その少女はヒトミと呼ばれていた。
ヒトミと呼ばれる少女は、代々村長を務める富豪の家で、下女のようなことをしていた。
ただ雇われた使用人ではないらしく、他の使用人とは寝起きする場所も食事をする場所も別だった。
家の雑用をしていない時、彼女は座敷牢に押し込められていた。
古くからの使用人たちは、時折彼女に憐れみの目を注いだ。
そして新しい使用人たちは、彼女へ奇異の視線を向ける。
しかし誰も、必要以上に少女へ話しかけなかった。雇い主一家に禁じられているためだ。
独りで黙々と長い廊下の拭き掃除をする少女の許へ、ある日身なりのいい壮年の男が近づいた。
この家の主であり、村の長を務める男だ。
村長は少女の前に立つと、彼女の方を見ないまま話し始める。
「今朝方、崖上の祠が崩壊しているのを確認した」
その声に、少女は顔を持ち上げた。自分の眼の前に立つ男を、黙ってぼんやりと見上げる。しかし男は視線を前方に向け、少女を一瞥もしない。そのまま淡々と言葉を続けた。
「お前の役目を果たせ、
少女は俯いた。生気のない薄ぼやけた表情のまま、か細い声で
「分かりました」
それだけ答える。
人身御供と呼ばれる少女の父は、村長だった。
しかし母は、彼の妻ではない。
少女と同じように、この家で働く下女の一人だった――と言われている。母は少女を生んですぐ、この家から逃げ出していた。そのため母の顔も名前も、少女は知らずに育った。
男が下女に少女を産ませたのは、火遊びの末の過ちでも、はたまた許されぬ恋が理由でもなかった。
少女の呼び名の通り、祠に捧げる生贄として作らせ、産ませたのだ。
代々村長を務めるこの家は、かつてこの土地一帯を治めていた古い神との間で、とある約定を取り交わしていた。
村を統治する力を与える代償に、家人の命を提供するというものだ。
そのため定期的に、一族の誰かを神が封じられた祠へ捧げなければいけないのだ。
果たして自分の先祖は、何を思ってそんな人でなしの所業に手を染めたのだろう――少女は時折、そんなことを考えることもあった。ただ、思考はすぐにぼやけてしまうが。
どうせ自分は、捧げられるために作られた命である。考えたところで無駄だ。
祠に住まう神が生贄を要求する時、その合図として祠が崩壊すると言われている。
崩壊を確認した村長は、すぐさま少女を風呂に入れた。垢にまみれた不潔な生贄を捧げ、神の不興を買っては事だからだ。
記憶にある限り、初めて温かな湯に浸かって体を洗った少女は、生贄のための真っ白な着物を着せられた。
古着でない服も、初めて身につける。恐怖心がすっかり麻痺している少女は、生贄に選ばれてみるものだ、と開き直ってぼんやりと感心した。
そうして村長一家に引っ立てられ、屋敷の真後ろにそびえ立つ山を登らされる。やせ細った体でよたよたと急勾配の道を歩く少女を、後ろから村長の正妻やその娘たちが嘲笑った。
「あの愚鈍な
「どんな命にも価値があるのね。なんて素晴らしいんでしょう」
「ねえヒトミ。毎年この日だけは、あんたのことをちょっぴり思い出してあげるわね」
彼女たちの言葉も、悲しみや怒りすら擦り切れた少女の心には何も響かなかった。ただの物音でしかない。
やがて一行は、神を封じた祠の前に到着した。崖の上には青々とした木々や草花が生い茂っているにもかかわらず、祠だけは腐臭を漂わせて真っ黒に朽ちている。
「……気色の悪い」
村長は侮蔑の
次いで村長は、大仰に両手を広げて叫んだ。
「古き神よ! 約定に従い、一族の娘を連れてきた! さあ、これの血肉を喰らうがいい!」
言い終わるや否や、祠から生ぬるい風が吹いた。地面に倒れたままの少女は、反射的に目を閉じる。
風が止んだのを知覚してもう一度目を開けると、すぐ近くにツヤツヤと金色の宝石が二つ浮かんでいた。
なんだろう、と少女は首をかしげた時に宝石の正体に気付く。それは目だった。
少女の眼前に、血のような赤い毛をまとった大きな狼がいたのだ。金色の宝石は、狼の瞳だった。
少し離れた場所から「本当にいたのか……」と喘ぐ村長の声が聞こえた。どうやらこの赤狼が、祠に住まう神であるらしい。
つまり少女は、この綺麗な狼に食べられてしまうようだ。下手に抵抗すればかえって苦しむかもしれない、と少女は地面に倒れたまま殺されるのを静かに待った。
しかし赤狼は、少女に鼻を近づけてスンスンと匂いを嗅ぐと、たちまち低く唸った。まだ臭かったのだろうか、と少女は倒れたまま再度首をひねる。
だが赤狼の不満の矛先は、少女でなく彼女の後ろへと向かった。
「おい、
低い男性の声で、赤狼が村長へ呼びかける。村長は答える代わりに、ヒィッと情けない声を上げた。
それを返事と判断したのか、あるいは彼の反応など気にしていないのか。赤狼はグルグルと不快げに喉を唸らせて、言葉を続ける。
「この娘は、貴様の血族ではない。よもや貴様、私を
「えっ……いや、そんな……そんなはずは! これは確かに、わたくしどもの一族の娘でして……」
裏返った声で弁明しながら、村長はみるみる顔を青ざめさせる。そして何か思い当たることがあったのだろう。ハッと目を見開いて、震える手で口を覆った。
「まさかあの女……騙したのか? 俺の子ではなかった……?」
呟き、村長は憎悪に満ちた目を少女に向ける。
「どういうことだ、お前! お前の父親は誰だ!」
そんなことを言われても、少女には何も分からない。だって母の顔すら知らないのだ。先ほどと同じように、無表情に首をひねるしか出来なかった。
このままでは埒が明かない、と村長は少女に掴みかかろうと手を伸ばす。
しかしそれを、赤狼が阻んだ。
「貴様らに、約定を守る意志がないことはようく分かった」
狼なので表情は変わらないが、声には愉悦めいた色があった。ごくり、と村長がつばを飲み込む。
「い、いえ、違います! これは不測の――」
「言い訳は要らぬ。そもそも、元より私にとっては何の実りもない約定だったのだ。約定を
「代償……ですか? あの、それは、
「金品ではない。貴様ら一族の終わりだ」
言うや否や、赤狼は村長の頭に食らいつき、そのまま噛みちぎった。残った体から吹き出る血に、数拍遅れて正妻が悲鳴を上げた。
だがその声が耳障りとばかりに、正妻は赤狼の太い前脚によって空中へ弾き飛ばされた。鋭い爪によって抉れた胸から血を撒き散らし、正妻の体は崖下へと転落する。
腰を抜かした娘二人は、父と同じように頭を食われて絶命した。
少女は自分を虐げた人々があっけなく死ぬ様子を、上半身だけを起こしてじいっと眺めていた。
しかし頭の中にあるのは、彼らのことではなく
「わたし、あの人たちと血がつながっていなかったんだ」
この事実だけだった。口にすれば、胸の奥にじわじわと熱いものが湧き上がってくる。
自分の父は誰なのか、そして母と父は今どこにいるのか――そんなことは分からない。
だが母が、自分を産んだ理由だけは分かる。
「仕返し、したかったんだよね、母さん」
人身御供を作るためだけに犯され、閉じ込められたことがよほど憎かったのだろう。
母の気持ちに思いを馳せると、少女は自然と笑みを浮かべた。
「ふふっ、ざまあみろ」
首のない無様な死体へ、歌うように言い放った。
彼女の声に、赤狼が振り返る。
「なんだ、貴様は怯えていないのか」
「わたし、ずっとこき使われていたから。この人たちのこと、ちっとも好きじゃないの」
「そうか。奇遇だな、私もだよ」
神と気が合うなんて、なんだかご利益がありそうだ。少女はもう一度笑う。そして尋ねた。
「あなたは、わたしのことは食べないの?」
「私が憎んでいたのは、この一族だけだ。一滴も血の繋がっていない貴様には、憎悪を抱きようもない」
「そうなんだ。ありがとう。ねえ――あなた、お名前は?」
彼女のこの問いに、赤狼がしばしうなだれる。
「忘れた。長い間、ずっとここに封じられていたのでな。その間、誰にも名を呼ばれることもなかったのだ」
「そう、奇遇だね。わたしも名前がないんだ」
首をもたげた赤狼が、金色の目をパチクリと開閉させた。どこかキョトンとした様子に、少女は声を上げて笑った。
その後、この村は緩やかに終焉を迎えた。
強権を振るっていた村長一族がたった一日で死に絶えてしまったため、彼らが無理矢理従えていた古い神の報復を恐れた村民も、次々と村を去ったのだ。
そして村長の家で使用人を勤めていた一人の男性が、屋敷から逃げる時にふと崖上を仰ぎ見ると。悠然と立ってこちらを
神々しい狼の傍らには、どこか見覚えのある少女も立っていた。
ただ少女は、記憶にあるよりも綺麗で晴れやかな笑顔をしていたため、本当に彼女と同一人物なのかは分からない。
しかし村長一家の報復が恐ろしく、彼女へ何もしてやれなかったことを常々悔いていた男性は、こう思うようにした。
「きっと可哀想なあの娘を憐れんで、神様がお傍に置いてくれているのだろう」
そうであればいい、と願いながら男性は村を出て行った。
少女と赤狼のその後は、誰も知らない。