如月美也子がエイズで命を落としたその日、葛城圭介は結婚式を挙げていた。
彼女は布団の中でスマホを手に取り、何気なくアプリを開く。
すると、ライブ配信の目立つタイトルが目に飛び込んできた。
【葛城ループ社長・葛城圭介、妻・七海恵理と交際15年、ついに結婚!】
美也子は治安悪い町の古びたアパートでひとり横になって、まるで下水道に棲むネズミのように、絶望に囲んでいた。
この部屋は彼女が自分で借りた家だ。広さはたったの12畳。壁にはカビが生え、微かにカビ臭がにおう。
彼女はHIVに感染した。
そんな彼女を雇ってくれる会社はどこにもなかった。
仕方なく、道端で拾ったペットボトルや段ボールを売って、なんとか生活を繋いでいた。もう人生に期待などしていない。
それでも、彼女は最後の勇気を振り絞って、スマホを手に取り、圭介に電話をかけた。
「…もしもし?」
だが、電話に出たのは圭介ではなかった。
電話の向こうは七海恵理だった。
美也子は声を震わせながら言った。
「私です。如月美也子…圭介はいるかな?お金を少し貸してほしくて…」
HIVに感染して以来、彼女の免疫力は急激に下がった。さまざまな病気を併発し、治療するお金もなく、毎日が地獄のような痛みに耐えていた。
まだ三十一歳のはずなのに、見た目は五十代にしか見えなかった。
彼女の名を聞いた瞬間、恵理の声色が険しくなる。
「またお金?もうどれだけ借りてるの?まだ足りないの?」
「病気で…病院に行きたくて…」
「遊びまわってHIVになったんでしょう?私たちと関わらないでちょうだい。圭介があんたに何か借りでもあるっていうの?」
「違う! 私遊びまわっていなかった…」
美也子は必死に頼んだ。
「お願い、恵理さん…もうわかってる。圭介が好きなのはあなた…もう彼に迷惑はかけないから、お願い、ほんの少しだけでいいです。もう生きていけれないの…」
自分が間違っていたと、彼女は痛いほどわかっていた。圭介に尽くしたから、父から受け継いだ会社まで彼に譲ってしまった。
それが彼女の人生を狂わせたのだ。
恵理は嘲るように笑った。
「ここ何年間、圭介があなたに渡したお金だって少なくないわよね。自分で稼ぐ力もないくせに、圭介が一生あなたを養えって言うの?」
美也子は声を震わせながら答えた。
「彼がくれたのは毎回ほんの数万円だけ…全部合わせても、昔わたしが彼に渡してた毎月の生活費に及ばない。圭介の会社は、もともと私のものなの。彼が私と出会った頃は、何も持ってなかった。彼のお父さんはうちの運転手だったし、圭介は私が面倒を見てきたの。」
「俺を養ってたって?」
その瞬間、電話の向こうは恵理から圭介に変わった。
「如月お嬢様、あんたの父親が死んで何年経つと思ってる?まだ夢見てるのか?」
「お前は何の取り柄もない。学生時代から落ちこぼれで、あれらは全部、お前の家からもらってた講師料ってだけの話だ。」
「まあ、頭の悪いお前じゃ、何を教えても無駄だったけどな。いつからお前に養われたことになったんだ?」
冷酷で容赦のない言葉に、美也子はあの頃の自分の愚かさを思い知らされた。
圭介の成績は確かに良かった。
彼が貧しかったのを見かねて、美也子はT大やK大から家庭教師を雇おうとする父の提案を断り、どうしても圭介に教えてほしいと頼み込んだ。
毎月支払う費用は、有名な講師を何人とも雇うほど高かった。
なのに、圭介は心の底で彼女を見下していた。
「お前のようなバカじゃ。何度教えても覚えない」
いつもそうやって、彼女を傷つけていた。
「じゃあ…うちの会社は?あの時、あなたは言った。会社を譲れば、結婚してくれるって…でも今あなたは他の人と結婚してる。私は…ただ、少しお金が欲しいだけなの…」
彼との結婚なんて、もうとっくに望んでいない。
今はただ、生き延びたいだけ…
「まだ会社の話を持ち出すのか?」
圭介は呆れたように吐き捨てる。
「俺がいなきゃ、如月グループがお前みたいな無能が継いだところで、すぐ潰れてたに決まってる。それに結婚の話だってな――お前がHIVに感染してなければ、俺が結婚しなかったと思うか?」
HIV――それは彼女にとっての致命的な傷。
圭介はそれを、まるで武器のように使って、何度も彼女を攻撃してきた。
どうして、彼女の人生はこんな風になったのだろう?
もし、あのとき会社を彼に渡していなければ。たとえ売り払ったとしても、無駄遣いせずに暮らしていれば、今ごろは生活費に困ることもなかっただろう。
だがもう、やり直すことはできない。
美也子は、もはや息も絶え絶えの状態でベッドに横たわっていた。
彼女はかすれる声で、最後の望みを込めて尋ねた。
「圭介…一つだけ、聞かせて。あなた、私のこと…好きになったことあるの?」
「好き?」
圭介の声は冷たく、容赦なかった。彼女の淡い期待を、粉々に打ち砕く。
「お前みたいなバカな女を誰が好きになるんだ?そんな質問、俺への侮辱だよ。
お前に絡まれたこの数年、まるで悪夢だった!」
それでも、美也子は諦めきれず、懇願した。
「もう…長くないの。お願い、最期に一目だけでも、会いに来てくれない…?」
「絶対に無理だ。お前みたいな汚い女の死体なんて、俺が始末する価値すらない。」
その言葉を最後に、通話は一方的に切られた。
美也子の意識は、次第に遠のいていった。
どれほどの時間が過ぎたのか、また電話が来た。
画面には「七海恵理」の名が表示されていた。
「…まだ、生きてる?」
その声を聞いた瞬間、泣き腫らした美也子の目に、かすかに希望の光が差し込んだ。
もしかして、圭介が過去の事を免じて…お金をくれるのかも?
「これ…圭介が電話させたの?」
「まさか。違うわよ」
恵理の声には、優越感がにじんでいた。今や彼女は、葛城グループの副社長なのだ。
「私が自分でかけたの。だって、見てられないんだもの。あまりにもバカすぎて、ね。
美也子、どうしてまだ圭介に期待を持ってるの? 彼、あなたのことなんて好きじゃないのよ?それぐらいも気づいてないの?」
「…わかってる」
美也子は静かに答えた。
「彼の目に映ってるのは、あなただけ…」
恵理は小馬鹿にしたように笑った。
「じゃあさ、美也子…あなた、自分がなんでHIVになったか、考えたことある?」
「な、何言って…」
まさか、と思ったその瞬間――
「圭介があなたと結婚したくなかったから、あんたにHIV感染者が使った注射針を使わせたのよ。そうでもしないと、あんたを正々堂々と捨てる理由がないでしょ?残念だったね。でもさ、まさかここまでバカとは思わなかったわ」
その瞬間、ボロボロのスマホが彼女の手から滑り落ち、湿った床に鈍く音を立てた。恵理との通話も、そこで切れていた。
美也子はベッドに横たわりながら、これまでのことを静かに思い返す。
彼女は圭介のために、すべてを捧げた。
なのに、最後の最後まで、彼から酷い扱いしか受けなかった。
美也子の最後の記憶は病院に留まっていた。
彼女を病院に運んだのは、軍服を着た一人の男性だった。
病気になってからというもの、他人からの善意を感じることはほとんどなかった美也子は、弱々しく問いかけた。
「あなたは誰?どうして私を助けてくれたの?」
もし彼が来なかったら、あの部屋でひっそりと命を落としていたかもしれない、誰にも気づかれずに。
男はまっすぐに彼女を見つめ、誠実な声で言った。
「うちの指揮官に頼まれて来ました。彼は今、あなたのもとへ向かっています…」
九条の苗字を聞いた瞬間、美也子の脳裏に、かつて神前県から自分を連れて行こうとしたあの人の顔がよみがえった。
本来なら、お父さんが彼女の婚約者として選んだ相手だった。
けれど、あの頃の美也子は、圭介しか見えていなかった。彼の申し出を拒み、そして心ない言葉を浴びせた。
今になって、彼の名前を再び耳にして初めて、自分がどれほど愚かだったかを覚えた。
「…彼、今はどうしてるの?」
男は淡々と答えた。
「部隊で多忙のため、今になっても結婚していません。ずっと、あなたのことを婚約者」だと話していました…」
美也子は結局、圭介の結婚式を挙げる日まで生きれなかった。彼女の記憶は、時計の針が深夜0時を打つ、その直前で止まっていた。
次に目を開けたとき、美也子は高校三年生の時の教室にいた。
彼女は机に突っ伏して、うとうとしている。
そんな中、圭介の声で叩き起こされた。
「恵理、生理が始まったらしい。腹痛がひどいから、薬を買ってこい。ついでに昼飯、肉多めでな。恵理は痩せすぎてるから、栄養つけさせないと」