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第7話 旅費の足しに

 いつ渡そうか──。

 結城さん宛の封筒を渡す機会を探しているうちに、気づけばもう2日が過ぎていた。


 仕事でペアを組んでいるのだから、ふたりきりになる時間は十分にある。

 それでも、業務時間中にプライベートな封筒を渡すのは、きっと彼が一番好まないやり方だ。そんな気がして、タイミングをつかみ損ねていた。


 チャンスは、夕方に訪れた。


 向かいの席の結城さんが、静かに息を吐いて天井を仰いだ。

 それから視線を戻し、コーヒータンブラーに目を落とす。──あれは疲れを自覚して、コーヒーを飲みに立とうかどうか、迷っているときのサインだ。


 最初のころ、私は彼をアンドロイドのようだと思った。疲れも迷いも見せず、隙のない仕事ぶりを貫く氷のエリート。


 でも、今は少しずつ、その微細なニュアンスがわかるようになってきた。


 結城さんの無表情にも、実は違いがある。きっと、白が200色あるように、彼の無表情も400通りくらいあるのだ。……私が読み取れるのは、そのうち8種類くらいだけど。


 彼がラウンジに向かったのを確認して、私も席を立った。

 封筒をポケットに隠して、誰にも見られないよう足早に後を追う。


 ラウンジでは、結城さんがエスプレッソマシンの前で雑誌をめくっていた。

 ミルクを泡立てるスチームの音が、柔らかく響く。会議や打ち合わせではブラック派の彼だけど、ふだんは、ふわふわの泡がたっぷり乗ったカプチーノが好きみたいだ。


 私はラウンジを見渡した。他には誰もいない、今しかない。


「結城さん」


 声をかけると、彼は雑誌から顔を上げ、軽く会釈した。

 その雑誌の表紙には、『特集:経営者に求められる品格とは』という文字とともに、東條忠宏の写真が大きく載っている。東條氏は、あたたかな視線でカメラを見つめていた。


 私は視線を雑誌から封筒に移し、それから彼の前まで近づいて、両手で封筒を差し出した。


「あの……これを、お渡ししたくて」


 視線が、封筒から私へと移る。


 あまりに真っ直ぐに見つめられて、思わず目を逸らした。

 整いすぎた顔で、そんなふうに見るなんて、ちょっと刺激が強すぎる。


「……恋人がいるのでは?」


 思いもよらない一言に、照れていた気持ちが一気に吹き飛んだ。


「ち、違います! この間の、古美多のバイト代です。ラブレターじゃありません!」


 あてて声を上げると、彼は一瞬きょとんとした顔になり──みるみるうちに耳まで真っ赤になった。


 私から目を逸らし、口元を隠すようにして俯く。その仕草が妙にかわいくて、思わず私も頬が熱くなる。


「いくら私でも、ラブレターを茶封筒で渡したりしませんよ」


 少し照れながら、私はそっと彼の手に封筒を渡した。


「本当にありがとうございました。本当は古美多でお渡ししようかと思ったんですが、今週ちょっと用事があって、お休みをいただいてるんです」


 彼は静かに頷き、封筒を見つめる。そして、ふいにそれを私に差し戻してきた。


「これ、少しですが──旅費の足しにしてください」


「旅費?」


 その言葉に、私は驚いて彼を見つめた。

 彼はほんの少しだけ目を細めて、数週間前の私だったら気づかなかったような、かすかな微笑みを浮かべた。


「恋人に会いにいく旅費を、貯めているんでしょう?」


 優しい気遣いのはずなのに、その言葉は、思いのほか深く胸に刺さった。


──彼氏なんて、本当はどこにもいないのに。


 あれは嘘なんですと言いかけて、言葉を飲み込む。

 そんな個人的な事情を語っても、結城さんにとっては迷惑なだけだろう。


「……大丈夫です。お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます」


 ちょうどそのとき、ラウンジのガラス戸が開いて、美玲が電子レンジ用のポップコーンを片手に入ってきた。


「咲! ……あ、結城さんも。お疲れさまです」


 結城さんは軽く会釈しながら「お疲れさまです」とだけ返し、先ほどの雑誌を手にして、ラウンジの隅のテーブル席へと移動した。


 美玲はポップコーンを電子レンジにセットし、自販機でコーラを選ぶ。彼女の「ポップコーンには絶対コーラ」のこだわりは相変わらずだ。


「ねえ、今日うち来ない? たまには家飲みしようよ。……それとも、今日も『夜の部』?」


 彼女はもちろん、私が夜にバイトしていることは知っている。

 でも、結城さんもそのことを知っているとは、思っていない。ましてや、あの人が常連だなんて──きっと想像もしていないだろう。

 だから彼にバレないように、わざわざ「夜の部」なんてシークレットコードを使ったのだ。


「行きたいのはやまやまだけど……明日、うちに泊まりに来るから、料理の下準備とかしなきゃいけないの」


「そっか、明日は例のお泊まりの日か! 咲、先月からめっちゃ楽しみにしてたもんね」


 私は頷いた。明日のことを思い浮かべるだけで、自然と笑顔になる。


「何食べたい?って聞いたら、ほうとうだって。あの麺って、スーパーに売ってるのかな?」


「甲府まで買い出しに行っちゃえば? 本気を見せるなら、本場で調達しなきゃ」


「そんなことしたら、愛が重すぎるってドン引きされるかも」


 そのとき、背後で椅子を引く音がした。振り向くと、結城さんが雑誌をラックに戻している。


「結城さん、私もすぐに戻ります。確認していただきたい資料があって……」


 彼は軽く頷いて、私の横を通り過ぎた。

 そして小さな声で、私にだけ聞こえるように言った。


「……来てくれるなら、旅費はいりませんね」


 驚いて振り返ったけれど、彼の背中はもうガラス戸の向こうに消えていた。


「結城さん、変わったよね」


 ポップコーンの袋を取り出しながら、美玲がふと言った。

 封を切ると、濃厚なバターの香りがふわっと広がる。差し出された袋に手を伸ばしながら、私は尋ねた。


「変わった?」


「前はさ、冷たくて近寄りがたい氷のナイフみたいな感じだったけど……最近ちょっと柔らかくなってきたっていうか。女子たちが『氷河期が終わった! 我に光を! 春の結城まつり開催だー!』って騒いでたよ」


 その言葉に、手が一瞬止まる。


「……そうなんだ」


「え、咲は気づいてなかったの? イケメンよりマッチョ派な私でさえ気づいたのに。あの結城さん、完全にモテ期突入です」


 胸の奥に、少しだけ苦いものが広がる。


「咲のこともさ、ちょっと前までは『人身御供』扱いだったのに、最近じゃ『咲さん、いいなぁ』って、結城さん狙いの子たちに羨ましがられてるよ」


「……どうりで、最近誰もお菓子くれないと思った」


 そう言って笑ってみせたけど、いつものようには、うまく笑えなかった。


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