人ではなくなり、どこへ行くにも深山一真がそばにいた。
最初は彼に憧れ、少しからかうつもりだったが、次第に恋に落ちていった。
しかし、三年が過ぎ、千日を超える時が流れても、彼は一度も彼女に心を動かすような反応を見せることはなかった。
そしてある日。
深山一真が桐谷琴音の写真を持ちながら自慰をしているのを見た瞬間、その思いは完全に崩れ去った。
その後、彼女は無意識に彼の会話を耳にしてしまった——
「一真様、そのボディガードごっこ、いつまで続けるつもりですか?北区の継承者であるあなた様なら、女なんていくらでも手に入るでしょう?桐谷琴音に一目惚れしたなら、さっさと奪ってしまえばいいじゃないですか。それなのに、こんなにも純情で、彼女の姉のボディガードとして仕えて、ただ彼女を見るためだけに?」
「調べたんだ、琴音は私生児で、幼少期は辛い生活を送っていて、安全感が欠けている。急に動くと彼女を怖がらせるから、ゆっくり進めたい。」
「…そこまで気を使うんですか。あの美月さんが毎日ついてるから、てっきり動揺しているのかと思いましたよ。言っておきますけど、美月さん、有名な美女で、彼女を好きな人は星の数ほどいる…」
深山一真は一瞬笑ったように見えたが、その言葉が彼女を氷のように冷たくさせた。
「そう? 興味ない。琴音にとうてい敵うわけがない。」
その一言一言がまるで刃物のように、美月の心に深く突き刺さった!
その瞬間、美月は深山一真のことさえも好きではなくなった。
どれくらい時間が経ったのか分からないが、なぜかその日、深山一真がなかなか部屋を出てこなかった。
彼女は冷たく唇を引き結び、ドアを勢いよく押し開けた——