貴船様が崩れて数か月、新しい神社がその場所に建った。東京の大学に進学することになった僕は、村を発つ朝に5円玉とクッキー、黄色い菊を手に、貴船様を訪れた。移転時に傷がついた賽銭箱に5円玉を投げ入れると、花立に菊の花束を立て、祠のまえにクッキーを供えた。そして、両手を合わせて『いって来ます』と小さく呟いた。けれど祠の扉は開くことはなく、あの笑い声も聞こえなかった。
(ホコラー・・・どこかに行ってしまったんだね)
僕は用水路で助けられた日、クッキーを分けた日を思い、涙がにじんだ。新しい祠は空虚な木の箱のようで、クククの笑いも、細い指の温かさもなかった。村は”縁結び”と”縁切り”の神を失い、静かに変わっていく気がした。母も祖父も、『貴船様はもう・・』と目を伏せた。村はタンポポの綿毛さえ寂しく舞うだけだった。
月曜日の気怠い朝日が水平線から顔を出した。僕は鮨詰め状態の電車に揺られ毎日同じ場所へと向かう。その繰り返しを鬱陶しいと思いながらも厳守している姿はアリによく似ている。しかも働きアリではなく、闇雲に右往左往している役立たずのアリだ。
(・・・ふぅ)
僕は、コンクリートの谷間に住んでいた。マンションの窓を開けても見えるのは隣のビルの壁。薄曇りの空に、大きな溜め息が出た。
「賢治!」
「なんだよ」
僕は夏の喧騒を満喫していた。
「お、今日のゼミ、代返頼むわ」
「マジかよ」
ゼミナールの仲間や友達との日々は賑やかで楽しかった。それでも時々、ホコラーの気配を感じることがある。ホコラーのクククや用水路で助けられた日を思い出すと、手首の痕がチリチリと痛み、胸がチクリとした。
ある晩、友達とビールやつまみを用意して家飲みをしていた時のことだった。『腹減ったな』『そうだな』買い出しに行くのも面倒なのでウーバーイートを利用しようということになった。
ピーンポーン
意外と早くインターフォンが鳴り玄関に急ぐと、黒い服の男性が無言でハンバーガーの袋を差し出した。僕はその指先に違和感を感じた。
「ちょっと待って下さい、財布を取って来ます」
財布を取りに戻ろうと踵を返すと、クククと懐かしい笑いが背中に響いた。
(指が・・・4本・・・ホコラーなのか!?)
僕が振り向くとそこにはハンバーガーの袋だけが残されていた。風がスッと吹き、たんぽぽの綿毛のような気配が消えた。ホコラーは今でも僕を守ってくれているのかもしれない。僕の胸は温かなものでざわめいた。
了