今までも「あの男の子、カッコいい」とか「優しくていいな」って思うことはあったけれど、胸の奥が締め付けられて、頭の中が真っ白になるような感覚は初めての体験だった。
先輩に見つめられるだけで、先輩と同じ空間にいるだけで苦しくなる。
「……なぁ、菜子。お前さ、本当はサボりじゃなかったんだろ?」
隣に座った私の顔を先輩はマジマジと見つめて、先程までとは正反対の言葉を告げてきた。
あんなに「悪い子だな」と
「だって馬鹿正直過ぎるだろ? さすがの俺でも気付くわ、そりゃー」
「それじゃ、何であんなことを言ったんですか! 先輩が引き留めなければ、私はサボらずに教室に戻ってたのに……」
威勢があったのは最初だけ。先輩に見つめられて、だんだんと小さくなっていく自分の声。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
そう身を縮めていると、顎に親指を当てた先輩が「あー……」と考えに更けこんだ。
「そりゃー、さ。俺は菜子と違って悪い奴だから。だから菜子を悪い世界に引き摺り込みたかったんだよ」
ニヤっと意地悪な笑みを浮かべて、ズルい。
その顔ですら可愛いと思えてしまう自分は、どこか狂ってしまったのかもしれない。
「でもさー、誘った俺が言うのも何だけど、軽々しく付いて行ったらダメだぞ? 世の中は俺よりも悪い奴がウヨウヨしてんだからな?」
それを先輩が言うの——と、見つめていると、先輩は余裕そうな顔で口角を上げて見せた。
「菜子って、可愛い顔してんのな? 顔が真っ赤っか。ほら、鎖骨のところまで真っ赤にして、可愛いな」
耳の掛けていた髪を指で拾って、私の
今までの人生観が覆されるような行為が繰り広げられている。こんなにも情熱的な視線を向けられたことはないし、性的な好意を向けられるのも全部初めてだ。
耳たぶの辺りを、先輩の指の腹がフニフニと感触を堪能していた。それと同時に、中指が耳の凹凸を
恥ずかしいし、くすぐったい。やめて欲しいのに、やめて欲しくないような、チグハグな感情がグルグルと駆け巡る。
「可愛い、食べてしまいたいくらい気持ちいいね。菜子の耳たぶ」
「お、美味しくないです……それに汚いです」
「えー、美味しそうだよ。食べていい?」
どうしてこの人は初対面の人にこんなことが言えるのと、困り果てて泣きたい気持ちが溢れ出した。
だが、それよりも優越感が勝り始めた。
欲しいと羨望していた関根先輩に向けられていた熱を帯びた視線が、今は私に向けられている。
私だけが先輩の瞳に映っているのだ。
「菜子はさ、彼氏とかいるの?」
「え?」
「彼氏。いるのかなーって思ってさ。これだけ可愛かったらいるよなー普通」
中学生って、彼氏がいるのが普通なの?
確かに小学生の頃は「◯◯ちゃんと◯◯くんが手を繋いで帰ってたよ」とか「一緒に遊んでいるの見た」とか噂を耳にしたことはあったけれど、少なくても私の回りは……色恋ごとよりも漫画とかテレビの話題とか、そんな情報が溢れていた。
だけどそれは私が疎かっただけで、もしかして回りの子達は影でこっそり付き合っていたのかな?
「私に彼氏はいないです……」
「へぇー、そうなんだ。もったいないね」
「でも」
「ん?」
でも——先輩はいますよね?
そう告げようとした時、先輩の手が私の前髪を掻き上げて、コツンと額を当ててきた。
鼻頭がぶつかって、吐息が肌を掠める。
「せ、先輩?」
「目ェ、閉じないんだ?」
震える唇を噛み締めて、ギュッと固く目を閉じた。私の
息を止めて待っていたのだが、一向に変化しない唇の感触に、私はゆっくりと目を開けた。
すると、先輩は口を塞いで、必死に笑いを堪えて苦しそうに震えていた。
「せ、先輩! もしかして冗談を?」
「アハハハハ! ゴメン、ゴメン! いやいやいやー、あまりにも菜子が可愛すぎて、つい
人の気も知らないで酷い人だ。そう思っていると今度は私の頬に手を添えて、人差し指で唇を撫でてきた。
先輩のカサカサと荒れた肌の感触が、唇の先っぽに残る。
「本当に可愛いな。あー、可愛い。思わず抱き締めたくなるくらい、可愛い」
遠慮もなく可愛いって称賛の声を連発するから、私は勘違いしそうになる。
私、もうダメだ。
後戻りできないくらい先輩に夢中になっている。
好きを自覚してから間もないのに、ズブズブと沼にハマっていくような、不安定な状態がずっと続いている。
「なぁ、菜子。連絡先を交換しねぇ? またサボりたいと思った時は俺に連絡してよ。サボりの先輩として俺が指南してやるからさ」
「さ、サボりの先輩って何ですか? ふふっ、先輩って本当に悪い先輩ですよね。でも、私……遠慮しておきます。多分、私……つまらないから、すぐに先輩に飽きられると思う」
つまらない人間とバレてしまう前に消えてしまいたい。
本心はもっと知りたい、近づきたい。
だけど幻滅されたくない、可愛いと思われたまま終わりたいと思う自分もいて、心の中は荒れに荒れ果てていた。
すると笑っていた先輩がスッと真顔に戻して、軽く睨みを利かせていた。
「つまんねぇとか、何でそんなことを言うん? それを決めるのは俺。俺は菜子と繋がりたい、それだけ」
主語のない言葉に振り回される。
この人は今まで、どれだけの女性を魅了してきたのだろう?
結局、有無言わさぬ先輩の態度に負けて、私達は連絡先を交換しあって、繋がってしまった。
この時の私は気付いていなかった。
これが甘い地獄の始まりだと——……。
甘美な香りにばかり惑わされて、本質を捉えることができずにいた。