ジョン・キケロは、ふわふわとまるで全身くまなくわたあめの様になった気分を味わっていた。
ジョンのいる場所は完全なる白で構成されている。一応白ということは認識できているから失明しているわけではない。それでもジョンの視界には【白】以外、何も見えていなかった。
新史二一三年。自動車の完全自動化や超高度AIによるサービス、老衰率100%を成し遂げるほど文明が発達した現在だが、それでも【純粋な白】というものはまだ開発されていない。
そもそも身体がふわふわとしている体験なんて現実に起こり得るものか。
しかし、ジョンはこの場所を過去に訪れたことがあるからすぐに思い出す。
「そうだ、ここは夢の始まりじゃないか」
ジョンがそう思った瞬間に、目の前の空間が歪み始めた。さながら万華鏡の様に幾重にも光輝きだした“ソレ”をジョンはじっと見つめる。
「お、来た来た。さて、今日は何を見せてくれるんだ?」
ギチギチとガラス同士が擦れる様な音が鳴りそうになりながら、空間に穴が開いた。穴はどんどん広がっていき、やがては世界が作り替えられた。
白いだけの空間だったジョンのいる場所は、高度な文明が築かれた街並みに変わっていた。
「久々の夢だ。楽しませてもらうぞ」
ジョンは道路のど真ん中に立っている。行きかう自動車達がジョンをすり抜けていった。横を見ればそこは雑踏。人々がゆったりと幸濃そうな顔で街を歩いて行る。上を見れば澄み渡った青空が。
こうもはっきりと見える夢も珍しい。ジョンが一年くらい前に見た夢はもっとくすんで人の顔なんかもモザイクがかかっているかのようにぼやけていた。
だからこそこのくっきりとした光景にジョンは心を躍らせていたが、じっと見つめているとその心は一気に冷め切ることとなった。
「アイスベーン285-1? なんだ、俺が住んでいる街じゃないか。ちぇっ、見覚えのある所を見たってなにも面白くない。夢なんだからもうちょっと現実味をなくしてくれてもいいだろうに……」
落胆した気持ちでジョンは夢を見続ける。
とくに現実と何ら変わりない光景だ。
代わり映えもしない。みなが特に何も考えないまま生きている様にしか見えない。ジョンにとって幸濃そうな顔をしている人達は、笑顔を浮かべた仮面をつけているのと同義だった。
「早く終われよ――」
悪態をついた瞬間、夢が動き始めた。さざ波が立ったかのようにいきなり雑踏がざわめき始めたのだ。波は次第に大きくなり、高波の様な人の勢いが街を飲み込んだ。
「何だ何だ!! 何が起こっている!?」
人々が見つめる視線の先をジョンも見ると、そこには猛スピードで駆ける自動車がいた。それも雑踏の方へと。
そしてそれを知覚した時には既に遅し。
自動車は雑踏に突っ込み、人々を吹き飛ばし、踏みつぶし、押し潰していた。
猛々しく燃える炎。阿鼻叫喚の波。脂でべたついた空気。焦げた道路。ひしゃげたビル。横たわる死体。赤く染まった世界。
あまりに現実離れした光景に、ジョンの意識は固まった。二十数年生きた中、これほどのむごたらしい時間を体験したことはないのだ。
「これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ……!」
夢。確かにジョンは夢の中にいる。それを自覚しようとジョンは懸命に言葉を漏らした。
しかしリアルすぎる景色、臭い、熱、音がこれを夢だと認識させない。この時をジョンの感覚は現実だと知覚させた。
ジョンはふわふわと、凄惨な現場へと向かう。
「待て待て待て待て」
向かう、というのには語弊があった。ジョンは綱で引っ張られるかのようにして現場へと強制的に向かわされているのだ。
ふざけるなという気分で一杯だったジョンだが、自力では透明の縄をほどけそうにはない。
“仕方ない”と、夢だからとどうにか割り切ったジョンは極力死体を意識に入れないようにして身をゆだねた。
現場に到着。遠くから見るよりも凄惨さがダイレクトに伝わってきていた。これが現実だったならば吐いていたに違いない。夢で良かったと若干心が軽くなった。
――のもつかの間。
ジョンの視界が強制的に死体に向けられたのだ。抵抗する間もなく、ジョンは自動車に身体が押しつぶされてぺしゃんこになった死体を見せられた。
血に染まってはいるもののかろうじて無事になっている顔を見て、ジョンは今度こそ全身が固まった
「あれは……、アリア……?」
その瞬間、ジョンの意識は外に向けて引っ張られた。空間は次第にくすみ始めて、物凄い早さで遠ざかっていく。
やがては電源が落ちた電灯のようにバチンッと辺り一面が暗くなった。
今ジョンが見ているのは見知った天井。
夢から醒めたのだ。
☆
「アリア、アリア、アリア――――!」
ドタドタドタッと、盛大な音を立てながらジョンは一階に繋がる階段を降りていく。道中、ジョンが思っていることは、妻アリアの無事。
数舜前のことが夢のことだとは分かっているが、あのリアルさに一抹の不安を覚えたのだ。
一階に辿り着く。リビングの扉の隙間からは、調整コーヒーのほろ苦い匂いが漂ってきている。それを嗅いだ瞬間、ジョンの心は少しだけ落ち着いた。扉の向こうにはアリアがいる。
「アリア!」
バタンッと扉を開く。そこには真っ白の直方体の食卓にて朝食を摂っているアリアが慌てているジョンに目を丸くしていた。
「どうしたのジョン、朝からそんなに慌てて。血の気が引いてるわよ。誰か親しい人が死んだみたいじゃない」
「あぁ……、そう、だな……。死んだと言えば死んだのか。なんにせよ良かった……」
「どういうこと?」
「いや、ちょっとな……。夢を見て……」
生きているアリアの姿にホッとしたのもつかの間、アリアから目を離して言葉を尻すぼませるジョン。その様子は、まるで悪いことをして隠している子供の様だった。
そしてアリア。ジョンの言葉に一瞬だけキョトンとし、その次の瞬間には眦を鋭くした。
「あなた、また昨日の夜に“薬”を飲まなかったわね! 何考えてるのよ!! 法律違反よそれは!」
「わ、分かってるって。ただ、昨日は疲れていて飲むのを忘れてたんだよ……」
「嘘おっしゃい! どうせまた、夢を見たいからわざと飲まなかったんでしょう!? あなた、自分が何をしているか分かっているの!?」
「……」
アリアの言う“薬”。それは寝ている間に完全に脳と筋肉、精神の疲労を取り毎朝を健康体でいさせるモノ。
薬を飲まず、脳を覚醒させる夢を見るということはその恩恵を受けないということにつながる。
「で、でもさ……聞いてくれよ……! 夢を見るってのは、そんなに悪いことじゃないと思うんだ……! あれを見るのは本当に刺激的で……そう、この退屈な毎日を排除してくれるんだ! いわば心の健康なんだよこれは!」
「何が心の健康よ……! あなたはいつもそう! 自分から危険なことに足を突っ込んで……! その『夢』って単語もどこかで見つけた有害図書から知った言葉でしょ!?
おかげで私も知る羽目になったし……どうしてくれるのよ!」
「そ、それについてはゴメン。けど、どうしても知りたくなったんだ……! これは仕方ないことなんだよ……! 人類ってのは『知りたい』という欲求で進化し続けてきたんだから……!」
「その進化し続けてきたはずの人類の果てが『今』なんでしょ……。今の人口は旧史に比べて0.06%。残された人類、私たちが絶えないためには健康で文化的な最高限度の生活を送るって決められているっていうのに……。あなた死にたいの?」
はるか昔、この世が“新史”になる前の時代。度重なるウイルスにより全人類のほとんどと文明が死滅した。しかし、生き残ったわずかな人類は非常に逞しく、少ないながらも文明を徐々に徐々に復活。
あらゆる細菌が蔓延る地上を捨て、何もかも遮断できる地下へと移住。エアフィルターを施して新鮮な空気だけを吸えるように、完全に遮断している。
そしてその過程で、人に絶対的に必要なモノは“健康”だと考えるようになり、二度と人類に危機を訪れさせないよう政府は“薬”を発行。その結果、人類は健康体のまま数百年を過ごし、老衰率100%を記録させているのだ。
だからこそ、“不健康”で命の危険になることは絶対に許されない行為。今の世の中、交通などの完全自動化に再生治療に至るまで、徹底した“命”の管理が行われているのだ。
アリアが怒るのも無理はない。
「お願いだから、危険なことはやめてよね。もし何かあった時、私はどうやって一人で生きていけっていうの……?」
「う……! ご、ごめん、今後からはもうちゃんと飲む……。だからそんなに怒らないでくれ……」
「はぁ、まったく……。本来なら毎日の報告義務を違反したってことで告白しないといけないのに……。ここは目をつむります。私もまだあなたといたいしね」
「ありがとう」
「それじゃああなたも早く朝食摂りなさい。今日は早いんでしょう?」
「ああ、そうだな」
重苦しかった雰囲気が解決。
そうしてホッとしたジョンは食卓に着き、縁のところを掴む。そしてその部分を引くと、2㎝角の収納箱が現れた。
ジョンは小さな針を取り出し、自分の人差し指に差す。ぷつり、と球体の血が浮かび上がりそれを収納の中に入れていく。
ポタリと一滴落ちると、自動でソレは閉じ二十秒後にはテーブル部分が開いて下からプレートがせり上がってきた。
朝食の内容は、茶色のブロックに緑色のブロック赤色のペースト、そして水。これがジョン・キケロに与えられる最適な朝食だった。先ほど送った
茶色のブロックを手に取り、モソモソと食べていく。味は特にしない。
「はぁ……、この味にも飽きたなぁ……」
「仕方ないじゃない、ソレも政府によって定められたものなんだから」
「まぁそうだけどさ……。あーあ、旧史の人たちはいいよな。ほっぺが落ちるほど、美味い食べ物を自由に食べていたって言うじゃないか。肉とか魚っていうやつ。外の世界にいるのに食べられないとか、それこそ“生殺し”ってやつさ」
「何、政府批判?」
「違う、これは意見だよ。薬にしたって俺たちの人生をすべて管理されてるようなモンだし、ちょっとくらい自由があっても……」
「“欲しがりません死ぬまでは”」
ぶつくさ言う夫の言葉を切るように、端的にアリアが謎の言葉を発した。
「何その言葉」
「ネットで最近流行ってるスローガンよ。政府の裏の顔だ――とか叫ぶ陰謀論者の言葉で、死ねば、自由になるんだからそれまではどんな不自由も享受しなさいだって。怪しい団体の怪しい言葉だけど、今のあなたにはピッタリでしょ?」
「うえっ……、キッツいなぁ。でも、アリアじゃないけどやっぱ、死ぬのが自由なんて考えたくもないよ」
「でも、危険なことはしているじゃない。今のあなたにはピッタリの言葉でしょう?」
「それはそうだけど、別に死にたくてやってるわけじゃないからね。俺はただ単純に、面白い景色とか体験をしたいだけであってだな」
「要するに、縛られるのが嫌なんでしょ。何もかも管理され、観察されるこの社会に」
呆れたようにアリアは言う。
もう何を言っても夫のこの『趣味』は変わらないと悟っているのだろう。だからこそ、社会という名のレールから外れないよう制御する。
「大体、仕事も趣味もパートナーも自由に決められるんだから、人生観察されるくらいいいじゃない。それで老衰出来るんだから大きなメリットでしょう?」
「うん……、まぁ……。でもなぁ、人間的じゃないというか……。昔の人はもっと『人について』考えてたって言うじゃん。倫理とか哲学とかさ」
「それでも、よ。倫理やら哲学やらは面白いとは思うけど、平穏に生きていくのが一番よ。だから変なことはしないでね」
納得のいっていない顔をするジョン。その様子に呆れたため息を吐き、アリアは立ち上がる。
「それじゃ私は先に仕事に行くから、あなたも早くご飯食べて学校行くのよ。社会教師さん」
「へーい」
空になったアリアのプレートは自動で収納されていく。それを見届けることもなく、アリアは玄関に行き、ジョンはその姿を見送った。
☆
昼下がり。ジョンは初等学校にて子供たちに歴史の授業を行っていた。教壇に立ち、タブレット片手にディスプレイに板書していく。
そんな時だ。
「―――――ッ」
次に文字を書いた瞬間、ジョンの視界がブレた。まだ書いていない空白部分に文字が見え、焦って目をこすると、その文字は消えている。
「せんせー?」
いきなりおかしな動きをしたジョンに、女の子が首をかしげながら尋ねる。
「あ、ああ。なんでもないよ。それじゃあ続きをやるね。――旧史に起きた事件。それは前に話したと思うけど」
「せんせー、なんのことですかー?」
「そんなのボクしらないよ?」
「え?」
ざわめきが教室に広がっている。ジョンが見る限り、この場の全員が知らないようだった。
「前の授業でちゃんとやったと思うんだけど……」
タブレットを見て授業内容を見返す。すると、何が起こっているかに気付いた。話している内容と、ページ画面の内容が違うのだ。そしてそれは、生徒たちのタブレットも同様。
そう、ジョンが言っていたのは映し出されていたページの先にあるのだ。まだ、生徒たちが知らないのは当たり前だった。
そのことを理解し、ジョンは生徒たちに謝る。
「ごめんごめん、勘違いしていたよ」
「せんせーだらしなーい」
「しっかりしろよー」
あはははは! と笑いが起こる。
「おっかしいな~。――じゃ、気を取り直して……」
授業は再開されていく。ただ、これは本当に勘違いだったのか。その僅かなしこりの様な物がジョンの中には残っていた。
数十分後。担当授業が終わり、ジョンは屋上へ。
プロジェクションマッピングによる偽の空模様を見ながら、仲の良い男の同僚――ベネに授業内で起きたことを相談する。
「――ってなことが起きたんだけど、なんだと思う?」
「お前の勘違いじゃないのか?」
「そうとは思えないからここに来てんだろ……。だって俺は絶対に旧史に起きた事件をやったと思ってたんだから。勘違いしたとすら思えないんだよ」
「うーん……」
食いかかるように言うジョンの言葉に、顎に手を当てて思案顔になるベネ。すると、何か思いついたのか、手を放して目をジョンに向けた。
「……それ、もしかしたら“デジャブ”ってやつかもしれない」
「でじゃぶ?」
「既視感って意味だよ。旧史の言葉だったかな。どっかの文献で見た覚えがあった気がする……」
「気がするって、また曖昧だなぁ。それでも国語の教師か?」
「仕方ないだろ。人類が減って、歴史そのものが曖昧になってるんだから。正確な言葉や情報なんて、この200年で築いたモノしかないの知ってるだろ。たかが、一単語レベルしかなかったモノを事細かく覚えてないっての。オレだって、そんなこと起きたことないんだから」
「まぁそうだよなー。俺も初めてだったもん」
お互い生きて二十七年。初めて体験する事象に困惑せざるを得なかった。
すると、困惑の影響かジョンがぽつりと言葉を漏らす。
「……やっぱ飲まなかったのがダメなのかね」
「何? なんのこと?」
「あ……」
食いついてきたベネに、あっ、と口に手を当てるジョン。その様子に訝しがり、ベネはジョンを問い詰めた。
迫る圧に思わずジョンは今朝のアリアとのやり取りを言ってしまう。
「信じられねぇッ! 薬飲まないなんてことあるか!?」
「ちょ、ちょ! 声が大きいって!」
「いやだっておまっ、こんなこと!」
「そのやり取りはもう朝やってるから勘弁してくれ! それに忘れてたんだからもう仕方ないだろ!」
「開き直ってんじゃないっての! どうせお前のことだから、わざと飲まなかったんだろ!?」
「うぐっ……!」
ぎゃあぎゃあ、と騒ぎまくる二人。喧騒は長く続き、気づけば放課後を告げるチャイムが鳴り響いていた。
「はぁ……なんだか気が抜けたわ。この件は忘れてやるから、今日の夜はちゃんと飲むのよ」
「分かってるって」
☆
その夜、再び朝と同じような食事を摂り、アリアの目の前で“薬”である錠剤を飲もうとするジョン。しかし、口に入れた瞬間ジョンは思ってしまった。
「(薬を飲まなかっただけで、夢だけじゃなくデジャブとか言う新体験もすることになった……。もし、このまま飲まずにいたらもっと色んな体験が……)」
夢だけが自分を自由にさせてくれる場だとジョンは思っている。耽溺していると言っても言い。だからこそ、これまで何度も飲まなかったのだ。
そこにやってきた今回の新体験。そう思ってしまえば、自由を渇望していたジョンの好奇心は止められない。
ジョンは“薬”を歯と頬の間に挟み、水だけを飲んで薬を飲んだように見せかけた。
「よし、ちゃんと飲んだわね」
「飲んだ飲んだ。俺、トイレ行ってくるから先に寝室行ってて」
「ん」
アリアが二階の寝室に向かう。その背を見て、ジョンは急いでトイレに行き、“薬”が溶ける前に吐き出した。
「よし、これで今日もきっと夢を見られるはず」
ジョンの顔はもうワクワク顔。寝るのが楽しみでいられないと言った感じだ。
そしてそのまま寝室に向かって、アリアの横に眠る。
「やけに嬉しそうな顔してるけど、どうかした?」
「いいや、なんでもないよ。それじゃお休み」
さてさて、見られるかなー。そう思いながら、ジョンはすぐ眠りについた。
すると、また再びあの純白の空間に出る。夢の始まりだ。
「よし、成功だ! 今日は何の――」
――その時だ。夢の始まりに異変が起き始めた。
真っ白な空間は粉々になったガラスのように、ボロボロと崩れ落ちていき、その中から真逆の“黒”が現れる。
ジョンの混乱は避けられない。こんなこと、これまで一度もなかったのだ。
そんな不安に駆られるジョンをよそに、白は完全に剥げ落ち夢の始まりは黒に染まった。
「夢も始まる気配がないし、体も動かない……。何が起こってるんだ……?」
何故か身動きできず、唯一動く首を使ってキョロキョロと周りを見渡すジョン。
すると、バンッ!とジョンの目の前に光が照らされる。あまりの眩しさにジョンの目はやられてしまった。
そして、カツカツカツといくつもの足音がジョンの耳に届く。目も見えず、ナニカの気配だけがある。それに一気に不安になり、ジョンはガタガタと体を動かした。
「な、なんだ!?」
『五月蠅い奴だ。拘束している意味が分からんのか?』
「――ッ!?」
夢なのに状況に即した返答がある。だからこそ、ジョンは気付いてしまった。この状況は夢ではなく現実であると。
『あまり手間をかけさせるな。絶対に起きないとはいえ、人が眠る横からお前を連れ出すのに苦労したんだ。代わりになるまで大人しくしてくれるとありがたい』
「代わり!? なんのことだ!? しかも連れ出しただと!? なら俺を早く解放してアリアの下に帰らせろ!」
怒鳴るジョン。その様子に、呆れた雰囲気を出すナニカ達。
『状況が理解できていないとは……。このような愚かな人類がまだいたとはな。果たして代わりにする意味があるのか』
『ちょ、待ってくださいよ! 俺がそんな愚かな奴に見えますか!? そこにいる俺は、俺とは違うんだからちゃんと生かしてくださいよ!』
ナニカが言った“代わり”の言葉。その言葉に焦るジョン――しかし、その声は拘束されているジョンのモノではなかった。
「
あり得ない出来事に冷や汗をかくジョン。目は既に回復しつつあり、この状況を早く理解したかった。
瞼を開く。頭上には光があり、周りは夢の始まりのように真っ白な背景。壁なんだろうが、白すぎて距離感が分からない。
ジョンのすぐ傍には白衣を纏った男性女性が乱立している。その中には、ベネの姿もあった。
「なん、でここにベネが……」
『彼は今回の功労者だ。“薬”を飲まずこの世界の真に気付きかけた者を我ら【暗黙協会】に報告する役を担っていた』
「世界の真……? 暗黙協会……? 何を言って……」
混乱し続けるジョン。そこに声をかけたのはベネだった。
『聞いたことないか? 政府の裏の顔の団体があるって。それが暗黙協会で、人類救済の組織。そしてオレはその一員なんだよ。ちなみに、オレみたいなのはどこにでも散らばっているよ。お前みたいな愚か者を見つける為にな』
『おい、そこまで言わなくていいだろう』
『別にいいだろう? もうこの男は用済みなんだから』
「よ、用済み…?」
『それが、お前が一番気になっていることの答えだ。顔を動かして右を見てみろよ』
「右……。――ッ!?」
恐る恐る右を向く。
――そこには、もう一人の『ジョン・キケロ』が目の前に立っていた。
「な、んで俺が……」
目の位置、鼻の高さ、耳の形、口元、顔のほくろ、体型、先ほどの声に至るまで、そこにいたのはまさしくジョンだった。
「やあ、もう一人の俺。初めまして、そしてありがとう。お前には感謝してもしきれないよ」
「ど、どういうことだ……!」
『お前が理解出来るように話すと、このジョンはこの地下のさらに下で暮らすお前のクローンなんだよ』
淡々とベネが人形に語りかけるが如く、無機質に言う。
「地下の……地下で暮らすクローン……?」
『はるか昔に、人類が絶えかけたことがあるのは知っているだろう? そこでオレたち暗黙協会が人類に“健康”そのもの与えるようにしたのが今の世界の始まり。だけど、どれだけ人を不慮の死から遠ざけても不慮の死そのものが無くなる訳じゃはない。もしかしたらまた人類存亡の危機が起きるかもしれない」
予測できない災厄に、心を引き裂かれそうな思いになっているのかベネの顔が悲痛に歪む。
そして大きく深呼吸をひとつ。息を全部吐き切った頃、ベネの顔は無機質なモノへと変貌していた。
『――だからこそ、オレたちは複製を作ることにしたんだよ。この俺達が生きている第一層を完璧な世界『上位世界』とし、そこで暮らす人間のクローンを生成。下にある『百八』の階層で、差異はあれど同じような人生を送らせているんだ』
「ってことは……もしかして、あの徹底的な管理は……」
『クローンの人生のために使っているのさ。そして上位世界の『自分』が老衰以外で死んだ時に代替として、都合の良いクローンを下層から送るようにしているんだよ。そうすれば、永遠に“人類”は絶えることなく歴史を刻んでいけるってわけ』
「………」
ベネの言葉が同じ言語だと思えなくなるジョン。それだけ、ベネの言っていることはジョンの理解を超えていた。
けれど、それでも理解できたことがある。
老衰率100%に隠された真実を――。
『ただ、これには一つ不具合があってな。それが、記憶の逆流。オレたちが配る“薬”を飲んでいないと上位世界と下位世界の記憶がリンクしてしまうことが分かったんだ』
「だから……、世界の真実を気付かせないために投薬の義務化を……」
『その通り。お前に起きていた『夢』がソレだ。『夢』ってのは、自分の記憶の整理とも言われていてね。つまり、お前が夢の中で見た死んだ
人工音声にも似た、感情のこもらない言葉の羅列を聞きジョンの顔が真っ青になる。
今にも吐きそうな気分の悪さを感じながら、ジョンはもう一人の『ジョン』を見た。
「じゃ、じゃあ……もしかしてアリアが死んだあの
「ああ、俺の記憶だ……!! 同じ人間でも、あの時の絶望はお前には分からないだろう……! 失意のどん底に落とされ、悲しみに暮れる毎日。アリアを思い出さなかったことはない……!!」
顔を悲痛に歪めながら、絶望の声をジョンに届ける『ジョン』。しかし続けられる声には少しばかり喜びが乗っていた。
「けど、だからこそお前がやらかして『上位世界』に行けるってなった時はもう心が爆発しそうなくらい嬉しかったよ……! 俺たちクローンは自分が代替品だと知っているからな。こっちのアリアが生きている以上、上位世界のアリアもまだ生きているというのは分かっていた」
同じ顔とは思えぬほど、見たことのない裂けそうな程の『ジョン』を見て、ジョンは心を失っていくのを感じていた。
「だから俺はどうしてもそっちに行きたかった!! もう一度アリアと逢って一生を過ごす為に! けど、下位世界の人間がそっちに行けるのは本体が不慮の死を迎えた時だけ……! 普通に過ごしていたら、死を限りなく遠ざけているそっちの世界に行ける可能性はないに等しい……!!」
『だが、入れ替わる事例は死以外にもある。それが、“薬”を飲まなかった愚か者の違反者たちだ。その該当者であるお前は今からこのジョンと入れ替わる。――簡単なシステムさ』
「ふ、ふざけるな……!!? く、薬を飲まなかっただけだぞ!? そんなことあってたまるか!」
『上位世界の人間に、世界の真実を気付かれるわけにはいかないんだよ。だって、普通に考えてみろ。もう一人の自分がいるって知ったら気持ち悪いだろう? それに、もしかしたら“自分の代わりがいるから”って怠けて歴史の歩みを止めてしまうかもしれない。そうさせない為に違反者は処すと決めているのさ』
「安心しなよ俺。これからも
「ふ、ふざけるなぁ! おい、離せ! 離せよ! 俺はまだ――」
拘束具を外そうと、ガタガタと暴れるジョン。しかし、外れる気配は一向にない。
『ジョン』は他の暗黙協会の人間に連れられ、ジョンから離れていく。
入れ替わり前の顔合わせが終了したのだ。
今後は、『ジョン』がジョンとして老衰するまで生きていくのだろう。
それを思い、さらに暴れるジョン。拘束具は更にジョンを抑えつけ、やがて骨が折れる音が響き渡る。
それでも暴れるジョンだが、それも時間の問題だ。
『――処理、開始します』
「あ……」
天井から伸びてきた注射針が首筋に添えられ、何も言わせぬまま、液体が体内に注がれる。
明滅する視界、朦朧とする意識。夢の始まりと同じ、ふわふわとした感覚がジョンに訪れる
そして視界が真っ暗に染まる瞬間、最期に『ジョン』の声がジョンに届いた。
「――ありがとう。死んでくれて」
☆
「あなたー! そろそろ起きないと遅れるわよー!」
「あぁ大丈夫、起きてるよー! 今からそっち行くから!」
「はーい!」
家に響く、ジョンとアリアの声。
ジョンが下に降りて、朝食の時間が始まる。
そのひと時が、ジョンには至福だった。
「どうしたの? そんな嬉しそうな顔して」
「いや、なんか幸せだなって。欲しかった未来を手に入れられてさ。――アリア、これからもよろしくな」
それからもジョンとアリアは、幸福に満ちた世界で時を共に過ごしていく。
――お互いが歳を取り、老衰していくその時まで。