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君がプールで泳げたら
君がプールで泳げたら
煙 亜月
恋愛スクールラブ
2025年05月31日
公開日
3,421字
完結済
「これ、あげなくもないよ?」——吹奏楽部は夏。先輩の会田千穂さんはその対価として自分の潤んだ唇を指差した。

第1話

「君がプールで泳げだら」。

 先輩はこの条件の対価として、自分の潤んだ唇を指差して「これ、あげなくもないよ?」といった。まだあどけなさの残る十代の唇はノーメイクでいながらつやっぽくで、確実に女としての色香をまとっていた。


「でも、そんなのできないでしょ。ふつうに僕が惚れさせる方が一〇〇万年早くないですか?」僕はへらへらと笑いながら先輩の横でフルートを構える。


 七月二十八日、午睡には遅い夕方の教室に差し込む西日はまだきらめいている。音楽室からは少し遠い、三-F。フルートパート——といっても僕と先輩だけだが——はパー練の総仕上げにかかっていた。この時代、春なんて浮ついたものはなく、日焼け止めと汗が混ざった甘い香りが青春と夏を直結させている。だから、春なんてものはいつ来ていつ去ったか定かではないのだ。唯一断言できるのは、僕は春に先輩に惚れたということ。春に始まった恋心は洗い終わったラムネの瓶のようにつるんとしている。少し汗ばんだ手はその瓶を落とすまいと必死だ。恋することに慣れきってしまう前に。


「もし僕が泳いだとして、途中で溺れたらどうします? あ、先輩直々の人工呼——っ!」

 先輩がいきなり超高音を耳元で鳴らす。「す、すみませんでした失言でしたやめて鼓膜が死ぬから」

「へへえ」

「な、なにかおかしいこといいましたっけ?」

「いや、その顔以上の冗談はこの世に存在しない」

「それ酷くないです? 毎朝この顔面見てポーズ決めてるのに」

 ぺたぺたぺた——。


「あ、顧問の音だよ、シュウ君」

 歩幅の狭いスリッパの音が聞こえてきたので先輩と僕はさっとフルートを構え直す。「Dから」

 できるだけアラの出ない部分を卒なく吹き、何とか吹いてます感を演出する。スリッパは遠ざかっていった。


「ンベー!」ああ、ほかに表現方法はないのだろうかもったいない、と僕は思うのだが先輩は構わずあっかんべえを遠ざかる副顧問のスリッパにくれる。まあ、それもそれで可愛いから許す。なぜなら可愛いから。そしてそれを僕が独占しているから。


 ささやかながらも注釈を付け加えると僕はこの先輩——ちほさんにぞっこんラブである。時代を遡る趣味がおありの方には入学時の式典演奏にそのルーツはあるといっておこう。

 当時のフルートパートは彼女一人だけだった。それでいて、それなのに、彼女のフルートはほかのどの楽器よりも輝き、欲をいえばフルート聴きたいからあとのひと黙って、と拳を握り立ち上がる寸前だった。そんなフルートだったのだ。


 ——会田千穂。先輩の名前。それが僕の魔法。

「あっ、会田先輩、ここのフレーズ、どんな感じなのかよくわからなくて——」

「会田先輩、さっきの合わせ、セカンドもう少し引いた方がいいですか?」

「会田先輩、わたし、会田先輩に憧れて入部したんです——」

 魔法に掛けられた新入生は多かった。


「ホラ、アンブシュアだのアーティキュレーションだの専門用語ばっかり。局、業界人?」

「ファースト立てるのがセカンドの吹き方って認識? すげー年功序列。あたし、もう部活やめるわ」

「局、さっき鏡の前で吹いてたよね? どんだけ自分大好きなんだか」

 魔法は解けるのも早かった。


「で、君とわたしが残ったと」

「らしいですね」

「でも、中学で吹奏やってない側からしたら、高校デビューは難しいんかねえ」

「個人の技量と努力ですよ」

「いや、なんか局っていわれてるし。あたしそこまで排他的じゃないと思うんだけどな」

「僕というセカンドがいるのにまだですか、まだ侍らせたいと」

「うん——侍らせるんは何人いても足りんなあ」先輩は、あはは、と笑い、直後に椅子の上で体育座りをし、顔を隠してしまった。

「せん——」

「知ってる——知ってる。あの子らのいうこと、何もいい返せない。あと、君が隣なら、まあ許す。でも、今は前は向けない」先輩の手が控えめに伸びてくる。僕も震える指先同士を合わせる。

「なんで、なんでなんかなあ。あたし、今ただの二年生やし、偉そうにいうてないんよ、自分の中ではよくやってたつもりだったんに、なんもかんも裏目に出た。ね、なんでシュウ君は残ってくれとるん? それも、ただの——恋愛感情?」


 先輩は顔を上げて見せる。意外に顔同士が近く、どぎまぎしてしまう。僕はハンカチを出し、ちほ先輩の涙の跡だけをぬぐう。睫毛に触れていいような僕じゃないことはなんとなく、諦めを見ていたから。


 僕は拳を固める。

「今日の夜十時、校庭の真ん中で。あとは、あとで話します」

 すすり泣く先輩の手だけは、向こうが離さない限り僕は決して離すまいと決めていた。


 夜十時。別に不審者が出るような都会の高校でもない。忍び込むも何も、校門横の通用口を開ければよいだけのこと。まあ、不法侵入扱いにはなるかもしれないけどね。

 校庭の真ん中、ちほ先輩はいた。


 ショーパンにタンクトップ姿できょろきょろとあたりを見渡している。「シュウ君」

「ちほ先輩」

「会田先輩。だから名前で呼ばんでっていうとるんに」

「二人だけならいいですよね?」

「変な癖になってみんなの前でも呼びだすから、ダメ」そういう先輩は嬉しそうだ。「でも、これってあたしたち不法侵入だよね?」

「自分の学校なんだからいいんじゃないです? 忘れ物取りに来たとかいえば」

「そんな杜撰ないい訳初めて聞いた」

 僕はちほ先輩から離れ夜の校庭を全力疾走する。「えっ? ちょっ、とっ、待っ、てっ、よっ!」途中でちほ先輩に肩を掴まれる。

 え? 先輩、速くないですか? しかし僕はさらにストライドを拡げ、先輩を振り切って夜の校庭を——プールへひた走る。靴は途中で後ろへ飛んでった。すでに心臓が爆音を上げ、僕の人生のフィニッシュを飾ろうとしているがそうはさせない。絶え絶えとなった息を整えつつ、夜景の浮かぶプールへの階段をのぼりながら服を脱いでいく。

「まっ、やっ!」先輩、大丈夫ですよ、穿いてます。

 海パンのみとなった僕は両足をそろえ、水面へ見事な弧を描——かなかった。飛び込んだのはいいが、足を中心にきれいな円運動を描き、つまりお腹から着水した。——痛い。息できない。水を飲みすぎて声も声にならない。

「あがああ」

 前から強く抱えられている。「バカ! 立って! 立てるから!」

「——ほんとだ。なんだ、立て」いい終わらないうちに頬に強烈な平手打ちを食らう。

「バカ! なんなんもう! ほんとなんなん! アレ信じてこんなことしたの? 金槌なのに危ないとか思わないの!」

 僕は水面を叩く。

「だったら! だったらなんで好きとも嫌いともいわないんですか! そうやっていつも僕を人として評価してくれない! 好きでも嫌いでもない、家の犬かなにかですか、僕は。もう、疲れました」

「おーい、そこ、誰かおるんかー?」——お巡り、さん?

 もういい。もう終わったんだから。僕は思い切り大きな口を開けて息を吸い込んで、叫び——


あたたかいな

だけど、なのに、つめたいな——


「それは、口封じみたいなものですよね」僕は自分の唇に残る感触が信じられなかったけど、小声となってうつむく。

「ち、違うわよ。あたしの、その、答えっていうか」

「泳げておめでとう的な?」

「それも違う。だいたい、泳げてないじゃない。思いっきり溺れてたじゃない」と、先輩は目をそらす。「いいよっていう——ことよ」


 僕は水面下でガッツポーズをした。僕が千手観音だとしたらすごい量のガッツポーズだろうな、そんなことを思わせるマッシヴなガッツポーズ。

 自転車のスタンドが立つ音がする。さっきのお巡りさんか。「ごめん先輩、思ったよりマズい」

「早く服持って。向こうの柵から飛び降りるよ。ほら、早く」

 衣服をまとめる。手すりから植栽伝いに飛び降りれば怪我もしなさそうだ。「先輩も早——」「こっち見ないで!」

 スペースシャトルが大気圏に突入するんじゃないかってスピードで僕は前を向く。「せ、先輩、な、なんで脱い——」「水から上がる時に脱げたのよ。でも、水中じゃないと張り付いて穿きにくくて」

 今、僕の心臓は最高潮に高鳴っている。音楽用語でいうところのプレスティッシモだ。

「僕、先行ってます。先輩も下に着いたらゆっくり穿いてください」

「シュウ君、このことは」

「誰かに話して得しますか?」

「そ、そりゃ、まあね」

 今夜のことは、ふたりの思い出になった。誰も知らない秘密の思い出。この秘密が秘密でなくなる日が来るかどうかは分からない。だけど、今はその存在すらわからない青春という名の瓶に閉じ込め、たまに眺めてやろう。

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