ボタンを押す前は、いつも緊張している。どこかおかしなところはないか、声は大丈夫か、顔は大丈夫か。画面の向こうには、何千人もの人たちがいる。その人たちにはその人たちの生活があって、どこかで息づいているのだと思うと、なんだか不思議だ。
カメラは問題ない。パソコンも照明も、いつも通りだ。配信を始める前は、機材の一つ一つを確認していく。生放送ともなれば念入りに、画面に映り込むもの全てに気を配る。
「ちょ、おいっ!」
「良いだろ。ほら、始まった」
真夏の声に画面を見れば、いきなりのバックハグに、視聴者のコメントが荒ぶって、大量のコメントやらスタンプが流れては消えていく。見なくても、「尊い」とか「イチャイチャありがとうございます」というコメントが流れているのは予想できた。
(ったく……)
大翔は溜め息を呑み込み、カメラに向かって手を振る。
「こんにちはー! ナツハルチャンネル、ハルです! みんな元気ー?」
「ナツでーす」
大翔の手首を掴んで、真夏が手を振る。行動に対して、真夏の声は低く、テンションも低い。そのギャップが良いとか、視聴者に言われているらしい。いつも通りに挨拶を交わし、流れてくるコメントを拾っていく。
「イチャイチャすんな? するなってさ、ナツ」
「やだよ」
「髪サラサラしてる? ありがとー。この前、視聴者さんに教えてもらったシャンプーに変えたら、めっちゃ調子良いんだよね」
「匂い? いい匂いだよ。ハルはいつも」
甘ったるいやり取りと、それを煽る視聴者たち。大翔と真夏が運営する『ナツハルチャンネル』は、いわゆるカップルチャンネルである。それも、男性同士――つまり、BLカテゴリーの。
「――って感じでさ、めっちゃ面白いの。ナツも気に入ってたよな」
そうだろ? と振り返って真夏の顔を見ようとした大翔は、その顔が思ったよりもずっと近くにあって、ビクリと肩を震わせた。
「わっ……」
思わず声を漏らした大翔の頭を掴んで、真夏が引き寄せた。唇の端に、ふに、と真夏の唇が押し当てられる。カメラの角度的に、視聴者の視点からは、キスしたように見えたはずだ――。いや、完全にしていたのだが。
(コイツ……)
半ば呆れて反応の薄い大翔に、真夏は調子に乗って耳許にキスしながら、Tシャツの裾に手を突っ込んできた。
「おっ、ちょっ」
コメント欄が、勢いよく流れていく。『いいね!』のボタンが次々押されて、桁がくるんと回転して数字が増える様が、気持ちいい。チャンネル登録者の数も、一気に増えたのが解った。
『もっとやれ』だとか『ごちそうさま』だとか、『ナツハル最高!』だとか。そんなコメントに埋め尽くされていく。
「もっとやれって?」
「馬鹿ナツっ! やりすぎ!」
さすがにまずいと、真夏の頭を押し返し、真っ赤になってシャツを直す。真夏が不満そうに「ちぇ」と舌打ちした。
「あんまり馬鹿やってると、収益止まるから! チャンネルバンされるしっ!」
コメント欄には、残念がる視聴者と、ハプニングを喜ぶ視聴者の姿が溢れている。どちらにしても、ここに来ている『お客様』は、満足したようだ。
(よし。こんなもんか。そろそろ時間だな)
「じゃあ、そろそろ良い時間なんで、また今度ね~」
「ん。早く終わらせて続きしような、ハル」
「ばっか! そう言うのは言わなくて良いのっ!」
さよならのコメントに混ざって、『続き見たかったw』とか『楽しんでwww』というコメントが入る。それを見て、大翔はホゥと息を吐いて、配信停止ボタンを押した。
「よし、終わりっ」
画面と音声を切って、確実に終了したのを確認する。と、大翔を膝にのせたまま、真夏が立ち上がる。当然、予想していなかった大翔は、そのまま床へと盛大に転がった。
「痛って! お前! 立つなら言えよ!」
「あー、ダル。うがいしてこよ」
「はぁ!? こっちは消毒するし! ってか、勝手にキスすんなって言ってるだろ!」
「視聴者、喜ぶじゃん」
「っ、そ、そうだけどっ……!」
あくびをしながらバスルームに向かう真夏の背を追いかけて、大翔は文句を投げつける。
「いつもやり過ぎなんだよ!」
「あのぐらい、普通だろ? ああ、もしかして、意識しちゃったんだ?」
「は!? 誰がっ!」
ニヤニヤ笑う真夏に、真っ赤になって否定する。馬鹿にしたような真夏の態度が気に入らない。
「ま、お前、経験なさそうだし」
「う、うるせえっ! 経験くらい、あるしっ!」
「へー?」
カップに水を注いで、本当にうがいを始める真夏に、大翔はムッとして唇を結んだ。
「ふん。うがいなんかして、お前の方が意識してんじゃん?」
「は?」
水滴を垂らして、真夏が低い声でそう言いながら振り返る。濡れた唇がどこか色気があって、大翔はドキリと心臓が跳ねるのを感じた。
(っ……)
真夏が大翔の胸を、グーで小突く。
「誰が」
「何だよ」
ムッと顔をしかめたまま、互いに睨み合う。
いつもイチャイチャしてばかりで、視聴者置いてけぼりの熱々カップル配信をしている、『ナツハルチャンネル』のハルこと、
その実態は、顔を合わせればにらみ合い、口を開けば罵り合うといった有り様だ。
額がくっつくほどににらみ合いながら、同時に言い放つ。
「「言っておくけど、お前とはビジネスだからなっ!」」