如月美也子はカビ臭い団地の一室で静かに息を引き取った。その日は、葛城圭介が恵理と結婚する日だった。
無意識のままスマートフォンを滑らせていた美也子の目に、あるライブ配信のタイトルが飛び込んできた。
「葛城ループ社長・葛城圭介、妻・七海恵理と交際15年、ついに結婚!」
画面越しの賑やかさと、東京の片隅にある20平米にも満たないこの部屋の静けさ。壁にはカビが広がり、空気は重苦しい。
かつて如月家の娘だった美也子も、今や誰にも雇われることのない免疫疾患の患者となっていた。病に蝕まれ、三十を少し過ぎただけなのに、すでにやつれ果てていた。生活は不用品回収でなんとか繋いでいる。
生への執着だけが、彼女を動かした。震える手であの番号を押す。
「もしもし?」
電話に出たのは恵理だった。
美也子はかすれた声で言う。
「恵理……私よ……圭介に代わってくれない?……少しだけ、お金を……」
呼吸するたびに胸が痛む。
「またお金?」
恵理の声は冷たかった。
「何度渡したと思ってるの?自分で撒いた種でしょ?圭介があなたに何か借りがあるとでも?」
「違うの!」
美也子は必死に訴える。
「恵理、お願い……圭介があなたを愛しているのは分かってる、もう何も望まない。ただ、生きるために少しだけ……本当に、もう限界なの……」
悔しさで胸が締めつけられた。あのとき圭介に結婚を迫るために、父の会社を譲ったことがなければ、こんなことにはならなかっただろう。
恵理が鼻で笑う。
「ここ何年間、圭介がどれだけ金を出したと思う?自分で何もできないくせに、一生人に頼る気?」
美也子は胸が裂けそうだった。
「毎回せいぜい数万円で、全部合わせても昔私が圭介にあげてたお小遣いにもならない!葛城グループの元は如月グループ!圭介が私と出会った時は、ただの貧乏な学生だったのよ!私が……」
「お前が養ってもらったって?」
今度、電話の向こうは恵理から圭介に変わった。
「如月のお嬢様、まだ夢でも見てるのか?お父さんが亡くなって何年経つと思ってる?」
「昔クラスで落ちこぼれだったお前を勉強教えてた。あれは家庭教師代としてお前の家が払ってた!俺に払うべきお金だ!」
圭介の声は鋭かった。
「だけど、お前みたいなバカはいくら教えても無駄だったな。それで養ってやったなんて、笑わせるな。」
圭介の言葉が、美也子の心に古傷を抉る。成績優秀な圭介を、貧しさゆえに家庭教師として雇い、名門の先生を断った過去。支払った金額なら、いくらでも名教師を雇えたはずなのに、圭介はいつも見下して罵った。
「じゃあ、父の会社は?」
美也子は絶望の声を絞り出す。
「会社を譲れば結婚してくれるって言ったのに。今は他の人と結婚するのに、病気の治療費を少し貸してほしいだけなの……結婚なんて、もう望んでいない。ただ、生きたいの。」
「まだ会社の話か?」
圭介は冷たく鼻で笑った。
「俺がいなけりゃ、とっくに潰れてただろうが。結婚?はっ、お前があんな病気を発症しなきゃ、誰が“結婚”なんてしたと思ってる?」
「免疫疾患」——それは圭介が美也子を突き刺す刃だった。どうしてこんなことになったのか。会社を譲らなければ、売ってしまえば、今頃は生活に困らなかったはずなのに。
もう後戻りはできない。美也子は冷たいベッドに横たわり、命が消えていくのを感じていた。最後の力を振り絞り、搾り出すように尋ねた。
「圭介……今まで、一度でもいいから……私のこと……好きに?」
「好きだって?」
圭介は嘲笑した。
「誰がお前みたいなバカを好きになるかよ。そんなこと聞くなんて、俺への侮辱だ。お前にまとわりつかれたことが、俺の人生最大の悪夢だ!」
最後の光が消えかかった。
「もう……ダメみたい……最後に、会いに来てくれない……?」
「来るわけがない!」
圭介はきっぱり言い放つ。
「お前みたいな汚い奴、死んだって縁起が悪いだけだ。」
電話は一方的に切られた。
意識が遠のいていく。どれくらい時間が経ったのか、再びスマホが鳴った。
恵理だった。
「もしもし?まだ生きてる?」
恵理の声はどこか愉快そうだった。
美也子の目にわずかな光が宿る。
「圭介が……電話させたの?」
「違うわよ。私の“親切心”よ。あんたがあまりにもバカで、死ぬまで分からないなんて、見てられないの。美也子、まだ圭介に未練があるの?彼があんたをどう思ってるか、分からない?」
「分かってる……」
美也子はか細く答えた。
「彼の目には、恵理しか……」
恵理はくすりと笑った。
「自分の免疫疾患、どうしてなったか考えたことある?」
「……え?」
美也子は凍りつく。
「もちろん、圭介があんたにうんざりしてたからよ。でも自分からは悪者になりたくなかったの。だから、検診のときにウイルス入りの針をすり替えさせたのよ。そうでもしなきゃ、堂々と捨てられないでしょ?あんた、本当に哀れね。死ぬまで気づかないなんて、そんなバカ見たことない!」
「カタン——」
美也子のスマホが床に落ちた。自分のすべての犠牲は、結局殺意で返されただけだった。
これまでのことが頭を駆け巡る。学業を捨て、父に逆らい、会社を譲り渡し……「愛のため」と信じていたすべてが、自分自身を傷つける刃になった。
意識が消えゆく中、美也子は誰かに運ばれている感覚をぼんやりと覚えた。消毒液の匂いの中、必死に目を開けると、自衛隊の制服を着た精悍な男性が見えた。
「あなたは……どうして私を……?」
病気になってから、助けてくれる人なんていなかった。
男は静かな声で言った。
「将補が、あなたを迎えるようにと。すぐにいらっしゃいます。どうか、もう少しだけ頑張ってください。」
「将補……?」
美也子の頭に、ある名前が浮かぶ。
九条宗弥——父が決めた婚約者だったが、圭介のために自分が侮辱して断った相手。
「彼は……元気?」
美也子は涙を流しながら尋ねる。
男は少し黙った後、静かに答えた。
「将補は……ずっと、あなたを待ち続けています。」
だが、美也子は宗弥に会うことなくその命を終えた。圭介の結婚式の日に。
次に目を開けると、まぶしい日差しが机に差し込んでいた。耳には休み時間の喧騒が聞こえる。
美也子は思わず顔を上げ、心臓が早鐘のように打つ。
ここは、桜丘高校の教室だった。
呆然としていると、頭の上から冷たい声が響いた。
「恵理の体調が悪いから、購買でホットドリンクと鎮痛剤を買ってきて。パンももう一つ、恵理は痩せすぎだから栄養つけさせて。」