――深夜の大学。
三号館の女子トイレに、一人の女子学生が入っていく。
照明は蛍光灯特有のチカチカ点滅。まるで、これから起こる出来事を暗示しているかのようだった。
「……え、なにこれ」
用を足して手を洗おうと鏡を見ると、そこには赤い口紅で、こう書かれていた。
『もうすぐ会えるね』
ゾクリと背筋を冷たいものが這う。
ポケットからスマホを取り出して写真を撮ろうとした、その瞬間——。
「……え?」
鏡の中の『自分』が笑った。
実際の自分は無表情のままなのに、鏡の中の自分だけが、ニタリ……と。
驚きで震える指が何度か写真のシャッターボタンをタップし、カシャカシャと連続でシャッター音が鳴った。
「きゃあああああっ!!!」
女子トイレに、凄まじい悲鳴が響き渡った。
*****
「……っていうわけでさ、ほら、この写真見てよ! マジで怖くない!?」
昼間、サークル室で、同級生の
「うわ、うっすら顔写ってない? これ、加工とかじゃないの?」
「本物なんだってば! それに、見たのは私だけじゃないの! ほかにも何人かいるんだから!」
その写真には、確かに鏡に『もうすぐ会えるね』と口紅で書かれている。
そして、その横に……明らかに人の顔らしき
「これ、まさか呪いじゃないよね? 私、もうすぐあの世に連れて行かれちゃうとか、そんなんじゃないよね?」
「んー……どうなんだろう……? これって、いつごろから出るんだっけ?」
「ホラ、数年前の事件から。まあ、深夜まで三号館に残ることなんて、滅多にないから、実際に見た子は少ないんだけど……」
「あー、その話は聞いたことあるわ。それにしても……ちょっと凄いね、コレ!」
「……おい陽菜乃。なあ、俺たち……行かないよな? これは調査案件じゃなくて通報案件だよな?」
だが、陽菜乃はスマホを覗き込みながら、まるで新しいゲームを始めるかのように目を輝かせていた。
「行くしかないでしょ。これはレア度Sクラスの都市伝説案件。最高に面白そうじゃん」
「面白くないからッ! 俺は命が惜しいのッ!」
*****
その夜、懐中電灯とICレコーダーを持って、陽菜乃と泰河は三号館へと足を運んだ。
「まさか本当に来るとは……こんな時間にトイレに入るなんて、正気の沙汰じゃないって……しかも女子トイレ……俺は遠慮しなきゃイカンでしょ?」
「うるさい。早く録音セットして」
「俺がやるんかい!!!」
ぶつくさ言いながらも、泰河は機材を設置する。
トイレは静かすぎるほど静かで、鏡は不気味なほどピカピカに磨かれていた。
「……陽菜乃、なんか寒くないか……? 空調止まってるのに風が……」
「んー? 私にはなにも感じないけど?」
「だからそれが怖いんだよ! おまえ、霊感ゼロなんだろ!?」
「ざーんねーん。霊感はゼロじゃないですぅー。ただ、視えないだけですぅー」
「俺は……視えるんだってば! なあ! 鏡が歪んでんだけど!!!」
そう。
実は二人とも霊感はあるけれど、タイプが違った。
陽菜乃は除霊や浄霊ができるほど霊力があるけれど、霊を視ることができない。
対して泰河は視えるタイプだけれど、除霊や浄霊はできない。
二人で一人前、ということなのか?
「あ……陽菜乃……アレ……」
泰河はガタガタ震えながら鏡を指差す。陽菜乃の視線が泰河の指先に向いた。
鏡が歪み、赤い手形が薄っすらと映っている。
「……あ、書かれた」
陽菜乃がポツリと呟いたと同時に、なにもなかった鏡に、赤い口紅の文字が浮かび上がっていった。
『もうすぐ——』
「うわあああああああああああああ!!」
泰河が悲鳴を上げ、後ろにすっ転ぶ。
「ちょ、ちょっと待って! 俺、今見たぞ!? 今、鏡の中で誰かがこっち見てたからな!!!」
「大丈夫。今のうちに話しかけてみよう。ねえ、なにを——」
その時だった。
鏡の中の陽菜乃が、にやりと口角を上げたのを、泰河は視た。
「ひ、陽菜乃!? お前、今笑った!?」
「え? 笑ってないけど?」
「うわぁああああああ!!! やめて! やめて帰ろ!? これ、もう除霊案件だろ!!?」
「泰河! うるさいったら! 少し黙ってよ!」
「……ほら、今、鏡の中で動いた! 俺たち以外に絶対誰かいるって!」
泰河の声は裏返りまくりだが、陽菜乃は落ち着いて鏡を見つめていた。
「ねえ。さっきの『もうすぐ』って、なにが来るの? 誰かを待ってるの?」
陽菜乃がそう問いかけた瞬間、鏡の表面に水滴のようなものがじわりと滲み出る。
そして、鏡の向こうから、声がした。
『……会いたい……ずっと……』
「ひいいいいぃぃぃぃっ!!! 声!? 今、喋ったよね!? 喋ったよね陽菜乃!?」
「うん、聞こえたね。女の子の声。すごく悲しそうだった」
「いやおまえ、冷静すぎじゃね!? なんで心拍数が常に平常値なんだってばよ!?」
そっと手を伸ばし、鏡に触れた瞬間、陽菜乃の中に映像が流れ込んできた。
——数年前、このトイレで一人の女子学生が自殺していた。
いじめや孤立が原因だった。一人ぼっちで彼女は最後に『誰かに会いたい』と願いながら、鏡を見つめて——。
「……ああ、なるほど。『もうすぐ会えるね』は、誰かを道連れにしたいって意味じゃなかったんだ」
「……え? どゆこと?」
「この霊は、会いたかったの。特定の誰か、じゃなくて、ただ、会話をしてくれる誰か、にね」
鏡に残った想念は、人恋しさと執着で歪み、やがて都市伝説となって語り継がれていった。
しかし——。
「でも、待ち続けてるうちに、形がねじれてしまったんだね。
「ひっ、引き込むぅ!? ヤバいじゃん! マズいじゃん!」
「もう! 泰河、マジでうるさい!」
陽菜乃は心の中で、鏡の向こうの彼女に語りかけた。
――大丈夫だからね。ずっとここにいたら、また、誰からも怖がられて孤立しちゃう。だから、私が上げてあげるからね――
「じゃ、行くよ」
陽菜乃が鏡の前に立ち、懐から取り出したのは、小さな銀色の鈴がついたお守り袋。
陽菜乃の霊力が込められた特製のお守りだ。
「陽菜乃、おまえ……マジでやるのか!? これ、ちゃんと除霊できるやつ!?」
「うん。たぶん。てか、これは除霊じゃなくて、浄霊ね」
「たぶんってなに!? そこ、超大事なところだよね!? なあ陽菜乃、帰ろ!? 一回カフェでも行こうってばよ!?」
「うるさい。黙ってて。今、集中するから」
陽菜乃は鏡に向かって、そっとお守りを押し当てた。
「あなたの気持ちは、ちゃんと伝わったよ。だから、もう行っていいんだよ」
微かな鈴の音とともに、鏡が一瞬だけ淡く光る。
赤い口紅の文字がゆっくりと滲み、消えていく。
そして——鏡の中のもう一人の陽菜乃も、そっと微笑んで、溶けるように消えていった。
鈴の音の小さな音色の向こうで『ありがとう』と聞こえた。
*****
翌朝、二人で改めて確認に行った三号館のトイレには、なんの痕跡もなかった。
口紅の文字も、血のような手形も、そして歪んだ鏡も。
「……なあ。昨日の、夢じゃないよな?」
泰河はコーヒーを飲みながら、ぐったりとした顔で呟く。
「夢じゃないよ。ちゃんと録音もしてるし」
「マジかぁ……マジで、あの鏡の女の子……成仏できたんだよな?」
「うん。最後『ありがとう』って言ってた」
陽菜乃は微笑む。
その笑顔を見て、泰河はふと思う。
「……おまえ、ホントに怖くないのか?」
「怖いよ。だけど、助けてあげられるなら、怖いのも我慢する」
「……女神かおまえは」
「女神にしては口悪いよ?」
「それな」
二人の会話に笑いが混じったその瞬間——。
陽菜乃のスマホに、ピロンと通知音が鳴る。
「……あ、次のネタ来た。赤いリボンの女、知ってる?」
「知らん! 聞きたくもない!!! くッツ……でも行くんだろ、俺も……」
泰河はテーブルに身を突っ伏して、泣きそうな顔を見せた。
-完-