春風に乗って、微かに梅の香りが漂ってくる。窓から差し込む朝の光が、手に握られている受験票を金色に染めていた。
合格発表の日。僕は朝から落ち着かずに部屋を行ったり来たりしていた。礼央からの「一緒に見に行こう」というメッセージを、もう何度も読み返している。
駅のホームで待っていると、改札から急足で向かってくる礼央の姿が見えた。彼もまた、緊張した面持ちだった。
「おはよう、凪」
「おはよう」
電車の中、礼央が僕の隣に座る。肩が触れ合う距離に、もう違和感はない。
「緊張する?」
車窓に流れる景色を見つめながら、礼央が静かに尋ねた。
「正直、怖い。でも――」
僕は礼央の横顔を見つめる。
「どんな結果でも、後悔はないよ。自分で選んだ道だから」
「俺も同じだ」
礼央が僕の手を、そっと握った。
「凪と一緒なら、どこでも頑張れる」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。僕たちは、もう一人じゃない。
大学の正門前は、期待と不安が入り混じった独特の空気に包まれていた。合格者の受験番号が貼り出された掲示板の前には、すでに黒山の人だかりができている。
「行こうか」
深呼吸をして、僕たちは人波に紛れ込んだ。心臓が早鐘を打ち、指先が震える。
掲示板が見えてきた。無数の番号が、整然と並んでいる。
「あった!」
礼央の歓声が上がる。
「凪、あったよ! 俺の番号!」
その笑顔に引き寄せられるように、僕も必死に自分の番号を探した。そして――。
「僕も……僕もあった!」
二人とも、第一志望の国立大学に合格していた。
周囲では歓声や涙が飛び交っている。僕たちも抱き合って喜びたかったけれど、代わりに静かに手を握り合った。その温もりが、何よりも雄弁に気持ちを伝えてくれた。
「やったね、礼央」
「ああ、やったな」
見上げると、キャンパスの桜のつぼみが、今にも花開きそうに膨らんでいた。
僕たちの新しい季節も、もうすぐ始まる。
合格の喜びに浸りながら歩いていると、礼央が急に立ち止まった。
「あのさ……」
振り返ると、彼の頬が夕日のように赤く染まっている。
「一緒に、暮らさない?」
思いがけない言葉に、僕は息を呑んだ。
「えっ……?」
「ずっと考えてたんだ。同じ大学に合格できたら、一緒に住みたいって」
礼央は照れくさそうに首筋を掻いた。
「でも、いいの? お母さんは……」
「母さんは『自分の人生なんだから、好きにしなさい』って。だから俺は、凪と一緒にいることを選ぶ」
その瞬間、僕の中で何かが弾けた。人目も憚らず、僕は礼央に飛びついた。
「ありがとう! 僕、すごく幸せだ!」
礼央の腕が、僕をしっかりと抱きとめてくれた。
*
三月の終わり。僕たちは慌ただしく新生活の準備を進めていた。
1DKの小さなアパート。決して広くはないけれど、二人で選んだ僕たちの城だ。
「これで最後かな」
礼央が段ボールを部屋に運び込む。山積みの荷物を見て、苦笑いを浮かべた。
「さすがに二人分だと、量が多いな」
「でも楽しいよ。これから始まる生活を想像すると、ワクワクする」
僕は鼻歌交じりに荷解きを始めた。箱から出てくる一つ一つの品物が、これからの暮らしを彩っていく。
「そうだな。毎日が楽しみだ」
礼央も僕の隣に腰を下ろし、一緒に作業を始めた。時折目が合うと、お互い照れくさそうに微笑む。こんな何気ない瞬間も、愛おしくてたまらない。
「ところで、礼央は料理できる?」
キッチンを整理しながら尋ねると、礼央は頭を掻いた。
「それが……全然できないんだよな」
「そっか。僕も……」
顔を見合わせて、二人で笑い出す。
「じゃあ、これから一緒に勉強していこう」
「ああ、そうだな」
何もかもが、二人で作り上げていく大切な思い出になっていく。
*
四月。入学式の朝、僕たちは洗面所の鏡の前に並んで立っていた。
真新しいスーツに身を包んだ礼央は、いつもより大人びて見える。
「ちょっとネクタイ曲がってる」
僕が手を伸ばして直すと、礼央は照れたように視線を逸らした。
「すごくかっこいいよ」
「そんなこと言うなって……恥ずかしいだろ?」
赤くなった耳が可愛くて、僕は思わず礼央の胸に顔を埋めた。
「凪もかっこいいぞ」
耳元で囁かれて、今度は僕が真っ赤になる番だった。
「もうっ!」
顔を上げると、礼央の瞳がまっすぐ僕を見つめていた。その深い色に、僕は吸い込まれそうになる。
「礼央、大好き」
「俺も好きだよ。さ、遅れるぞ」
手を繋いで家を出る。当たり前のようにできるこの仕草が、どれほど尊いことか。
大学のキャンパスは、満開の桜で彩られていた。花びらが舞い散る中、新入生たちが希望に満ちた表情で歩いている。
「じゃあ、後でね」
学部が違う僕たちは、ここで一旦別れなければならない。
「終わったら連絡する」
手を振って、それぞれの会場へ。でも寂しくはない。帰る場所は、もう同じなのだから。
*
式を終えて、僕たちは約束通りキャンパスの桜並木で再会した。
薄紅色の花びらが、春風に乗って舞い降りてくる。まるで祝福の雨のように。
「礼央」
「ん?」
僕は立ち止まり、振り返った。
「高校の時、君にキスされそうになったこと、覚えてる?」
「……ああ」
礼央の頬が、桜色に染まる。
「結局、できなかったけど」
「あの時はできなかったけど、今なら……」
僕の言葉に、礼央も立ち止まった。花びらが二人の間を優しく通り過ぎていく。
「大学生になって、もう子供じゃない。自分の気持ちに、もっと正直になりたい」
「俺も、同じ気持ちだ」
礼央がゆっくりと近づいてくる。僕も一歩、彼に向かって歩み寄った。
「愛してる、礼央」
「俺も、愛してる」
満開の桜の下で、僕たちはついに唇を重ねた。
それは長い冬を越えて、ようやく訪れた春の証。新しい人生への、確かな第一歩だった。
風に舞う花びらが、僕たちの周りでくるくると踊る。まるで世界中が、この瞬間を祝福してくれているように。
僕は今、自分で選んだ道を、愛する人と共に歩いている。
これからも、きっと。