あれは、母さんと、父さんと、弟だ。私は動かずに、三人がこちらへ歩いてくる様子を見ていた。
たまに、母さんに抱かれた3歳の弟の、甲高い笑い声が聞こえる。昨日までは可愛いと思っていた弟が、今は心底憎らしい。私はこんなに苦しいのに、弟は楽しそうに笑っている。それが、私のことを嘲笑っているように思えた。
三人との距離が近くなってくると、風に乗って、声が聞こえた。
「やっぱり、ここに決めて正解だったな。パチンコ店は近くに3店舗もあるし、競馬場までは電車で2駅だし」
「また大きく当たらないかなぁ。この間当てた300万は、すぐになくなりそうだし……。ねぇ、もう一度当たったら、マンションに引っ越さない? ユウキはまだ小さいけど、それでも3人であのアパートは狭いと思うのよ」
「そうだな。せっかく本当の家族だけで暮らせるようになったんだから、もっと良い生活がしたいよな」
——本当の家族……。ずっと、そんな風に思ってたんだ……。
母さんと二人で暮らしていた家に、ある日突然、母さんの彼氏がやってきて、本当は嫌だった。
それでも母さんが「結婚したい」と幸せそうな顔で言うから応援したのに。
家族になるのだから仲良くしようと、努力したのに。
二人が弟ばかり可愛がっても、文句を言わずに我慢したのに。
全部、全部、無駄だった。
私だけ、家族じゃなかった——。
ぎゅっと握った拳の内側が痛い。奥歯から、ギリッと嫌な音がした。
「えっ」
10メートルほど先まで来たところで私に気づいた母さんが、驚いたような表情を浮かべる。
「……何でここが分かったんだ」
父さんも気づいたようで、眉間に皺を寄せた。そして私の後ろにいるカミサマに目を向ける。
「そこのコスプレ野郎に、俺たちの居場所を調べさせたのか? 金は渡してなかったのに、どこにそんな金があったんだ」
お金どころか、私の物まで持って行ったくせに。
「おい、聞いてるのか?」
どうして答えないといけないの。
「ねぇ、凛。大人しく児童養護施設に行ってくれない? 中学生まで育ててあげたんだから、もう充分でしょ? お母さんを自由にしてちょうだい」
勝手に私を産んだくせに、何を言ってるの?
「ここへ来ても、お前の居場所なんかないからな! さっさと施設へ行け!」
「施設なら、18歳まで面倒を見てもらえるから、大丈夫よ」
——本当に、母さんは変わってしまったんだ。それとも、最初からこんなに自分勝手な人だったのかな。
あの男が家に来るまでは、笑って話をしていたし、二人で出かけたり、宿題を見てくれたこともある。普通に愛されていると思っていた。
でも本当は、邪魔だと思われていたみたい。今の母さんからは、愛情の欠片も感じない。
「……さぁ、どうする?」
真後ろで、カミサマの低い声が聞こえた。
「じゃあね、凛」
「二度とここへは来るなよ。お前に使うような金はないからな。ほらユウキ。あいつにバイバイしてやれ」
そう言って父さんが弟の手を持ち上げると、弟は笑顔で私に手を振った。
「ばいばーい」
何かが、ぷつりと切れた気がした——。
どうして私だけが、我慢しないといけないの。
奥歯を強く噛み締めると、口の中に、じわりと血の味が広がった。
「カミサマ! お願いします! この人たちを——殺してください!!」
力一杯叫ぶと、後ろから「ふっ」と笑う声が聞こえた。
「捨てられて悲しい、と泣き崩れるようなら殺してやろうと思っていたが、やはりお前は、面白いな。良いだろう」
私の横へ来たカミサマが右手を前に出すと、ドンッ! と大きな音を立てて、川の水が高く噴き上がった。
そして生き物のように空中でくるりと向きを変えた水が、勢いよく落ちていく。
ドオオオオン!
轟音と共に、地面が揺れた。
「ッ……!」
思わず両腕で顔を覆う。その瞬間に正面から水がぶつかってきて、全身に痛みを感じた。まるで、バケツで水をかけられたかのように、びしょ濡れだ。
しん、と辺りが静まり返った。
「あれだけ悪態をついていたのに、もう終わりか」
ため息混じりにカミサマが呟く。
——終わり……。
顔を覆っていた腕を下ろし、そっと目を開けた。
目の前にできた、大きな赤い水たまりの中には、人間の
男性用の服を着た身体は、頭部がひしゃげて、顔もぐちゃぐちゃだ。目はどこにあるかわからない。
女性用の服を着た身体はうつ伏せになっていて、首は90度に折れ曲がり、両膝はおかしな方向に曲がっている。
二人の間にある小さな身体は、もう人間の形だったかどうかもわからない。手前に白い小さな手が見えるだけだ。
茫然と眺めている間に、赤い水たまりの色はどんどん濃くなっていく。いつだったか、父さんと母さんが飲んでいた、赤ワインのような色。
動かなくなった三人を見下ろしていると、温かいものが頬を流れ落ちていった。視界が歪んで、三人の姿がよく見えない。
「どうした。後悔しているのか?」
カミサマがバカにしたように、ククッ、と笑う。
「後悔なんかしてない……。ただ、復讐したらもっと、スッキリすると思っていたんです。でも、悲しいまま。悔しいまま。何も変わらなかった……」
「時間が経てば忘れるさ。難しく考える必要はない」
本当に、この気持ちを忘れることができるのだろうか。時間が経っても、私が捨てられたという事実が変わることはない。きっと何度も思い出す。そして悲しくなって、悔しくなって、最後は激しい怒りが湧いてくる。
「まぁいいじゃないか。お前の願いは叶ったのだから」
「そう……ですね。……ありがとうございました」
カミサマの顔へ目をやると、金色の瞳の奥が光っている。
——また光ってる。綺麗……。
人間とは違う、神秘的な目。特に光っている時は、つい見惚れてしまうほど美しい。
いつの間にか、涙は止まっていた。
「カミサマはこれから、どうするんですか?」
「特に何も考えてなかったが……。そうだなぁ、俺をあの地下牢に封印した奴らの、子孫でも捜しに行くかな」
「カミサマも復讐したかったんですね」
「いいや? ——ただの、暇つぶしだ」
意地悪そうな顔で、カミサマはニヤリと笑った。
「それ……。私もついて行ってもいいですか?」
「俺の遊びに付き合うなら、別に構わないぞ」
「じゃあ、ついて行きます。私には、行くところなんてないし……」
「そうか。それなら最後に、挨拶くらいしてやったらどうだ?」
そう言ってカミサマは、私の後ろを指さす。
——挨拶?
振り向くと、赤い水たまりの中にある身体の上に、うっすらと透けた人影があった。私の家族
三人とも、だらりと両腕を垂らし、表情はない。
——あれって幽霊になったってことなのかな。初めて見た。
「……あの人たち、どうなるんですか?」
「あいつらは、あの場所から離れられない。じきに力のある亡者に喰われるだろう。悲しいか?」
カミサマは冷笑を浮かべながら言う。
「別に……」
強がりではなく、本当に何も感じないのだ。ゴミを捨てるように私を捨てた人たちと一緒にいるよりも、悪い存在でも、私を連れて行ってくれるカミサマと一緒にいた方がいいに決まっている。
それに、そばにいたいと思う理由もある。心が苦しくなっても、カミサマの綺麗な金色の瞳を見ると、なぜか苦しい気持ちが消えて行くのだ。
「さようなら、家族だった人たち」
冷たく言い放つとカミサマは、ふっ、と笑って歩き出した。何だか楽しそうだ。
後ろからは呻き声のようなものが聞こえている。けれど、私はそれを無視して、カミサマの後を追った——。
〈了〉