どの帝の御代のことか忘れてしまったが、女の手足が引き千切られてうち捨てられていたという話を思い出して中将は腕を抱いた。
束帯が、しゅるり、と衣擦れの音を立てた。
犬の産穢があって帰宅出来ず、父の曹司に寄せて貰ったものの、普段会話も交わすことのない父と曹司にいるのも気詰まりで、月を見てくるなどと言いながら内裏の庭などを逍遥すれば、宿直の夜に友人の公達が噂をして震え上がっていたのを思い出したのだった。
『宴の松原で、女の手足だけが見つかったらしいぞ』
それは、月の明かりに照らされて白く光り輝いていたので、兵衛が見つけたらしく、検非違使と陰陽師によれば鬼に食われたということだった。
鬼、など出るだろうか、と中将は辺りを見回す。宴の松原の名にふさわしく、あたりは松林が広がるばかりだ。今宵の月は明らかならず暗からず朧朧としている。このような月が一番美しいと言ったのは、唐の詩人であったか。
「照りもせず 曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜にしくものぞなき」
不意に思い出して和歌を呟けば、小さく、くすり、と笑う声が聞こえた。どこに、居るのか。あたりを見回す。だが、松があるばかりで、誰の姿も見えない。
「誰ぞ……おいでか?」
中将の声に応じるように、ふわり、と目の前に人が現れた。衣冠姿の袍を脱いだ下襲だけの姿で、その人は立っていた。烏帽子は被っている。だが、尋常の姿ではない。
松の、清々しい薫りに混じって、薫物の香が甘く漂ってくる。丁字を、やや強く感じる黒方の香であった。
彼は、中将のほうへ視線を流した。視線に促されるように、彼に近付く。中将が近付いても、彼は何も言わず、ただ、檜扇で口許を隠した。女のところへ行った帰りだろうか。だが、彼から、女の香を感じなかった。
「月を」
す、と彼は檜扇を閉じて月を指し示した。謡うような、まろい声だった。朧の月が、闇夜に滲んで浮かんでいる。
「ああ、あなたも、月をごらんに……」
す、と彼の手が、中将の頬を捕らえる。冷たい手であった。細くて、骨張っていたが、滑らかな手だった。彼の眼差しが、中将を捕らえている。誘われるように、中将は、彼の身体を抱き寄せて、口を吸った。
口の中一杯に、沈の薫りが広がる。香を食んでいたのだろうか。沈香の甘い甘い香りに、酩酊する。
宴の松原には誰も居ない。
遠くで、宿直の兵衛が、声を上げながら夜の見回りをする声がする。中将は、彼の身体を地面に横たえた。彼は、少し驚いたようだった。だが、中将に応じるように、首に手を回して、唇を重ねた。下襲の袷から、手を差し入れて、肌を探る。滑らかで、熱い肌だった。
「は、……」
快を堪えるように、彼が、深い吐息を漏らす。あちこちを探ると、呼気が尖り、白い手が、妖しく地面を這った。
月が傾く前に―――。
二人は戯れるのを止めて、身支度を始めた。今日の出仕は宮中の曹司からなので、五条の自宅から来るのに比べれば時間は掛からないが、日の昇らぬうちから、出仕するのが常である。名残惜しい気持ちを抑えつつ、身支度を調える。
「……今宵の思い出に」
そう願って後朝の代わりに、下着を交換した。彼の下着は、たきしめた黒方の香が、色濃く残っている。名を、聞きたかったが、彼は、詮索を好まないようだった。一夜の夢ということなのだろう。お互い、そのまま、内裏ですれ違ったとしても、気づかぬままに忘れていく類いの……。
曹司へ戻ると、父親が朝帰りの中将を軽く睨みつけ、「出仕の支度を早くしなさい」と苛立ったように告げてから、早々に出仕していった。
「若様、どちらでお過ごし遊ばされまして?」
「本当に、装束も泥だらけ……。はあ、これでは出仕出来ませぬゆえ」
「替えの装束を急いでお出しして……。こうと解っておりましたら、香をたきしめてお待ちしておりましたものを」
「ああ、それでは、下着だけは、こちらを」
昨夜の彼と交換した下着を内に着込むと、黒方の薫りに包まれる。沈香、丁字、白檀、麝香などを合わせたのが黒方だが、家に依って、調合は異なる。この香は、大分、丁字が強いように思える。そして、香は、身に纏うものによっても、薫りを変える。身体の匂いや、そのものの温度によっても変わるのだ。
曹司の女房たちに身支度を調えて貰ってから、中将は急いで出仕した。昨日から続く犬の産穢のために、出仕するものは少ない。今参内しているのは、曹司を持つものと、その子息だった。犬は、廊下の下でお産をしたため、その上を通ることが出来なくなったのだった。その為、中将のように自宅までの帰り道を塞がれたものが多数いる。
「昨日は、関白殿下も曹司で過ごされたとか」
「忙しいころであれば、曹司に十日も閉じこもる方であれば、なんぞ、不思議なこともあるまい」
関白、と言う言葉を聞いて、中将は、少々気鬱になった。中将の家と、関白の家は、折り合いが悪い。そのせいで、関白は、中将の家のものたちを重用することはなかった。
中将より三歳年上の、二十八歳とは聞いている。年若い関白だが、年若い帝のお側に仕えるには、良いのだろう。
「関白殿下がお出ましになったぞ」
誰かが鋭く声を上げる。その瞬間に、ざわざわとしていた殿舎の中が、すっ、と静まった。やがて、関白殿下が、お出ましになる。束帯の、裾を長々と引く音が聞こえた。
中将は、この場で末席に座っている。関白殿下が中将の真横を通っていったとき、沈香や白檀、麝香の薫りに、ひときわ丁字の香りが立って聞こえた。
(あ)
昨夜の薫りに間違いない。装束の下に着込んだ、下着の薫りと同じだ。顔を上げた。関白と目が合った。切れ長の瞳が、少し、伏せられる。まつげが、瞳に影を落とした。唇は、紅を引いているのだろう。妖しいほどに赤かった。
関白は、中将を見ていた。互いの視線が絡む。
また、明らかならず暗からず朧朧とした月の下ならば、あの松原で会うことが出来るだろうか。
中将は、ぼんやりと思いながら、関白をじっと見つめる。
淡く、関白は笑んだような気がした。
了