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穂刈月の幽霊騒動

第64話

 日本で言う八月。皇国の暦で恵み月の後半になると、遠方の領地から来ている貴族たちは自領へ帰り始める。一番遠い南方領主のシュレーデルハイゲンなどはもう、帰り支度を始めているだろう。

「あああああ、もうやだ孤児院ももうそろそろ人を雇っておかないといけないし、競馬の事業化、週三回皇宮で勉強、お見舞いを隠れ蓑にした薬学士との探り合い膨大な薬学書の解読、お茶会への出席、ブラウンシュバイクへの尋問、ぼくがもう二人ほしい……」

「君が三人も居たら何をしでかすか分からないからわたくしは困るよ、スヴァンくん」

「ヴァンが三人もいたら、惑わされる人間が大量に出て大変だよ?」

 コモンルームでおやつを食べるルクレーシャスさんと、イェレミーアスへ愚痴を言う。もうそろそろマウロさんがやって来る時間だ。きっかり十分前に、フレートがコモンルームの扉をノックした。

「スヴァンテ様、マウロ様がおいでになりました」

「今、行きます」

 応接室へ移動するぼくをイェレミーアスが抱き上げる。のっそりと立ち上がりながら、ルクレーシャスさんは皿に残ったカスタードクリームやフルーツを包んだクレープを口へ放り込んだ。応接室に待っていたマウロさんの向かいに、ぼくを抱っこしたままイェレミーアスが座る。その横にルクレーシャスさんも座ると、マウロさんは深々と頭を下げた。

「お久しぶりでございます、スヴァンテ様」

「お久しぶりです。今日はお呼び立てしてすみません。平民区域の孤児院のことなんですが。そろそろ孤児院の子供たちの面倒を見る人間を雇いたいと思います。できれば夫婦で住み込みの方と、女性数人と、男性を若干名募集したいんですけど、どうでしょう。もちろん、女性数人は住み込みで構いません。男性は住み込みにすると、問題が起きそうでご遠慮したいのですが」

 警備面の問題は、ルチ様の加護で何とかなるので男性は通いでお願いしたいんだよね。女性と子供ばかりのところ、となると良からぬことを企む輩は湧きやすいものだ。

「雇うのは平民で良いのでございますか?」

「ええ。もちろん」

「では、すぐに見つかるでしょう。探しておきます、スヴァンテ様」

「よろしくお願いします、マウロさん」

 ぼくは競馬の事業化に付いて書いた紙を机へ広げた。

「えっと、次に事業化しようと思っているのはこれなんですが……」

「ふむ。拝見いたします。……ふむ。ふむふむ。……ほほう、なるほど……ああ、なんと……」

 食い入るように紙を眺め、それからマウロさんは目を閉じて背筋を伸ばした。

「……素晴らしい……まこと、スヴァンテ様の非凡な才能はこの世界の歴史を必ずや書き換えることになるでしょう……」

 前世の知識ですとは言えず、ぼくは笑顔のまま固まった。気を取り直して口を開く。

「それでですね、外門に近い場所で広い土地を買い入れたいのです。そこで競馬場を作ろうと思います。高位貴族の居住区近くは反対されるでしょうから、下級貴族の居住区で。南門辺りに、よい土地はないでしょうか」

「ふむ……跡継ぎが居らず爵位を返上した、シェーファー男爵のお屋敷跡などはいかがでしょうか。……この辺りになるのですが」

 マウロさんが広げた地図を覗き込む。イェレミーアスがぼくの腰へしっかり腕を回しているので、どれだけ身を乗り出しても落ちる心配はない。

「できれば、もう少し広い土地がいいんです。初めから広い土地を押さえておけば拡張が容易ですので」

 そう。収益が上がって来たら、そこに兼ねてより考えていた、レストランを作るのだ。子供を預かる意味で、貴族子息たちが交流するサロンを作るのもいいだろう。親は競馬に集中できるし、子供は幼いうちから他の家門の子息と交流できる。ぼくとしても、情報収集の場となりありがたい。まさに一石二鳥である。

「……そうなると、西南にあるこの辺りになりますが……ゼクレス子爵のタウンハウス跡なのですが……あまり、その……お勧めはしません……」

「なぜですか?」

「ここは、その……」

 言いにくそうにマウロさんは、人の良さそうな顔に吹き出す汗をハンカチで拭いた。

「幽霊が出ると、噂がありまして……」

「ゆう、れい?」

「ええ……」

「オレ、知ってるぜスヴェン!」

 マウロさんが帰って行った後、入れ違いでやって来たローデリヒはぼくらの話を聞くと元気よく声を上げた。コモンルームのテーブルには、ぼくが今朝焼いたスコーンがうずたかく鎮座している。そのスコーンの山を、ローデリヒとルクレーシャスさんが精力的に切り崩して行く。

 イェレミーアスは優美な所作でスコーンを一つ、手に取った。それからイェレミーアス好みにぼくが作った、紅茶のジャムを塗る。

 食べやすい大きさに割ったスコーンを口元へ差し出され、長い指へ触れないように気を払いながらむ。目を上げる。にっこりと微笑みながら、自らもスコーンを口へ運ぶ勿忘草色の虹彩が柔らかくしなう。イェレミーアスのものを食べている姿が何故かあまり「食事」という雰囲気ではないのは、ゆっくりと美しい仕草だからだろうか。

 ぼんやりと考えながら、差し出されたスコーンへ口を開く。四つ目のスコーンにキャラメルソースをくぐらせ、ローデリヒは指を指揮棒のように振った。

「ゼクレス子爵はさ、奥さんが亡くなってすぐに、三人の子供も原因不明で突然亡くなって自分も首を吊って自殺したんだよ。そんで、今でも男爵の幽霊が奥さんと子供たちの名前を呼んで屋敷跡をさまよってるんだってさ。いっとき騎士の間で旧ゼクレス邸での肝試しが流行ったくらいだぜ」

「……リヒ様は、やっぱりそういう俗な噂をよくご存知ですね」

「おう!」

 褒めてないんだよ、ローデリヒ。しかし騎士たちとそんな話をするくらい、仲良くしているということでもある。ゆえにローデリヒは騎士からの好感度が高い。だからこうして、騎士たちの間でしか囁かれていないような噂話も知っている。市井に近い公爵家令息。ローデリヒはそういうところが良いところなのだ。

「う~ん。もしよければ、もう少し詳しい噂を集めてもらえますか。リヒ様」

「いいぜ。何が聞きたいんだ?」

「何でも。ゼクレス邸の噂は全て。大したことない噂も含め、全て、です」

「よっしゃ、まかせとけ! オレの得意分野だぜ! 来月には収穫祭があるし、また肝試しに行こうってヤツが増えるかもな」

「収穫祭、ですか?」

「ああ。平民地域の収穫祭も楽しいけど、貴族地域でも神殿が仕切って収穫祭をやるんだよ」

「へぇ……お祭りかぁ」

「行きたいの? ヴァン」

 イェレミーアスの優しい声に、背中を預ける。

「ううん。肝試しに行く人が増えて、ぼくが買おうと思っている土地を荒らされたら困るなぁ、って」

「じゃあ、友達があの土地を買おうとしてるから汚すなって言っとくよ」

「内緒にしてくださいね、ってお願いしておいてください」

「おう!」

 おお、初めてローデリヒが頼もしく見える。張り切るローデリヒを眺めながら、フレートへ視線を送る。近づいて来たフレートに耳打ちする。

「ゼクレス子爵の情報を集めてください」

 貴族社会は情報戦の社会だ。貴族の中でも、そういった表に出ない情報をきちんと裏取りして売買している者がいる。大きな家門などは、そういう人間を独自に抱えていると聞く。そういう人間から、情報を買って来てほしい。そういう意味である。

「ゼクレス子爵……ですか」

「? そうです。どうかしましたか?」

「……」

 珍しく思案顔で少し顔を傾け、顎へ手を当てているフレートを見つめる。シャツの上にジレ、膝丈のズボン、白タイツ、ジャボタイにリヴレア。白タイツですら似合うのだから、フレートがどれほど美形か分かろうというものだ。うちのお仕着せが蝶ネクタイではなくジャボタイなのはぼくの趣味である。顔がいいってすごい。

「スヴァンテ様。実はゼクレス子爵は去年まで、情報入手先の一つでした」

「……ゼクレス子爵が、情報を売っていたのですか?」

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