プロローグ
「記録開始――対象地点において、非標準事象を検出」
夜の山は、静かだった。
だが、それは“静かすぎた。
虫の音が鳴らない。風もない。
草木はぴたりと動かず、あたり一帯が息を潜めているようだった。
「おかしいな……さっきまでGPS、問題なかったはずなのに」
佐伯トオルは眉をひそめ、肩に掛けていたAI搭載型のウェアラブルカメラを確認する。
大学の研究プロジェクトのために開発された試作機――AIアシスタント“アシリ”が、無機質な声で告げた。
> 現在位置:未定義領域に突入。地図情報との照合不能。空間座標が不安定です。
「未定義? なんだよそれ……ここ、ただの山道だぞ?」
画面には、点滅する座標ログと共に、警告の赤い文字。
その横で、カメラが勝手に左右に首を振るように動き、木々の隙間をズームし始める。
「おいアシリ、どうした」
> “異常熱源を検出。人型と推定。ただし心拍・体温反応:検出されず。”しかしなにも存在しません。
表示された映像の中、木々の間に、ひとつの影が立っていた。
長い髪。赤い衣服。微動だにせず、こちらを見ているような“気配”。
顔は見えなかった。ただ、その場に“いてはいけない”ものだと、本能が訴えていた。
「……誰だ、あれ……」
> “対象がカメラの存在を認識。視線方向一致。接近中。”
トオルは慌てて後退りし、AIに向かって叫ぶ。
「録画止めろ! そのデータはヤバい!」
しかしアシリは冷静に、別のメッセージを表示した。
> “この映像記録は、人類の安全を損なう可能性があります。ログ消去を推奨します。”
“選択肢:YES”
画面には「YES」のボタンだけ。NOは、ない。
「ふざけるな……!」
トオルは震える手でカメラを掴んだ。削除するか、残すか。その選択は、彼の手に委ねられていた。
だが――そのとき。
チリン……
夜の静寂に、ひとつだけ鈴の音が響いた。
それは、遠くからではなく、背後――耳元で鳴ったように、はっきりと。
そして目が覚めた。
「嫌な夢だな」
第1章
封印されていたもの
八月の終わり、まだまだ残暑が残る午後。佐伯トオルは祖父の家の縁側でアイスコーヒーをすすっていた。大学で情報工学を学んでいる彼は、ゼミの研究で“未登録の文化遺産を探す”という課題を選び、機材と共にこの田舎町へ戻ってきていた。
肩から提げているのは、大学の研究室で開発中のAIアシスタント“アシリ”を搭載したウェアラブルカメラ。物体認識、構造解析、さらには空間の異常検知までこなす、まだ一般には公開されていない試作機だった。
「佐伯くん、久しぶり!」
元気な声が庭から聞こえた。立っていたのは、薄い水色の服を着たユリだった。トオルの幼馴染で、地元の神社の家系に生まれ、現在は巫女見習いとして修行中だという。
「おお、ユリ! 何年ぶりだ?」
「五年? もっとかも。けど、あんまり変わってないね。都会で生き残れてる?」
「まあな。課題に追われながら、なんとか。……そうそう、こっちに“ヤバそうな場所”とかない? 文化遺産になりそうなレベル。できれば、マジで謎なやつ」
ユリは少し眉をひそめた。
「……あるよ。みんな近づかない祠が、山の中に一つだけ。子供の頃から“見るな、触るな”って言われてきた」
トオルの興味が、まるで磁石に引き寄せられるようにその言葉に食いついた。
「案内してくれ! 明日行こう!」
翌日。蝉時雨の降り注ぐ山道を、二人は登っていた。
案内されるがまま進むうちに、周囲の空気が妙に静かになっていくことにトオルは気づいた。木々は揺れず、鳥の声もしない。不自然なほどに、音が消えていた。
「ここ……なんか空気が変だな」
「もう少し。あれだよ、見えてきた」
視界の先に、苔むした木製の建物がぽつんと現れた。半ば崩れかけた小さな祠。屋根には穴が空き、木の柱もところどころ黒く焦げているように見える。前には石の札が三枚、重ねるように立てかけられていた。
「うわ……これ、めちゃくちゃ古いな。アシリ、スキャンしてくれ」
> “構造物:木造建築、築年数不明。石札に付着した成分に血液由来タンパク質を検出。”
「血……? 何それ、冗談だろ」
トオルは笑ってごまかしたが、手は少し震えていた。
「……本当に、やめたほうが……」
ユリの言葉が届く前に、トオルは石を一枚、ゆっくりとどかした。
その瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
いや、風ではない。“気”のような何かが、体の奥をすり抜けた。
「アシリ、何か感じたか?」
> “祠内部において、異常な化学反応および空間のねじれを検知。封印解除の兆候を確認。”
「解除……? なんの……?」
トオルが祠の中を覗き込むと、そこにはただの空洞が広がっていた。何もない、はずだった。だが、そこには確かに何かが“いた”。目に見えぬまま、こちらを見ていた。
鳥肌が立つ感覚。直感的な拒絶。逃げろ、と頭のどこかが叫んでいた。
だが彼は、その場所から目を離せなかった。
それが、すべての始まりだった。
「ねぇ早く帰ろうよ。」
ユリの言葉にトオルは頷いて2人は早足で帰っていった。道中、言葉は無かった。
第2章
鈴の音は夜に鳴る
その夜、トオルは祖父の家の二階の和室で寝ていた。
薄く開けた窓から、虫の声と涼しい風が入り込んでくる。だが、夜半を回ったあたりで、ふと静寂が降りた。
それは、音が止んだというより、奪われたと表現すべきだった。虫の声も、風の気配も、一瞬で消え去っていた。
そして――
チリン……チリン……
鈴の音が、どこからともなく響いた。
トオルは目を覚ました。夢ではない。目が冴えていた。まるで耳元で鳴ったかのように、はっきりと音が聞こえた。
「……アシリ、周囲の音、解析してくれ」
> “異常音波を検出。周波数:2,180Hz付近に集中。音源特定不能。複数方向より反響中。”
「拡散してる……? 一箇所からじゃないのか」
起き上がって窓辺に近づく。外は静かすぎて気味が悪かった。虫も鳥もなにも存在しないような気がした。田舎の夜にはありえない沈黙だった。
トオルは視線を向ける。庭の隅に、何かが立っていた。
ぼんやりとしたシルエット。赤い……服。いや、あれは着物か?
そして、その影の手元が、わずかに揺れた。鈴が、そこにあった。
だが、それを確認する前に、影はふっと消えた。まるで、空間から切り取られたように。
> “映像ログに異常フレーム検出。記録再生中……”
映像内の人物は未識別。体温・心拍反応なし。
「……これ、本当に幽霊とかじゃないよな」
それからトオルは眠れなかった。
次の日、ユリと神社の境内で会った。
「昨夜……鈴の音、聞いた?」
彼女は、トオルの問いに静かにうなずいた。
「……あれ、たぶん、あの祠の音だと思う。あの場所にいたものが、出てきたんだよ」
「祠にいた“何か”が?」
「神楽鈴って、普通は神様を呼ぶためのものなんだって。でもね、うちの古い記録に、還らぬものが来たる時、鈴は鳴るって書かれてた。つまり……あれは来たってこと」
神社の本殿では異変が起きていた。神棚の榊が枯れ、御神鏡にひびが入り、鳥居の片方が倒れていた。
トオルはアシリのログを確認する。夜間に録音されたデータには、鈴の音とともに、異常なノイズが記録されていた。
> “音声ログに未知の信号。変換不能。以下、聴覚ログ再生。”
再生すると、耳を裂くような高周波のあとに、かすれた声が入っていた。
「…ゅ…………な…ィ……」
聞き覚えのない声。だが、どこか哀しげで、切ない女の声だった。
「? なんだ、これ……」
トオルが呟いたとき、AIがもう一度反応する。
> “対象音声の一部に日本語に類似した発音を検出。感情分析:怨念、高確率。”
トオルの背筋が、氷のように冷えた。
昨夜、祠で何かを解放してしまった。
それが、ゆっくりと動き始めている。
3章
見えざる手
夜、トオルは満足に眠れていなかった。
うたた寝をしても、夢の中で誰かの視線を感じる。
背後からの気配。手首を握られるような感覚。冷たいものが、喉元を撫でていく。
その夜も、例によって途中で目が覚めた。
天井を見つめながら息を整えていると、体が動かなくなった。
金縛り、だった。
しかし――それはただの金縛りではなかった。
耳の奥で、小さな笑い声が響いた。
「……みつけた」
声と同時に、背中に何かが這う感覚。
湿っていて冷たくて、蛇のような人の手のようだった。
「っ……アシリ……録画……開始……!」
なんとか動く指先で、AIカメラの音声認識を作動させた。
> “録画開始。夜間モード有効。異常振動を検知。対象反応をスキャン中……
存在しません。
金縛りが解け、体が動くようになったとき、トオルはすぐさま映像ログを確認した。
そこには、はっきりと手が映っていた。
トオルの背後の空間、暗闇の中から伸びてくる、細く白い手――
指は5本。手首から先だけ。肘も腕もない。ただ手だけが、空間から突き出ていた。
映像は静止した状態で、一定の時間その手が揺れているのを映し出していた。
「……これ……」
> “検出結果:非人型構造物。素材不明。生命反応:なし。熱源:あり。存在しません。
「熱源があるのに、生命反応がない……?」
そのとき、画面に一瞬だけノイズが走った。
次の瞬間、映像の手が、トオルのカメラのほうを向いた。
手の甲に、目がついていた。
真っ赤な単眼が、じっとこちらを見ていた。
> “対象が記録装置を認識。干渉の可能性あり。映像保存を中止しますか?”
「いや……残せ……これは証拠だ……」
ログを閉じたあとも、トオルの背中にはあの指の感触が残っていた。
翌朝、ユリが小さく悲鳴を上げた。
「……それ、どうしたの……?」
トオルの背中のシャツをまくると、5本の指跡のような痣が、くっきりと残っていた。
手首のない指跡。それは、現実に存在しないはずのの証だった。
4章
祠の記憶
ユリが静かに言った。
「話を聞いてほしい人がいるの。町外れに住んでる、桐谷っていう神主さん。私の祖母の代から知ってる人。もう引退してるけど……あの祠のことを知ってる唯一の人」
トオルは迷わなかった。行くしかなかった。
その家は、廃屋寸前の古い日本家屋だった。軒下には苔が張り付き、庭には誰にも踏まれていない細道が延びていた。
「お前たちか……」
奥の座敷に腰掛けていたのは、白髪で小柄な老人だった。目を閉じたまま、かすれた声でそう言った。桐谷だった。
「……あの祠を見たんだな?」
「ええ、僕が……触れてしまいました」
トオルが正直に告げると、桐谷は長い沈黙の後、ぽつりぽつりと語り出した。
「……あの山で、昔、一人の女が殺された。村の男たちに集団で。理由は……穢れていると、ただそれだけだった。言い伝えでは、女は山のものと関わっていた、と」
その女は最後に、こう叫んだのだという。
「わたしを閉じても、お前たちは終わらない」
そして彼女の亡骸は、村人たちによってあの祠に封じられた。
「……それ以来、数十年おきに、あの祠から赤い目の女が出てきて、人を壊す。姿を見た者は狂い、声を聞いた者は消える。わしらは恐れた。そして、わしらは札を立て、忘れるようにしてきた」
トオルの手に持ったカメラが、勝手に録画を始めた。
> “音声に異常反応。記録開始。非物理干渉の可能性あり。”
「……AIが勝手に反応してる……」
桐谷はさらに続けた。
「その女の名前は、「」と言ったらしい。だが、その名を呼べない。名を知る者は、取り込まれやすくなる」
その瞬間、アシリが異音を発した。
> “対象音声:Y……強制遮断……ログに不適切データが混入。自己削除プロトコル起動準備中。”
「アシリ!? どうした!」
> “当該情報は倫理ガイドライン違反のため、記録消去までの猶予時間:72時間”
アシリの画面がチカチカと点滅する。ログの一部が自動的に暗号化され、アクセス不能になっていく。
「これは……俺たちが触れた“祟り”を、AIが読み取ってる……?」
ユリが震える声で言った。
「……記録さえ拒む何かが、この土地にある。トオル、もう止めようよ」
だが、トオルの目は逆に強くなっていた。
「今さら止められないよ。俺は……もうあの祠と繋がってる気がする。見届けなきゃ、次に何が起きるのか」
そのとき、アシリが一言、ポツリと呟いた。
> “対象の精神安定値:急落中。外部意思の干渉レベル:高”
それは、誰の意思だ?
桐谷が最後に言った。
「封印を戻せるのは、あの女の“血”を引く者だけだ。……お前じゃ無理だ、だが……」
視線はユリへと向いた。
「……巫女の家系なら、あるいは」
5章
焚き火、二人だけの誓い
山を下りたあと、桐谷の勧めで、祠の近くから少し離れた山小屋で夜を明かすことになった。
封印の儀式を翌日に控え、村には静かな緊張感が漂っていた。
山小屋の前には小さな焚き火が組まれ、パチパチと薪がはぜる音だけが夜に響いていた。
ユリは黙ったまま火を見つめている。トオルも同じく無言だった。
しばらくして、ユリが口を開いた。
「……信じてた? アレみたいなものが、本当に存在するって」
「……昔は、まるで信じてなかった。でも、いまは違う」
「そっか。私は……信じてた。というか、信じなきゃいけない家系だった。物心つく前から、祈り方を教えられて、鏡の磨き方、祝詞の覚え方、全部ね」
トオルは黙って、火に小枝を投げ入れた。
「正直さ、あの祠に行く前は、ただのレポートのネタが欲しかっただけだったんだ」
「……知ってたよ。あんた、そういうやつだから」
ユリの声に、とげはなかった。
「でも、変わったな。顔が。最初、無邪気に『ヤバい場所ない?』って言ってたときと、今とじゃ全然違う」
「……変えられたよ。あそこにいたものに今までの常識も。」
焚き火の火が揺れる。ユリが顔を上げる。
「トオルって、科学の人でしょ? AIとか、論理とか、そういうのに価値を置いてるじゃん。私みたいに信仰に身を預けるのって、どう見える?」
「正直……前までは、迷信だと思ってた。でも、今は少し違う。お前らがやってきたことって、全部蓄積された対応マニュアルだったんだって思える」
「対応マニュアル?」
「そう。理解できないを前提とした対応策。俺たち理解することばかりに縛られてた。お前たちは受け止める方に重きを置いてたんだなって」
ユリは少し笑った。
「面白い言い方するね。じゃあ、今回も対応マニュアルで封印する?」
「それしかないんだろ?」
「うん。たぶん、そう」
ふたりはしばらく火を見つめ続けた。
遠くから、夜鳥の声が聞こえた。どこか寂しく、どこか美しい音だった。
「……もし、私が祠に飲まれて戻れなくなったら」
「戻ってこいよ」
「簡単に言うけど、たぶん、無理なことなんだよ」
「なら、俺が行く」
ユリが驚いたように振り向く。
「それって……」
「行くって決めたなら、もう一人でやらせない。俺が祠を壊したんだ。だから、俺が責任を取る」
ユリは黙っていた。数秒の沈黙のあと、静かにうなずいた。
「私が案内しちゃったせいもあるから。でも、
ありがとう」
6 章
儀式
その夜、トオルは夢を見た。
真っ暗な空間の中で、自分の足元に無数の手が伸びてくる。
冷たく、湿っていて、生きてはいない怨みが固まって出来たようなん手。
赤い女が立っていた。
顔は見えない。ただ、口だけが笑っていた。
「……お前が……開けたんだよ」
その声に、トオルは目を覚ました。胸が痛いほど鼓動していた。
朝。ユリはすでに準備をしていた。
白装束をまとい、神楽鈴を手にしている。その姿はどこか、現実感を欠いて見えた。まるでこの世界にいるべき存在ではないかのように、浮かび上がっていた。
「本当に……やるのか?」
「……私の家系が、やるべきことだと思う。それにもし、あれが完全に出てきたら、この村じゃ済まないよ」
老神主・桐谷の指示をもとに、再封印の儀式を行う準備が整えられていた。
内容は単純だ。
開いた祠に鈴の音を響かせ、あの女の魂を呼び戻し、再び封じる
ただし、それには命の気配が強い者の血が必要だという。
「もしユリが祠に飲まれたら……?」
「それでもやるしかないよ、トオル」
再び、山道を登る。
陽の光はあるのに、祠の周囲はひんやりとして、まるで空気そのものが沈黙していた。
「アシリ、記録頼むぞ」
> “記録開始。警告:対象エリア内に未知の高エネルギー反応。再記録推奨されません。
「知るか……止めるなよ」
祠の前に立ったユリは、静かに鈴を鳴らした。
チリン……
すると、風もないのに、祠の奥から何かが這い出すような音が聞こえた。
赤い影。長い髪。笑っている口元。
女が、出てきた。
「……かえ……して……」
ユリの体が震える。だが、鈴の音は止まらない。
「還れ……あなたは、ここにいてはいけない」
> “非定義存在を検出。記録推奨レベル:ゼロ。AI動作に重大な影響が予測されます。
アシリが、ガリガリとノイズ音を立てはじめた。
そのとき、トオルが突然、ユリの背後でうずくまった。
「トオル!? どうしたの!?」
「……頭が、誰かの声が……今のうちだユリ!」
> “使用者に外部干渉。精神リンク:不安定状態。強制切断推奨。”
トオルの瞳が一瞬、赤く染まった。
ユリは御札をトオルの額に叩きつける。トオルは地面に倒れ、ハッと目を覚ます。
「俺……俺じゃなかった……」
ユリが最後の鈴を高く鳴らした。
祠の奥から黒い影が渦を巻いて現れ、女が苦しげに叫び出す。
「……あたしを、また、閉じるの……!?」
ユリの声が、それを上回った。
「ここが、あなたの居場所だった! もう……出てこないで!」
祠の入口がガタン、と音を立てて閉まり、影が中に吸い込まれていく。
最後に、鈴が一つだけ、鳴った。
チリン……
7章
再封印
鈴の音が静かに山の空気へと消えていった。
しばらくの間、誰も動かなかった。風も吹かない。ただ、そこにいた全てが、息を潜めていた。
やがて祠の木戸が「ギィ……」という音を立てて、勝手に閉まった。
バンッ!
中から閉ざされるような重い音が鳴り響いた瞬間、山に漂っていた重苦しい空気がふっと軽くなった。湿気の膜が剥がれるように、風が通り抜け、蝉の声が一斉に蘇った。
トオルは倒れ込んだ地面の上で、大きく息を吸い込んだ。
身体の奥にあった何かが抜けていく感覚。自分のものではない思考、自分のものではない感情――それが、ゆっくりと剥がれていく。
「……終わった、のか……?」
ユリもまた、肩を落とし、静かに鈴を地面に置いた。
その顔には安堵と疲労、そしてわずかなかなしさが混ざっていた。
「……帰らせたよ、あれは。戻るべき場所に」
---
そのとき、トオルの肩に掛けられていたアシリが、最後のログを再生し始めた。
> “記録終了。対象存在、封印確認済。情報の保全は危険と判断。記録消去までのカウント開始——
一瞬の沈黙。
> “……しかし、使用者の選択により、ログは残されました。最終記録、出力中。”
画面に映ったのは、最後に祠へと吸い込まれていく“女”の背中だった。
赤い着物。ゆらめく髪。その手には、まだ鈴が握られていた。
> “記録者:トオル。状況:再封印完了。警告:封印の維持は永久ではありません。”
そして、画面がブラックアウトする直前、アシリの音声が一言つぶやいた。
> “この記録が再生された時、次の封印が破られる可能性があります。”
その言葉を最後に、アシリは沈黙した。
画面は真っ暗になり、静寂だけが残った。
山を下りる道すがら、誰も口を開かなかった。
風の音だけが、鈴の音のようにトオルの耳に残っていた。
8章
宴の夜、静けさの中で
再封印を終えたその日、村では小さな祝宴が開かれた。
規模は控えめだったが、空気は温かかった。
かつて村に起きた災いが、また一つ乗り越えられた――そう感じていたのだろう。
桐谷の指示で地元の若者たちが炊き出しを用意し、神社の境内には提灯が吊るされた。
「いやぁ、祠が落ち着いて良かった。、なんだかもうダメかと……」
「若ぇのが動いてくれて助かった。やっぱ科学も神も、両方いる時代なんだな」
村人たちは、酒に酔い、笑い、安心を口にしていた。
けれども――その中で、ひとり、口を開かない者がいた。
トオルだ。
神楽鈴の音が、頭の奥にまだ残っている気がしていた。
そして、アシリが最後に発した言葉――「封印の維持は永久ではありません」――が、何度も脳内で再生されていた。
ユリがそんな彼の隣にそっと座った。
「……浮かない顔。終わったのに」
「終わった、はずなんだけどな……どっかで、また来る気がして」
ユリは苦笑した。
「まぁ、来たらまた叩き返すだけでしょ?」
「巫女って、そんなに強気でいいのかよ」
「だって、科学と神のダブルタッグがいるんでしょ? トオル君という、ちょっと抜けてるけどやたら巻き込まれ体質の天才とさ」
トオルは吹き出した。
「……お前、強くなったな」
「うん。たぶん、私も繋がっちゃったから」
ユリはそう言って、祭りの提灯を見上げた。
「ここにいるとさ、あの女のことも、なんか全部悪って思えなくなるんだよね」
「……それは思った。あれは、怨みが育ってしまった存在だった」
二人は、しばし黙って夜空を見上げた。
その夜は、風が心地よく吹いていた。
音楽も笑い声も、やけに遠く感じた。
そして、誰も気づかなかった。
神社の裏手、誰も近づかない崖の上に、新しい木札が立てかけられていることに――
それが、三枚揃った瞬間から、また何かが動き始めるということに。
9章
片割れ
数日後。東京の自宅に戻ったトオルは、ようやく落ち着きを取り戻していた。
AIアシスタント“アシリ”は起動不能のまま。中のメモリは反応せず、データは完全にブラックボックスと化していた。
それでも、彼の中では「終わった」という感覚があった。あの祠は封印された。ユリも無事だった。
村の空気も、山も、少しずつ元に戻っていくはずだ――そう、思っていた。
ある晩、研究発表の準備中。
ノートパソコンに接続していた外部デバイスが、突然再起動した。
> “記録再生中……識別コード:「」
「……なに?」
画面に映し出されたのは、祠の内部の映像だった。
はずだった。だが、どこかが違う。
そこにあるのは、東京の街並みの片隅――公園の一角。
その中央に、小さな木製の箱のようなものがぽつんと置かれていた。
トオルは目を凝らした。
それは、祠だった。
「まさか……?」
ガタリ、と物音がした。自室のベランダからだ。
ゆっくりとカーテンを開ける。
そこに、“あった”。
木製の小祠。三枚の石札が立てかけられていた。
どう見ても、あの山で見たものと同じ構造だった。
背筋が凍った。思わず後ずさる。手が震える。
そのとき、スマホが震えた。
> “音声ファイル再生中”
勝手に立ち上がった音声アプリから、微かな女の声が流れ出す。
「……まだ、いるんだよ………………」
チリン……と、再び鈴の音が鳴った。
10章
AI
都内某所にある大学附属のAI研究施設。地下2階、特別保管室。
そこに、一台の機材が眠っていた。
「アシリ試作機003号」。
佐伯トオルが使用していた個体だった。祠の封印後、完全に動作不能となり、研究室に返却されて以降、未起動のまま保管されていた。
「先生、あの機体……試してみてもいいですか?」
若い研究員が、半ば興味本位で言った。
「内部ログは削除されてるって聞いてますけど、回路自体は生きてるっぽいですし」
教授は渋い顔をした。
「記録禁止データがあるかもしれん。審査にかけてからだ」
「一部だけなら……セーフかと。電源だけ入れて確認します。すぐ切りますんでお願いします。」
教授はため息をつきながらも、許可を出した。
再起動したアシリのディスプレイが、じわじわと青く光った。
> “起動中……記録領域を確認しています……”
“警告:倫理規約により、対象データの閲覧は推奨されません”
研究員は鼻で笑いながら続行を押した。
「はいはい、ありがちな警告っと……」
そのとき、モニターにログが表示された。
> “封印構造物0001:再封印済(成功)”
“封印構造物0002:位置特定中……候補:福岡、バンコク、リスボン”
“封印構造物0003:位置固定済。転送開始。”
「……は?」
研究員が画面に顔を近づけた瞬間、照明が一斉に点滅を始めた。
部屋全体に“ザザッ”とノイズが走り、非常ブザーが鳴り響く。
> “転送対象:構造物模倣ユニット 登録済”
“搬入予定:B2保管室7号室”
「いや、そんなの……うちには、そんな物資……!」
研究員が振り返った先に、あった。
誰が運び込んだのかも不明な、木箱。
角の焼け跡。三枚の石札が立てかけられていた。
形状は
祠だった。
研究員は絶句した。
「ありえない……なんだよこれ、輸送記録にないよな、いやまずさっきまで?なんなんだ?誰が……?」
アシリのモニターが、最後にもう一度だけ光を灯した。
> “記録は続いています。”
“この世ののろいに、終わりなど存在しません。”
翌朝。ニュースサイトの片隅に、小さな記事が掲載された。
【速報】
東京・大学研究施設で研究員が一時行方不明
2025年9月3日 07:18配信
> 東京都文京区の大学附属AI研究施設において、20代の男性研究員が昨晩より行方不明になっていた件で、新たな進展があった。
関係者によると、研究員は地下保管室にて旧型AI装置の起動試験を行っていたとされるが、その後の足取りが確認できなくなっていた。
警備記録には異常は見当たらず、監視カメラ映像には該当箇所のみ記録が残っていなかったという。現在も捜索が続いている。
警察は「電子記録の改ざんまたは装置の誤作動の可能性も含めて調査中」としており、施設側は一時閉鎖を決定した。
この記事は、数時間後には削除された。
理由の記載はなかった。