春の柔らかな陽光が、朝の図書館の大きな窓からこぼれ落ちる。窓の外の桜は、優しい風を受けてわずかに枝を揺らし、はらはらと花びらを舞い散らしていた。その薄桃色の光景が、まるで絵画のように静けさを彩っている。
僕――
窓際の席に座り、春の光に背中を包まれながら、静かに本のページをめくる。周囲に人影はなく、ページを繰る音と、どこか遠くで聞こえる部活動のかけ声だけが、穏やかな朝に点描を施している。
――ここでは誰も僕に声をかけてこないし、何も期待してこない。だからこそ、少しだけ息ができる。
生徒会長という立場である以上、いったん廊下に出れば休む間もなく周囲に囲まれる。だからこそ、短いこの朝の時間は、唯一「仮面」を外せるときだった。
どこからともなく漂う紙の匂いと、窓辺を吹き抜ける春風が混ざり合う。そんな空間にひっそりと身を置くと、僕の中にある焦りのようなものが、わずかに和らいでいく気がした。名門・志水グループの跡取りとして、幼い頃から親に定められた道を歩いてきた僕は、期待に応えるためだけに存在しているように感じることが多い。
――僕はただ、与えられた役割を演じていればいい。愛なんて、最初から縁がない。
そんなふうに自分を言い聞かせるのは、これがもう何度目だろう。誰かを心から好きになるなど、ありえないと決めつけている。
ふと、始業五分前のチャイムが静寂を破るように鳴った。読んでいた本を丁寧に閉じ、カバンへしまい込む。まだ温もりの残る図書館を振り返ると、まるで名残を惜しむように一度だけ小さく息をついた。次に廊下へ出れば、生徒会長としての“完璧”な笑顔を求められる世界が始まるのだ。
廊下に足を踏み出すと、あちこちから視線が集まる。
「見て、志水先輩……今日も本当にかっこいい」
「いつも完璧だよね。まるで絵に描いた王子様みたい……」
そんな声が聞こえるたびに、僕は教科書通りの微笑みを返し、会釈をする。すると、彼らは心底嬉しそうにほほを染めたり、友達同士で感激の言葉を交わしたりしている。
――そう、“完璧”は人を安心させる。僕の感情を読み取られないための鎧みたいなもの。
「志水先輩、おはようございます! あの、生徒会の仕事、いつもお疲れさまです!」
「ありがとう。君も遅刻しないようにね」
自分の表情筋を丁寧に操り、笑顔を貼りつけたまま言葉を返す。その瞬間、相手はまるで宝物をもらった子どものように喜ぶのだから、僕に求められているのはこういう振る舞いなのだろう。
だが、背中が視線から離れるや否や、僕の笑顔はあっけなく霧散していく。仮面の裏で眠る本当の自分は、笑うどころか、ため息さえも飲み込んでいる。
放課後になり、生徒会の仕事をこなすために教室を出るころには、すっかりいつもの「生徒会長モード」が完成していた。すれ違う生徒が競うように声をかけてくるが、その一つひとつに笑顔で応え続ける。
「志水先輩、頑張ってください!」
「ありがとう。そちらもファイトだよ」
「先輩、素敵です! ……あっ、握手とかしてもらえませんか?」
「構わないよ。ほら、こう?」
僕の手を握って興奮気味に喜ぶ彼女に、やや過剰なほどの微笑を返しながら別れを告げる。そこまでやり切ると、生徒会室のドアを開ける瞬間には、さすがに神経が張りつめている自分に気づいた。ドアを閉め、誰もいないことを確認すると、大きく息を吐き出し、脱力する。
――やっぱり、疲れる。いつまで続くんだろう。
机に荷物を置いたとき、ポケットのスマートフォンが震えた。画面には政略結婚の相手である美月の名。
『週末の会食、大丈夫そう?』
彼女は僕と同じ学年でありながら、社交的にも優れていて、驚くほど冷静な判断をする。それでも彼女とのメッセージのやり取りは、決して苦痛ではない。けれど、心が動かされる瞬間もない。まるでマニュアルを追っているような安定感があるだけだ。
返信をしようと文字を打ちかけたとき、再びスマートフォンが鳴った。今度は母からの着信。受話器を当てた瞬間、ビジネスライクな声が響く。
「凪? 来週の取締役会だけど、あなたの挨拶は前回送った草案で進めてちょうだい。スーツは紺かグレーのダーク系を着用すること。わかったわね?」
「……はい。了解しました」
息子の近況や体調を気遣う言葉など、ひとつもない。そのまま一方的に通話を切られたあと、僕の手から余計な力が抜け落ちる。
――結局、僕はいつまで経っても、この家の歯車なんだ。
生徒会の書類整理を終えた頃、放送部による校内ラジオが聞こえてきた。心地よいBGMが流れ、パーソナリティの明るい声が校舎に響き渡る。
「今日はバレー部のニュースをお届けします! なんと、三年生エース・
何気なく耳を傾けていた僕は、その名前に不思議と意識を奪われた。鳴海礼央――三年生ということは、同学年だ。バレー部のエースということは、きっと人を惹きつける派手さがあるのだろう。
好奇心に突き動かされるように廊下の窓へ近づくと、運動場でボールを打ち合うバレー部の姿が目に映る。校内放送が終わったらしく、チームメイトたちが鳴海らしき人物を囲んで盛り上がっていた。その中心で、眩い笑顔を浮かべている一人の男子――遠すぎて顔はよく見えないのに、なぜか目が離せなくなる。何かきらきらとしたものが、夕暮れを背景に鮮やかに輝いていた。
生徒会の仕事を終えた後、屋上へ立ち寄るのが僕の日課になっている。図書館が朝の隠れ家なら、屋上は夕方の逃げ場所みたいなものだ。生徒もほとんど立ち入らないこのスペースでなら、少しぐらい感情を解放できる。
柵にもたれて校庭を見下ろすと、まだバレー部の練習は続いていた。先ほどまでの賑やかな声は、ここではかすかな残響となって届く。
――鳴海礼央……。彼がどんな人だろうと、僕には関係ない。
しかし、そう思う傍ら、さっき見た笑顔がやけに頭から離れない。何かが心の底に触れてくるような感覚が、言葉にできないほど複雑に胸をくすぐる。
手の中にあるスマートフォンを何度か握り直して、ふとため息をつく。そこにはまだ返信していない美月からのメッセージ画面。そして、親からの指示に従うべきスケジュール。すべてが整然と並んでいて、僕を取り巻く未来を明確に示していた。
――誰かを好きになるなんて、どうせ叶わない。僕は僕の役割を演じ続けるだけ……。
それでも風に運ばれてくるバレー部の笑い声が、今日はいつになく心を乱していた。僕はそっと桜色に染まる空を見上げ、何も知らないはずの夕陽に問いかける。
――欠けていると感じるのは、僕だけなのかな……。