御古神村での戦いの翌日、エイダは事後処理を篤也たちに任せて帰国した。
地球防衛部には新たに朱里が加わり、戦力的には及第点になったため、彼女が戻ってくるかどうかは微妙なところだ。
一抹の淋しさは感じるが、せっかく想い人が帰ってきたのだから、その相手と一緒にいさせてあげたいとは思う。
深天は学校に戻ってきた。その振る舞いは以前と大差なく、事ある毎に藤咲と舌戦を繰り広げているが、さすがに布教活動は行っていない。
いちおう地球防衛部に誘いはしたが、色よい返事は得られなかった。深天本人が言うには、それも悪くないとは思うが、本当にやりたいことが見つかるまではモラトリアムを満喫するとのことだ。
槇村は耀の強い要望もあって、その身柄は円卓支部の預かりとなっている。相変わらず口が悪く、あまり反省している様子はないが、ハルメニウスという後ろ盾を失ったこともあって今のところ大人しくしているらしい。
白雪は自らの意思で円卓のエージェントに志願した。ひとまず養成所に編入されて、そこで修練を積むことになるようだ。耀は残念がっていたが、おそらく白雪は白雪なりに雪菜の死に何か感じ入るところがあって、その道を志したのだろう。
他の面々に関しては、これといって特筆すべき変化はない。そもそもあれからまだ数日とあっては、大きな変化など起こりうるはずもなかった。
もちろん、希美に関してもそれは同様だ。朋子と約束したとおり、事件の後も陽楠学園に通っている。
とはいえ、この日はすでに終業式で、明日からは夏休みだ。
学校からの帰り道、セミの声をBGMにして、希美はゆっくり町中を歩いていた。
ブレザーの制服の上からマリンブルーのサマーパーカーを羽織ってフードを被っているが、今は顔を隠すことよりも庇としての意味合いが強い。
希美が暮らしているこの霞坂町は陽楠市とお隣の臨海都市の合間に位置する町で、駅前は意外にビルが多い。
ほとんどがビジネスビルのため、若者の遊び場としては適さないが、見た目だけは拓けた感じなので、地元の人々にはプチ都会と呼ばれている。
駅から自宅にしているマンションまで、いつもならば自転車で往復するのだが、この日は気まぐれを起こして歩いていた。
終業式ということもあって昼前には帰宅できるため、たまには自分が暮らす町並みをじっくり観察してみようと考えたのだ。自転車ではあっという間に通り過ぎていく町並みも、こうして歩いて眺めれば新しい発見があるかもしれない。
夏の陽射しは強く、町中には濃い影がくっきりと刻まれている。道行く人々は立ち込める熱気に顔をしかめていたが、希美はとくに魔術に頼らずとも、このていどの暑さは苦にならない。
メイン通りに併設された歩道には背の高い街路樹が立ち並んでいる。瑞々しい緑の葉を備えた木々は、灰色の町並みにやさしい色彩を加えていた。
そんな風景を眺めながら、希美はヴァイオリンケースとカバンを手にのんびり歩いていく。町は平和そのものだ。
叶うことなら、この平和な時間の中に雪菜を連れてきてやりたかった。
咲梨と昴が希美を連れてきてくれたように。
それはもはや叶わぬことだが、それでもこれまでの戦いで、この手で守れる人々もいるのだと希美は実感できていた。ならばもう気持ちを切り替えて前に進むしかない。せめて今度は別の誰かを守れるように。
考えごとをしながら歩いていると、道の先で見覚えのある人物が手を振っていることに気づいて、希美はふと足を止めた。
これまでならば瞳を輝かせながら小走りに近寄っていく相手だが、今はやや遠慮気味に、ゆっくりと歩み寄る。
「こんにちは、葉月くん」
希美は今も変わらぬ想い人に曖昧な笑みを向けた。
対する昴の様子はいつもと変わらない。
「こんにちは、希美ちゃん。今日は自転車じゃないんだな」
「たまには歩くのも良いかなって……」
なんとなくそんな気はしていたが、鉄奈は希美の秘密を黙ってくれているようだ。
とにかく何か話題を振ろうと、希美は無難なことを口にする。
「葉月くんは仕事ですか?」
「ああ、ようやく一仕事終えたところだ」
つぶやいたあと、昴は難しい顔をして付け足す。
「今回はいろいろと考えさせられる事件だったよ」
「そうなんですか……」
何やら深刻そうに見えて気になったが、部外者がおいそれと立ち入って良いこととは思えない。無理に聞き出そうとはせず、あえて口をつぐんだ希美だったが、昴の方から話を続けてきた。
「浮気調査だったんだけどな」
「えー」
肩すかしを食って声をあげた後、希美はふと気になって眉を寄せた。
「葉月くん達って、そういう依頼も受けるんですか?」
怪異を専門としているという話だったので、普通の探偵のような仕事はしないと思っていた。
「いや、普通は受けないんだけど、明らかに異能力が関わっていたからさ」
「異能力と浮気って……まさか、浮気を誤魔化すために異能を使っていたとか?」
もしそうなら呆れた話だ。しかし、実際にはもう少し複雑な話なのだろう。希美はそう推測したが外れていた。
「そうなんだ。なかなかすごい能力だったけど、その人は浮気を誤魔化すことにだけ使ってたんだよ」
「そ、そうなんですか」
「奥さんはお金持ちで美人なんだけど、その人は女子高生に手を出しててさ」
「それ、うちの顧問じゃないですよね?」
思わずそんなことを口にしてしまうが、篤也の不真面目さは演技のはずだ。
昴は少しだけ声を立てて笑うと、希美の両肩に手を置いて大真面目な顔で告げた。
「希美ちゃん、もしあいつに何かされそうになったら、すぐに言ってくれ。俺が全力で叩きのめしてやるから」
「え、ええ……」
その迫力に少しばかり身を引くが、昴は次の瞬間には素に戻って手を放している。
肩に残った微かな感触に名残惜しさを感じる希美。
どんなに焦がれても、この恋は叶わない。叶えようとしてはならない。仮に叶えようとしたところで、昴と由布子の絆には太刀打ちできない。さらに言えばあのふたりが結ばれないことを希美は望めない。いろんな意味で行き止まりの恋だった。
「しかし世の男どもは、なんでこうも女子高生って言葉に弱いんだろうなぁ」
昴がぼやくように言う。
「葉月くんは興味ないんですか?」
「もちろん現役の高校時代は興味津々だったぞ」
「もしかして脳のリソースの九割九分九厘九毛九糸を女の子の裸に傾けていたとか?」
藤咲の言葉を思い出して、ついついそんなことを口にする。
さすがに昴は苦笑した。
「いや、せいぜい三割だよ」
「そうですか……」
極めてあたりまえの話だが、希美の想い人もそういうことに少なからず興味があったようだ。
「今だって、せいぜい五割までだ」
「いや、それは増えてますし!」
希美が焦った顔を見せると、昴はくすくす笑った。
「冗談だよ。そんなことより今は気になることがいくらでもあるから、女子高生というワードにも特に関心はないな。希美ちゃんについては興味津々だけど」
「え……?」
意外な言葉に目を丸くすると、昴は不思議な眼差しを向けてきた。包み込むようなあたたかさの中にすべてを見透かそうとするかのような怜悧な鋭さが見え隠れしている。
「君が本当は誰なのか、俺はそれをずっと考えてるんだ」
「じ、実はわたしは未来の祖父の隠し子の娘で――」
誤魔化そうと慌てて捲し立てるが、昴は首を振ってやんわりと遮った。
「そんな言葉で納得ができるなら、最初から悩まない」
「いや、でも……」
「調べる方法はいろいろと思いつくんだ」
「え?」
「筆跡とか」
「へ……」
「指紋とか」
「ふぇ……」
「声紋とか」
「ち、ちょっと待って」
「最近じゃ、DNA鑑定って言葉も聞くよな」
「…………」
とうとう言葉を失くして青ざめる希美。あからさまに動揺していた。
そんな希美を見て昴が微笑む。
「どんな結果が出るかは想像が付くけど、結局それは謎を深めるだけだろうな」
「い、いや、わたしの筆跡とか指紋とか声紋とかDNAは極めてありがちなものなので、誰かに似ていたとしても、それはきっと他人の空似で……」
ムチャクチャ無理のある言い訳である。
「いいよ。俺は調べたりしない。希美ちゃんが嫌がるようなことはしたくないからな」
「葉月くん……」
どうやら昴は希美の正体について確信に近いものを持っているようだ。しかし、それはどうしたところで矛盾する。それも当然だ。矛盾こそが謎の答えなのだから。
しかし、今のところ昴には、その謎を暴くつもりがないようだ。
ほっと胸を撫で下ろす希美。
そこに車のエンジン音が近づいてきて、何気なく目を向けると、赤い車が歩道のすぐ脇に停車した。
「迎えが来たみたいだ」
昴の声を聞きながら運転席を覗き見ると、そこに由布子の顔が見える。
「乗っていかないか? 良ければ家まで送るように言うけど」
「いえ、今日は歩くと決めたので」
昴の厚意は素直に嬉しかったが、由布子の出で立ちを見て遠慮しておいた。どことなくめかし込んでいるように見えたのだ。おそらくは何かと忙しい昴がようやく仕事を終えたということで、ふたりでどこかに出かけるつもりなのだろう。
「それでは、わたしはこれで」
頭を下げて立ち去ろうとするが、昴が後ろから声をかけてきた。
「希美ちゃん、この間、君が電車で気を失った時のことなんだけど……」
希美は思わず硬直した。今の今まで、なぜか忘れていたが、その時希美は昴に向かって、うっかり想いを告げてしまったのだ。
顔はもちろんうなじまで真っ赤になるが、なんとか背中を向けたまま誤魔化そうと努力する。
「ご、ごめんなさい。あの時は意識が朦朧としていて、何があったのかもよく分かりません」
昴はやや間を空けてからつぶやいた。
「……まあ、それもそうか」
納得してくれたのか、そういうことにしておいてくれたのかは微妙だったが、それ以上の追求はなかった。
「じゃあまたな、希美ちゃん」
「は、はい」
軽やかな足音を響かせながら車の方へと駆けていく。
希美がようやくふり返ると、昴もまたドアを開けたところでふり返っていた。
明るい声が通りに響く。
「希美ちゃん、何か困ったことがあったら、いつでも俺に言えよ。どんな時でも味方になるからな」
言葉に相応しい頼もしい笑みを残して昴は助手席に乗り込んだ。
車内で中で由布子と何か二言三言会話を交わす様子が覗えたが、話の中身までは分からない。それでもふたりが明るく笑い合っている様子は見て取れた。
やがて車が走り出し、じっと見送る希美を残して遠ざかっていく。
希美は昴がふれてくれた肩にそっと手を添えた。
近づき、時にふれ合っても決して結ばれることのない関係。切なく淋しく少しだけ悲しくて、それでも温かい。
少なくとも不幸ではない。
望めば彼はいつだって、笑顔で言葉を返してくれるのだから。
希美はサマーパーカーのポケットからパラソルチョコを取り出すと、器用に包装紙から引き抜いて口にくわえる。これだけは夏の暑さで溶けないようにポケットに保冷魔術をかけていた。
走り去った車が角を曲がって見えなくなると、そちらに背を向けて歩き始める。
道を彩るように、ビルの脇に植えられたヒマワリが陽の光を浴びて輝くように咲き誇っていた。見上げれば青空の彼方に沸き立つような夏の雲。
フードを外して長い黒髪を背中に垂らすと、希美は微笑みながら、しばしその景色に見入った。吹きつけるそよ風がやさしく頬を撫でていく。当たり前にそこにありながらも、背中を丸めてうつむいたままでは決して目にすることのできないものだ。
雨夜希美と小夜楢未来。ふたりにとって初めてとなる高校の夏休みが始まろうとしていた。