社会人になって、もうすぐ一年。
慣れない事務仕事にくたびれながらも、
毎朝ちゃんと起きて、駅まで歩いて、遅刻せずに会社に行く――
それだけでも「昔の自分からは想像できない」と、少しだけ誇らしく思える。
病院にはもう通っていない。
薬も、とっくに卒業した。
たまに不安が顔を出す日もあるけど、それでもちゃんと生活できてる。
そして、今日――
わたしは、自分の意思で、あの人に会いに行く。
待ち合わせのカフェに、彼は先に来ていた。
紺色のジャケットに、落ち着いた目元。
それでも笑ったときに見せる、あのやさしい光は変わらない。
「久しぶり、ひよりちゃん」
「……うん。ひさしぶり」
名前を呼ばれるのは、まだ少し照れる。
でも、昔のように胸がぎゅうっと痛むことはない。
それよりも今は――この時間を大切にしたいと思える。
先輩――結城さんは、今、大学を卒業して新卒で働いている。
すれ違いの時期を越えて、何度か連絡をとるようになって、
「また会いたい」とわたしから言った。
それは昔のわたしじゃ、絶対にできなかったこと。
でも今は、ちゃんと伝えたい。
「……あのとき、ありがとう」
「うん」
「今でも、思い出すよ。あの教室のこと。先輩が止めてくれてなかったら、きっとわたし……」
「もう、いいんだよ。それはもう過去だ」
その言葉が、どれだけ救いだったか。
わたしは、そっと彼のカップに手を重ねた。
驚いた顔をしながらも、彼は手を引かなかった。
「今度は、ちゃんと……好きになっても、いい?」
「……俺も、それを言おうとしてた」
ふたりで、静かに笑い合った。
電車を待ちながら、わたしたちは隣に立つ。
並んだ影が、夕陽に長く伸びていた。
昔のわたしなら、手をつなぐことすら怖かった。
でも今は――自然に、彼の指を探せる。
小さなぬくもりが、指先に返ってきた。
その手を握りながら、思った。
これは、あの頃の“狂気”じゃない。
“依存”でもない。
ただ、静かに想い合って、
ちゃんと歩幅を合わせていける、本当の恋。
そしてわたしたちは、同じ電車に乗り込んだ。
「愛してる、なんて言葉はまだ言えないけど――これはきっと、ちゃんと始まった恋だ。」