いつ渡そうか──。
結城さん宛の封筒を渡す機会を探しているうちに、気づけばもう2日が過ぎていた。
仕事でペアを組んでいるのだから、ふたりきりになる時間は十分にある。
それでも、業務時間中にプライベートな封筒を渡すのは、きっと彼が一番好まないやり方だ。そんな気がして、タイミングをつかみ損ねていた。
チャンスは、夕方に訪れた。
向かいの席の結城さんが、静かに息を吐いて天井を仰いだ。
それから視線を戻し、コーヒータンブラーに目を落とす。──あれは疲れを自覚して、コーヒーを飲みに立とうかどうか、迷っているときのサインだ。
最初のころ、私は彼をアンドロイドのようだと思った。疲れも迷いも見せず、隙のない仕事ぶりを貫く氷のエリート。
でも、今は少しずつ、その微細なニュアンスがわかるようになってきた。
結城さんの無表情にも、実は違いがある。きっと、白が200色あるように、彼の無表情も400通りくらいあるのだ。……私が読み取れるのは、そのうち8種類くらいだけど。
彼がラウンジに向かったのを確認して、私も席を立った。
封筒をポケットに隠して、誰にも見られないよう足早に後を追う。
ラウンジでは、結城さんがエスプレッソマシンの前で雑誌をめくっていた。
ミルクを泡立てるスチームの音が、柔らかく響く。会議や打ち合わせではブラック派の彼だけど、ふだんは、ふわふわの泡がたっぷり乗ったカプチーノが好きみたいだ。
私はラウンジを見渡した。他には誰もいない、今しかない。
「結城さん」
声をかけると、彼は雑誌から顔を上げ、軽く会釈した。
その雑誌の表紙には、『特集:経営者に求められる品格とは』という文字とともに、東條忠宏の写真が大きく載っている。東條氏は、あたたかな視線でカメラを見つめていた。
私は視線を雑誌から封筒に移し、それから彼の前まで近づいて、両手で封筒を差し出した。
「あの……これを、お渡ししたくて」
視線が、封筒から私へと移る。
あまりに真っ直ぐに見つめられて、思わず目を逸らした。
整いすぎた顔で、そんなふうに見るなんて、ちょっと刺激が強すぎる。
「……恋人がいるのでは?」
思いもよらない一言に、照れていた気持ちが一気に吹き飛んだ。
「ち、違います! この間の、古美多のバイト代です。ラブレターじゃありません!」
あてて声を上げると、彼は一瞬きょとんとした顔になり──みるみるうちに耳まで真っ赤になった。
私から目を逸らし、口元を隠すようにして俯く。その仕草が妙にかわいくて、思わず私も頬が熱くなる。
「いくら私でも、ラブレターを茶封筒で渡したりしませんよ」
少し照れながら、私はそっと彼の手に封筒を渡した。
「本当にありがとうございました。本当は古美多でお渡ししようかと思ったんですが、今週ちょっと用事があって、お休みをいただいてるんです」
彼は静かに頷き、封筒を見つめる。そして、ふいにそれを私に差し戻してきた。
「これ、少しですが──旅費の足しにしてください」
「旅費?」
その言葉に、私は驚いて彼を見つめた。
彼はほんの少しだけ目を細めて、数週間前の私だったら気づかなかったような、かすかな微笑みを浮かべた。
「恋人に会いにいく旅費を、貯めているんでしょう?」
優しい気遣いのはずなのに、その言葉は、思いのほか深く胸に刺さった。
──彼氏なんて、本当はどこにもいないのに。
あれは嘘なんですと言いかけて、言葉を飲み込む。
そんな個人的な事情を語っても、結城さんにとっては迷惑なだけだろう。
「……大丈夫です。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます」
ちょうどそのとき、ラウンジのガラス戸が開いて、美玲が電子レンジ用のポップコーンを片手に入ってきた。
「咲! ……あ、結城さんも。お疲れさまです」
結城さんは軽く会釈しながら「お疲れさまです」とだけ返し、先ほどの雑誌を手にして、ラウンジの隅のテーブル席へと移動した。
美玲はポップコーンを電子レンジにセットし、自販機でコーラを選ぶ。彼女の「ポップコーンには絶対コーラ」のこだわりは相変わらずだ。
「ねえ、今日うち来ない? たまには家飲みしようよ。……それとも、今日も『夜の部』?」
彼女はもちろん、私が夜にバイトしていることは知っている。
でも、結城さんもそのことを知っているとは、思っていない。ましてや、あの人が常連だなんて──きっと想像もしていないだろう。
だから彼にバレないように、わざわざ「夜の部」なんてシークレットコードを使ったのだ。
「行きたいのはやまやまだけど……明日、うちに泊まりに来るから、料理の下準備とかしなきゃいけないの」
「そっか、明日は例のお泊まりの日か! 咲、先月からめっちゃ楽しみにしてたもんね」
私は頷いた。明日のことを思い浮かべるだけで、自然と笑顔になる。
「何食べたい?って聞いたら、ほうとうだって。あの麺って、スーパーに売ってるのかな?」
「甲府まで買い出しに行っちゃえば? 本気を見せるなら、本場で調達しなきゃ」
「そんなことしたら、愛が重すぎるってドン引きされるかも」
そのとき、背後で椅子を引く音がした。振り向くと、結城さんが雑誌をラックに戻している。
「結城さん、私もすぐに戻ります。確認していただきたい資料があって……」
彼は軽く頷いて、私の横を通り過ぎた。
そして小さな声で、私にだけ聞こえるように言った。
「……来てくれるなら、旅費はいりませんね」
驚いて振り返ったけれど、彼の背中はもうガラス戸の向こうに消えていた。
「結城さん、変わったよね」
ポップコーンの袋を取り出しながら、美玲がふと言った。
封を切ると、濃厚なバターの香りがふわっと広がる。差し出された袋に手を伸ばしながら、私は尋ねた。
「変わった?」
「前はさ、冷たくて近寄りがたい氷のナイフみたいな感じだったけど……最近ちょっと柔らかくなってきたっていうか。女子たちが『氷河期が終わった! 我に光を! 春の結城まつり開催だー!』って騒いでたよ」
その言葉に、手が一瞬止まる。
「……そうなんだ」
「え、咲は気づいてなかったの? イケメンよりマッチョ派な私でさえ気づいたのに。あの結城さん、完全にモテ期突入です」
胸の奥に、少しだけ苦いものが広がる。
「咲のこともさ、ちょっと前までは『人身御供』扱いだったのに、最近じゃ『咲さん、いいなぁ』って、結城さん狙いの子たちに羨ましがられてるよ」
「……どうりで、最近誰もお菓子くれないと思った」
そう言って笑ってみせたけど、いつものようには、うまく笑えなかった。