ある日、僕の後ろに祠が立っていたんだ。
小学3年生の僕の家の裏には、用水路が流れている。お母さんは『賢治、危ないから、近付いちゃ駄目よ』と言ったけど、僕はその用水路沿いにある祠で遊ぶのが好きだった。その祠は、縁結びの神さまがいるとか、縁切りの神さまがいるとか、大人たちは色々言っていたけれど、僕には関係なかった。
「こんにちは」
祠は赤い鳥居の奥にひっそりと佇んでいた。屋根は苔むして、いかにもなにかが出てきそうな祠だった。僕は遊びに行くたびにお賽銭箱に5円玉を投げ入れた。5円玉は、”ご縁がありますように”というおまじないの意味があるとおじいちゃんは言った。
「お花が枯れているね」
祠に備えられた紫色の菊の花が枯れていたので、僕はたんぽぽの花を摘んでそっと供えた。たんぽぽの綿毛はふわふわと飛んで、祠を隠す、松の枝に引っ掛かった。来年の春には、黄色い花が咲くのかな。
「一緒に遊ぼう?今日はなにをする?」
僕は祠の周りで小石を集めた。その色は白や黒だったり、縞模様や斑点が付いていた。僕は息を殺し、ゆっくりと石を積んでいったけどすぐに崩れてしまって、その度に祠はクククと笑った。
「笑わないでよ!」
不貞腐れた僕は祠に座ってクッキーを食べ始めた。すると祠の扉がガタガタと揺れ始めた。それは『そのお菓子、私にも欲しい』と言っているようで、僕は仕方なくクッキーを半分に割って祠の前に置いた。すると扉は静かになって、僕と祠は一緒に『美味しいね』とクッキーを食べた。
ある雨の日のこと、テレビのニュースで川の水が溢れて用水路に流れ込んだとアナウンサーが目を大きくして早口でしゃべった。僕は祠のことが心配になって、台所でご飯を作るお母さんに内緒で長靴を履いた。ぱっと広げた黄色い傘はたんぽぽみたいだった。外に出ると風がとても強くて、祠のまわりに咲いていたたんぽぽは、濁った水の中で揺れていた。
(ホコラーは大丈夫かな・・・)
僕は祠のことをホコラーと名付けていた。お母さんやおじいちゃんは『祠が』と言うたびに、『あそこでは昔から気味悪いことがあるから』『昔、祠の近くで子供が行方不明になったんじゃ』と嫌な顔をするので悲しかった。そんなことを考えていると、横殴りの雨の向こうに祠が見えて来た。長靴の周りでは雨が跳ねて白くなっていた。ほっぺにあたる雨粒が痛い。
「ホコラー」
祠は水浸しで、お賽銭箱が濁った水に沈みかけていた。祠の扉が半分、川の水に浸かり、僕は慌てて駆け出した。その時だった。長靴が踏み出した場所は、用水路に掛かった橋ではなかった。ズボッと抜ける感触がして、僕の足は流れの早い濁流に飲み込まれた。
「アッ!」
僕の小さな身体はあっという間に用水路の中に飲み込まれてしまった。息をすることも出来なくて、耳の中にゴボゴボと水の泡が入るのが分かった。冷たい水が染みて服が重くなり、心臓がバクバクと鳴った。手で用水路の壁をつかもうとしたけれど、そのでこぼこは水苔でツルツルと滑った。
(お母さん!おじいちゃん!)
その時だった。祠の扉がガタガタと鳴って僕の手首を誰かが握った。細い指だったけれど、グッと力強く握られた。『お母さんの笑顔が見たい』と思ったけど、目がくらんで真っ暗になった。そして、僕の身体の力は抜けて、意識が遠のいた。
「賢治!けんちゃん!」
そして次に気が付いた時は、お母さんとおじいちゃんが泣きながら僕を見つめていた。天井の蛍光灯がとても眩しくて白い部屋だった。
「賢治、どうやって助かったの?」
お母さんは僕の手をぎゅっと握った。
「祠の前で倒れていたんじゃが・・・どうしてあんな場所で・・・」
おじいちゃんは不思議そうな顔をしていた。僕は手首がチクチクして、パジャマの袖をめくった。そしておじいちゃんが『警察官がパトロールで用水の近くを通ったら、祠の前で賢治がびしょ濡れで倒れててな・・・・』と呟いた。僕の手首には、4本の指の赤い痕がくっきり残っていた。